風する猫も相及ばざる
高橋京希
 予備校に通う学生たちのカラフルな服飾がくるくると混迷の街路に漂着し始めた頃、空の夕闇はぎらぎらのネオンと柔らかい月光に負けて、まるで薄曇りの張った午後3時に思える。
 予備校は良い年した大人の塾である。着用の衣服は派手だが、建物から出てくる若者たちの覇気のなさ、顔色の悪さ土気色、人生そのものの街路に迷っているかのようだった。
 僕は通り過ぎてゆく学生たちを意識しすぎて藍色のマフラーを首に巻きなおしたり、黒コートのポケットに手を突っ込んだり、切れた煙草を燻らせる事も出来ずいらいらする風を見せたりしながら、学生たちに混じって出てくるはずの『彼女』を待ち続けた。
 吐く息は白く、目線の先にある気の早い赤と緑のネオンを霞ませる。
「先生」
 呆けていた僕は、だから、そばに彼女がすでに来ているのを見つける事ができなかった。
「お。お疲れ」
「今日は来ないのかと思っていたよ」
「でも来ている」
「うん」
 『彼女』はぎゅっと僕の腕に絡みつき「寒ぅい」と言った。僕が来ないはずだと知っているのに、何故来たのか彼女は一切触れようとしなかった。ただ、
「飲みに行きたい」
 とだけ甘えた。『彼女』のそれが今の僕には丁度良かった。
 こんなことしている時じゃない。それは痛烈に理解できているつもり。しかし「こんな事」に甘えてしまうのは僕の弱さと、弱さを受け入れる堕落しきった精神の証。弱さも甘さも堕落も頭まで漬かってしまえば疲労後に入る菖蒲湯のように心地よい。僕は今、ただ只管『彼女』に溺れていたかった。
 書斎で電源OFFのまま、今夜もパソコンは熟睡できる。書きかけの小説は未完のまま、今夜も僕は街灯りに消える。
 先月、小説の新人賞を獲った。
 とは言え角川新潮すばる講談社等々名立たる出版社様からいただいたのではない。小さな出版社の、読む人の限られた小説の賞を獲ったに過ぎない。しかしそれでも僕の人生の大きな一歩で進歩だった事には間違いない。例え、それが官能小説の賞だったとしても。
 『彼女』は態々はめていた毛糸の手袋を右手だけ外し、僕のポケットに冷たい手を突っ込んだ。
「今日ね、いきなり先生が授業と関係のない話をしたの。それがね、先生の書いた小説の元ネタの話だったの。夏目ソーセキ」
 きっと漱石の漢字は『彼女』の脳で変換されていない。『彼女』の人の名前を覚える適当さは秀逸で、僕などは肉体関係を持った今でも『先生』のままだ。
「僕は小説を書いている」
「じゃあ先生だね」
 そう合コンで初めて会った時以来、『彼女』は飽きる事無く僕をそう呼び続けていた。『彼女』の脳内で笑福亭鶴瓶は「ショウフクテエ・ツルベエ」であり、三遊亭小遊山は「サンユウテイ・コユウザン」であり、新渡戸稲造は「シンワタリド・イナヅクリ」なのかも知れなかった。ただ、この世界の曖昧さはそんな物事の総てが不確かでも朝日が昇り夕陽が沈むようにできているらしく、そうした世界の寛大さも手伝って僕の隣に居る時の『彼女』は良く笑い、多感だった。
「何笑ってるの?」
 その笑顔を観ていると、癒される僕は自然と笑みが零れるのだ。
「ソーセキ。違った? 夏目ソーセキでしょ? 多羅尾番内だっけ?」
「どうやったらそれと間違うんだ。あってるよ。夏目漱石」
「じゃあ多羅尾番内って?」
「昔の役者」
「松尾番内は?」
「たけし軍団」
「番忠太は?」
「『巨人の星』のキャッチャー」
「御庭番忠太は?」
「『魔神英雄伝ワタル2』に出てきた番忠太のパロディ・キャラ。ホッシーって犬型ロボットのボールを受ける」
「そっかそっか。またひとつふたつ、吾輩は賢くなりもうしたぞなもし」
「ぞなもし?」
「うん。あのね、予備校の先生が言ってたの」
 学校の先生はいつもただルーチン・ワークを日々繰り返し教科書を捲るか、内申書を良くしてやると偽って女子生徒のスカートを捲るか、してこなしてものだが、時々、それまでニュートラルか一速だったギアがいっきなりトップに入る事がある。そうなると後続車両を引き離し生徒ドン引きお構いなしで自分の思いのたけを捲くし立てたりする。『彼女』の本日の担当教師にその現象が起こったらしかった。
「私は君たちと同じくらいの頃、或る一冊の本に出会ってこの道を選ぶ事を決めたんだ。夏目漱石は偉大です。特に『坊ちゃん』なんか素晴らしい。え〜、君たちも、今は勉強で大変でしょうが、この戦争を勝ち抜いたら大学で、ゆっくりそういう小説を読んでみるのも良いのではないでしょうか。『吾輩は猫である』それぐらいは聞いたことあるでしょう。読んだ事がある人もいるかもしれ(以下略)」
「ぞなもしぞなもし五月蝿かったよ」
「もしかしてその先生、赤いシャツ着てなかったかい?」
「え? 何で判るの?」
「金八先生症候群ならぬ、坊ちゃん症候群だな、そりゃ」
 つぶやいた言葉はシャボン玉。猫の『彼女』は風に舞う虹色の球体に気をとられて、まどわされ、顔いっぱいの疑問符。しかし気侭な気風は気取らず騒がず、僕の呟きを無視して阿呆とかわいさの境界線ギリギリの笑顔でするりとかわした。
「夏目漱石ってそんなに凄いの?」
「凄いよ。……多分」
「小説家としてそう思うの?」
「思う」
「私は先生も先生なんだから凄いと思うよ。賞獲れたんだし。本出るんだし」
 自作の官能小説『吾輩はタチである』は、夏目漱石『吾輩は猫である』の粗悪なパロディ小説である。
主人公は小春と凛子という二人の大学生。文芸サークルで知り合った二人は子猫を世話する事を目的に同居を始めるが、徐々にお互い惹かれあっていく。アパートの隣の部屋には怪しげな科学の実験をしている青年、飯倉が。彼は毎晩聞こえてくる隣の女子たちの甘い会話に胸と股間を熱くしている。そんなある日、飯倉の遺伝子実験に二人が飼っている猫の『吾輩君』が迷い込む。後をつけた凛子は不注意から猫とともに実験に巻き込まれ、猫の遺伝情報を体内に刻まれてしまう。その日から凛子の様子がおかしくなっていき、ついには小春を盛りのついた猫のように誘惑する……。という物語。
今若い世代のヲタクたちに広まっている「萌え」という共感覚を意識して描かれた本作は某老舗官能小説出版社の新人賞を獲り晴れて出版の運びとなったんだにゃ(←「萌え」ポイント)。
 こんなはずじゃ、なかったのに。
 僕が書きたかったのは『吾輩はタチである』ではなくて『吾輩は猫である』みたいな作品だった。
「才能ないのかな」
 くだを巻きパープルタウンを飲み干す僕の横で『彼女』は優しい。
「今は新人官能小説家、勅使河原京都でも、いつかは大文豪、夏目ソーセキでしょ?」
「ろくでなしの僕に書けるかな」
「いつかはいつか来るからいつかなんだよ。来なかったらそれはいつかじゃなくなる。そうでしょ?」
 何の根拠も論拠もない『彼女』のオプチミズム溢れる言葉が僕に安らぎを与える。
 だから僕は、わざと彼女の判らぬ事を喋る。
「ろくでなしって、どういう意味か知ってるかい?」
「知らひゃぁい」
「包丁なんかを砥石で研ぐだろ? 普通は均等に研いで全体を鋭くするものだけど、腕が悪かったり、良く知らないで使ったりすると一箇所だけ研ぎすぎてしまい、その部分だけ凹んでしまったりして、かえって使い物にならなくなってしまう。その一箇所だけの凹みを『ろく』って言うんだ。そこから、ろくでもない、ってのは使いものにならないって意味になったんだ」
 僕は酔うとお喋りになるらしい。喋り上戸とでも言うのだろうか。反対に『彼女』はとろんとした顔つきでカルピスサワーを呷っている。最早聞いてない。
 しばし黙々と飲む。
 沈黙の持たない女と付き合うのは疲れるが、『彼女』は喋りたくない時は喋らない、気まぐれな性格なので楽である。
 ふと目をやると、隣のテーブルに座っているカップル、年若い茶髪の女性は泣いている。男は誰かとケータイで電話している。距離感があった。男は女に目もくれず、電話でどこか遠くにいる誰かと笑っていた。何故笑えるのか僕は不思議だった。
「次書く小説の構想練れた?」
「え?」
「あ、ああ。タイトルは」
「なんてタイトル?」
「『性豪少女』」
「へへへ、変なのぉ」
「変だけど、いいだろ? マイナー感もメジャー感もある」
「それが売れたら私もうそばにいれないね」
 『彼女』の勘の良さには驚いてしまう。僕は『彼女』以外に後10人の女性と交友があった。
「なんでさ?」
「有名人だから」
「君だって僕の中では充分有名人だよ。大きい存在だ」
「何で先生は私の隣にいるの?」
「僕はただ、君の笑顔の理由をアナトミーしたいだけだ」
「わけわかんな」
 『彼女』は弾けるように笑った。おあいそで立ち上がる。隣のテーブルのカップルはいつの間にか笑いあっていた。レジ前で出した数枚の夏目漱石も笑って見えた。
 その日の晩、当たり前のように『彼女』を抱いた。
 抱きしめる肌の徐々に湿りゆく、温もる心に息凍えさす。
「ねぇ、『吾輩は猫である』の猫って、名前どうなったの?」
「え?」
「だってそうでしょ。吾輩は猫である。名前はまだない。そんなスタートなんだよ。私ずっと、その猫が自分の名前を、アイディンティティを探す物語だと思っていたの。ねぇ、猫は最後、自分の名前を見つけるの?」
「どうだったかなぁ。読んだのはもう、かなり前の事だから」
 けれど、確か、最後、猫は死んだはずだ。
『吾輩は猫である』は、猫の視点から人間界の普遍的な矛盾を描いた物語だ。猫は果たして、ただの傍観者だったのか。猫自身に成長はあったのだろうか。
 思い出せない。
「猫に名前をつけるなら、何てつける?」
「君の名前をつける」
 『彼女』のぷっくりとした下唇を噛み締めて、そのまま、舌を絡め合う。猫の舌はざらざらして痛いと言うが、彼女の舌は温かく、ひどく官能的で気持ちが良い。ただ今は、猫のことなど考えず、それのみを、その答えのみを追いかけていたかった。
 1年後、僕の書いた新しい小説は世に出て、そこそこ売れた。
 その時『彼女』は僕の隣にいなかった。
 迷い猫みたいにどこかに消えて、それきり。
 吾輩は猫である。名前はまだ無い。
 いや、僕はその名を知っている。少なくとも僕にとってあの吾輩の名前は『彼女』の名前と同じで良い。漱石は「風する牛馬も相及ばざるが如し」と書いた。発情期の牛や馬の雄雌も、互いにそれを分かっていながら一方は追いかけ、一方は逃げる。増して人間はもっと複雑で、愛し合っていても喧嘩別れし、嫌いなのに一緒にいる事もある。
 僕は悲観しない。
 あの猫は「死んで太平を得る」と言っていたが、『彼女』はそばにいないだけで死んだわけじゃない。それはまだ彼女に成長の可能性があるって事だ。
 もうあと1週間で夏目ソーセキのお札から野口ヒデーヨのお札に代わる。これはそんな時期に書いた、僕と彼女の思い出だ。
 ちなみに、僕の成長も未だ途中である(多分)。


  おわり