魔女
mura
 ある朝目が醒めたら、俺は、五歳になったばかりの娘の凛々子のベッドの上で丸くなっていた。自分が何でこんなところに居るのかわからず、キョロキョロあたりを見回していたら、
「あ。おはよ、めぐ」
 凛々子が目をこすりながら挨拶した。
 ……めぐ?
 めぐはうちで飼っている雄猫のはずだが……えっ?
 顎を引いて自分の身体を見下ろす。
 なんと俺は、ふくふくした黒い斑のある猫になっていたのだった。
「なんじゃあこりゃあ〜ッ」
 思わず絶叫。
 もしかして俺、まだ眠ってるのか? 
 確かに夕べはしたたか飲んで帰ってきたが、酔って見る夢にしてもこりゃ酷すぎる。俺は度を失い、妻の名を呼んだ、
「日見子! 日見子、おい、ちょっと、起きろ! 来てくれ!」
「あっ、めぐ、どうしたの?」
 娘の腕をすり抜け、慌てて子供部屋を飛び出す。四肢を使った慣れないダッシュで、カーペットに爪を引っ掛けながら、ひた走る。距離感が掴めない。こんなに長い廊下だったか? 
 夫婦の寝室の引き戸を必死で前足で開け、中に飛び込んだら、妻の日見子は朝食の準備のためかもうそこにはおらず、醜悪な男が大の字で寝ていた。
 醜悪な男……って、俺かーい、と、自己ツッコミ。
 着物の前は大きくはだけ、大股開いてパンツ全開……こういうのは若い美人にだけやってもらいたい。見たくないものナンバーワン。
 顔はと言えば、薄汚い無精ひげ、不健康に痩せた色艶の悪い肌。くぼんだ目。
 悪相ってこういうのを言うんだなあ……と、しみじみ自分の顔に見入っていたら、かなつぼマナコがぱちっと開いて、こっちを見た。
 とたんに悪相の男(俺かよ)はバッと起き上がり、背中を丸めて、
「ぐぎゃあおおおぉぉぅううううっ!」
と、こっちに向かって叫んだ。
 うっわ、何と言う恐ろしい顔。普段鏡でしか自分の顔を見る機会がないが、俺、こんなみっともない顔も出来るのか。
「あなた、酔い醒ましのお水……あらっ、どうしたの?」
 日見子が冷水のコップを片手に現れた。
 単純なラインの服を着て、髪はひっつめ、化粧っ気のない顔をしていても彼女は綺麗だ。それもどこか神秘的な美しさがあるのだ。それは彼女の出生にも理由があるのかもしれない。
 彼女と知り合ったのはまだ俺が駆け出しの作家だった頃。取材しに行った先で、当時、まだ高校生だった彼女に出会ったのだ。両親を早くに亡くした彼女を育てたのは”拝み屋”を生業にしている祖母だった。百発百中の”失せ物探し””人探し”、亡くなった者の”口寄せ”、裏では恨みのある人間への”呪詛”まで請け負っていると言う噂があり、俺は彼女を取材して、『拝み屋妙子』シリーズを生み出した。これが回を重ねるにしたがって人気がうなぎのぼりに上昇し、俺こと諸岡之伸はいつしか人気作家の仲間入りをしていた。
 日見子の祖母が死ぬときに『くれぐれも日見子を頼む』と俺に言い、俺は『任せて下さい!』と、心から力強く請合い、日見子を妻にした。その言葉に嘘偽りはなかった。そのとき、は。
 最近の俺はどうも、その誓いを忘れがちだ。実は昨日は娘の凛々子の誕生日だった。なのに、英春社の担当編集者・伊藤に誘われるままにホイホイ銀座へ飲みに行き、キャバクラで馬鹿騒ぎを演じた挙句、『どうです? いいコでしょう?』と伊藤のヤツにオススメされたルミナちゃんと、店が終わってから某所でイイコトをしてきてしまった。
 帰宅したら午前三時を過ぎていた。珍しく日見子が怒った。声を荒げることはなくても、冷ややかに怒っているのが解った。
『普段なら我慢もします。でも昨日は凛々子の五歳の誕生日だったんですよ。あなたが帰るのをずっと待っていました……せめて娘の誕生日くらい……』
『うるせえ!』
 気が咎めるので余計カッとなって、俺は日見子の頬を張り飛ばした。そして酔っ払って気が大きくなっているのも手伝って、更に日見子を足蹴にし、
『ガタガタ抜かすなあ、俺がドブから拾い上げてやった恩を忘れたかあ!』
とわめいたのだった。
 日見子は更に口答えしたり抵抗する様子は見せなかった。ただ、じっと、切れ長のあの神秘的な瞳で俺を見据えていた。
 ……あそこから俺の記憶はフッと途切れて、目が醒めたら飼い猫のめぐになっていた、というわけだ。
 なおも俺、つまり今現在猫のめぐになっている俺にむかって、人間の姿をした俺が奇声をあげ、威嚇し続けている。日見子はさほど動揺した様子もなく、布団の横にしゃがむと、人間の俺の頭を、そっと撫でた。
「何を脅えているの? 誰もあなたをいじめたりしませんよ」
 人間の俺の様子はみるみる落ち着いてきた。そして、日見子の膝に頭をこすりつけ、うっとりと目を細めて、ゴロゴロ、ゴロゴロという、まるで猫が喉を鳴らすような音を立て始めたのだ。
 まるで猫?
 さっきの威嚇といい今の様子といい、もしかして、めぐの中に俺、俺の中にめぐが入っちまった、っていうあのパターンか?
 日見子は猫になった俺の方を見て、唇の端をつり上げて笑った。
 俺はギョッとした。
 拝み屋のバアサンの”不思議”の力は、孫である日見子にも当然伝わっていると考えられる。今まではその力を封印してきたが、昨日の一件でもしかして”堪忍袋の緒が切れた”のだろうか? 実は昨日のみならず、小説が売れ出してからはちょっと……ほんのちょっとだけ……調子こいて、俺はいろいろやらかしているのだ……。
「こーんなところにいたのォー? いけない子、めぐ!」
 いきなり右足を掴まれ、ぶらーんとぶら下げられて、俺は「ギャア!」と叫んだ。凛々子だった。めぐが凛々子にはよそよそしい態度を取るわけがよくわかった。子供は力加減がわからなくて困る。日見子はきつく咎めもせず「ダメよ、凛々子」と言いながら笑っている。瞳が残忍そうに光っているように見えた。俺は必死でもう片一方の後足を蹴って、凛々子の手から逃れ、縁側に飛び出し、庭へと逃走した……。

 ――庭も安全地帯ではなかった。池のほとりを回り込み、燈篭の上に駆け上り、塀に登って「やれやれ」とため息をついたとたん、どっかんこー、とばかり、何かの体当たりを受けた。塀から外の舗道に転げ落ち、慌てて上を見上げたら、もの凄く体格のいい「ホントにおまえ猫かよ?」と言いたくなるような恐ろしげな黒猫が、怒りに燃える目でこっちを見下ろしていた。どうやら我が家の庭はあの黒いのの縄張りらしい。モタモタしているとあそこから飛び降りて俺を潰しかねない勢い。
 俺は慌てて走り出した。とたんに鼻先を車が掠めて走っていった。車道に飛び出していたのだ。
 横断歩道を渡ると「かわいー」「ちょーかわいー」しか言わない女子高生の一群に捕まりそうになった。美少女ならともかく、ブスばっかだった。まっぴらごめんと走り続ける俺。
 狼狽していたせいか、ゴミ置き場に突っ込んだ。ここはカラスの縄張りだったらしく、嫌と言うほど奴らにつつかれた。よれよれになりながらなおも走っていると、散歩中のドーベルマンと曲がり角でぶつかって、飼い主が止めてくれなかったらズタズタに引き裂かれているところだった。

 満身創痍でよれよれになりながら、奇跡的に家に帰り着くことが出来た。二度と生きては戻れないかと思った。
 さっきの黒猫を警戒しつつ、そーっと塀に登り、開いているキッチンの窓から中へ入ろうとこそこそと覗いてみる。話し声が聞こえる。
「諸岡は本当に酷いヤツですね。僕、奥さんに同情します」
 あの声は。英春社の伊藤じゃないか?
 塀からキッチンの窓に飛び移る。
 伊藤の野郎、俺のこと呼び捨てでやんの。しかも図々しくも後ろから人の女房の両肩に手を置いて、そめそめとかきくどいてやがる。なんちゅう裏切り者だ?
 が、日見子は優しく、しかしキッパリした調子でその手を外して、静かな調子ながら、
「こういうことは困りますわ」
と、伊藤を拒絶した。いいぞ日見子っ。
 伊藤の馬鹿は、内心アイドルの滝沢秀明に似ていると自負している”一途な目つき”で日見子をまともに見つめ、
「僕の気持ちは解って下さってるでしょう?」
「ええ」
 冷然と答える日見子。わが妻ながらぞくぞくする。伊藤は思いいれたっぷりに両手を差し伸べながら、
「諸岡の『拝み屋妙子』がシリーズ化されたのは、僕が編集長に強力にプッシュしたからなのですよ。それもこれもあなたを愛するゆえ……」
「そうかもしれません」
と、日見子は頷いた。
「でも、あなたが押して下さらなくても、諸岡はいつか世に出たでしょう。私はあの人の才能を信じています」
 伊藤は絶句した。が、すぐ立ち直って、
「さ・作家としての才能は、確かに一流かもしれません。しかし、人として、夫としてはどうです? 昨夜遅くまで彼が何をしていたか知ってますか? 銀座のキャバクラ”ドーパミン”のナンバーワン・ルミナちゃんと、ラブホテルに……」
 あーっ、伊藤? おまえがセッティングしたんだ、おまえがっ。
 くっそう、罠だったのか。簡単に引っ掛かる俺も俺だが。
 が、日見子は心もち顔を上にあげて、
「あの人は……まだ売れない作家の頃、雨の中、車がエンストを起こしたとき、私には中に残るように言って、一人で車を押してくれました……水溜りに膝までつかって。大雨でずぶぬれになりながら。私は当時妊娠中でした」
 そういえば……そんなこともあったっけな。すっかり忘れていた。
 小説が売れに売れて、毎日楽しくて浮かれて、貧乏だった頃のことなんて思い出しもしなかった。
 日見子は続けた。
「家で揚げ物をしていたとき、かなり大きな地震が起こったことがあります。油の鍋がレンジから落ちて……それをあの人が受け止めてくれました。下に落ちていたら油がはねて私は脚に痕が残るような大やけどを負ったことでしょう。でも私を守ったせいで、あの人の方が、両掌にかなり酷いやけどを負いました……」
 俺は掌を見た。肉球がある……忘れてた、今はめぐなんだった。
 そんなこともあった。しばらくはやけどで手が痛くて、キーボードも叩けなかったっけ。
「あの人は本当はとても優しい人なのです。今は忙しくてそのことを少し忘れているだけ」
 日見子は寂しげに微笑んだ。
 俺の胸の奥から、感動がわきあがってきた。
 ごめん、日見子。俺が悪かった。
 今でも愛してるんだ、まだ間に合うかな……?
 そのとき、伊藤が問答無用とばかり、
「あんなヤツの話なんて聞きたくないっ! 奥さん、僕は、僕はっ!」
と、安手のメロドラマよろしく、日見子を抱きすくめた。
 こ、この鬼畜野郎、もう許せねえっ。
 俺は窓枠で弾みをつけて、伊藤に飛び掛り、思いっきり顔を引っ掻きまくる……つもりだった。
 が、そのとき、
 ――ボンッ
 という音とともに、伊藤のいたあたりで煙が立ち昇ったかと思うと、やつの姿が消えていた。
 えっ。
 伊藤のヤツ、どこに。
 キョロキョロあたりを見回した俺は、キッチンの床をぴょんぴょん飛んで逃げる、季節外れの蛙の姿を見た。
 伊藤……伊藤が蛙に……?
 日見子の視線も蛙の姿を捕捉し、彼女は口元に笑みを刻んだ。俺はぞっとした。
 窓枠のところで凍り付いている俺の方を、日見子は振り返った。
「あら、めぐ。そんなところにいたの」
 こちらに右手を差し伸べ、近づいてくる日見子。俺は逃げようとしたが、
「つーかまえたっ!」
 窓の外で声がして、俺の身体に虫取り網がかぶせられた。
 凛々子だった……。

 嫌がる俺を無理矢理引きずるようにして、凛々子は得意げに家中を練り歩いた。
 俺の残りの半生は、この子のオモチャで終わるんだろうか。絶望。
 凛々子は寝室の前で足を止めた。
 そっと引き戸を開ける……人間の俺(中身はめぐ)が、日見子に抱かれて、ゴロゴロ、ゴロゴロ言い続けている。凛々子はそれをじっと見つめていたが、
「ママー、パパはどうなっちゃったんだろうねえ?」
 日見子は目を上げ、凛々子に微笑みかけて、
「パパはね、ちょっとお疲れなのよ。今は休みたいんですって」
「ずーっと休んだままだったらどうするの? パパ、そんなんだと、小説書けないでしょう? そしたらざっししゃはげんこーりょーくれないんでしょう? そしたらあたしたち、ご飯も食べられないし、あと二十年残ってるろーんも返せないんでしょう?」
 凛々子、とっても現実的。実際家さん。
 日見子はまた微笑んで、
「そのときは、私たちがパパを守ってあげる番なの。パパが今まで私たちを守ってくれたでしょう? だから、今度は私たちが。ね?」
と、大事そうに、人間の俺の頭を撫で続けている……。
 凛々子は、自分の腕の中の猫を覗き込んで、
「あれ? めぐが泣いてるー」
「え? ほんとう? あら、どうしたのかしら、結膜炎?」
 日見子の心配そうな声。
「もしかしたら、猫も哀しかったり、感激したりすることがあるのかしらねえ……」

 ――ハッと目が醒めたら、俺は寝室で着物の前を大きくはだけ、大股開いてパンツ全開で寝ていた。
 そこへ、日見子がコップに冷水を持って現れた。
「あなた、酔い醒ましのお水……あらっ、どうしたの?」
「日見子っ」
 俺は日見子の両肩を掴み、
「今日は何日だ?」
「きょ、今日ですか? 十月二十四日ですけれど……」
 日見子は目を白黒させた。
「そ……」
 俺はバタッと布団に仰向けに倒れた。
「そうか、良かった……」
 凛々子の誕生日が十月二十三日。酔っ払って帰宅したのが翌午前三時……あれは夢だったんだ。良かった、本当に良かった。
 日見子は笑って、
「変な人。まだ酔ってるんじゃないの?」
「うん……夕べはすまなかった」
 そう言うなり、俺は日見子を布団に引っ張り込み思いっきり抱き締めた。
 心底、反省していた。
「私より、凛々子に謝って下さいな。私は朝ごはんの準備が……」
 日見子は照れ臭そうに、そそくさと髪をかきあげながら立ち上がった。
 引き戸が少し開いていて、めぐを抱っこした凛々子が覗いていた。俺も慌てて居住まいを正した。手招きをすると、日見子と入れ違いに、凛々子が入ってきた。
 俺は凛々子を膝に抱き上げ、
「凛々子、昨日は本当にごめんな。待っててくれたんだって?」
「うん。ママが三人揃ってお祝いするの、楽しみにしてたもん」
「本当にごめん。悪いパパだった」
 子供相手にこんなに謝ったのは初めてだ。 「今日、これから準備して、遊園地にでも行こうか?」
 凛々子は無邪気に笑いながら、首を横に振って、
「ううん、凛々子、遊園地はいいの。パパとママが仲良くしてくれてたらそれで幸せなの」
 なんていじらしい娘なんだ、凛々子。
 凛々子は可愛く小首を傾げて、
「でも、今度ママに酷いことしたら、次は猫じゃなくて、伊藤のおじさんみたいに蛙に変えちゃうからね?」

 ――めぐが、にゃおーん、と鳴いた。
(了)