水月
霞 桜蘭
私のご主人さまは、私を目の中に入れることを厭わないぐらい可愛がってくれる。
帰ってくると一番最初にすることは、私の名を呼びながら私がいつも丸くなっているソファにダッシュしてくることだ。
そうして、無骨な手で私の耳の裏、顎の下、そしてお腹を順繰りに撫でさする。
その瞳が柔らかく私を見つめると、私の目も自然に緩んで喉からは自然とゴロゴロという音が出る。
そうして私に暖めたミルクを与えてくれ、自分はキンキンに冷やしたビールを飲む。
お互いの好物を口にしながら、時折目を合わせて微笑み合う。
野球の時間になると、おもむろにテレビをつける。ルールとか詳しいことは分からないけれど、贔屓のチームが勝つと雄叫びを上げて私の頭をバシバシ叩く。負けると、クソーーーっとひとしきり頭をかきむしって、私の尻尾をひっぱっては逃げる私を追いかける。
どちらにしても私にとってはいい迷惑だったけれど、それでも私はそんなご主人さまが好きだった。
ご主人さまにこんな優しげな顔をさせられるのも、子供みたいに怒った顔を見せるのも、八つ当たりじみたことをするのも、それが私だからなのだと思っていた。そして、私が喉を鳴らす相手もご主人さま以外にはいなかった。


いつその均衡が崩れたんだろう。もっと早くその兆候に気づいていれば、何らかの行動に出ることができたかもしれないのに。気づいたときには遅すぎた。ドミノが倒れたら、もう倒れていくのを眺めているしかできないのと同じように。
人間は私たちのことをよく「猫は明日のことを考えられない動物だ」と形容する。
だからなのだろうか。だから私は心の隙間から流れ込んだ風がご主人さまをあるべき場所に押し戻そうとしていることに気がつかなかったのだろうか。
ある日のご主人さまはいつものように私を撫でる一連の儀式をした後、冷蔵庫にビールを取りに行った。その足取りが妙に頼りなくて、私は思わずご主人さまの足元にじゃれついた。不安にかられてニャーニャー鳴く私をご主人さまはそっと抱き上げた。
いつもならば私の柔らかな毛に顔を寄せるのに、その日は違っていた。ただ抱くだけで、なんの反応も返してくれないご主人さまを私は覗き見た。
ご主人さまは、私を見ていなかった。何かを悟りきっているように黒い瞳を前方に向けて、そのままじっとしていた。目の先は冷蔵庫だったけれど、ご主人さまはそれを突き抜けた先を見ていた。
やがて、ぽつりと言った。
「お前に縋ってるだけだっていうのはわかってるんだ。こんな生活がダメなんだってことも。一時のものじゃダメなんだってことも。全部」
お前というのが私だということを認識するまでに数秒かかった。
私がご主人さまに哀しませられたのは、きっとその時が初めてに違いない。
私との毎日は仮の生活。私が至福だと感じていた毎日も、ご主人さまにとっては慰めにしか過ぎなかった。羽を休ませた後はもう飛び立つのを待つばかりだ。
どうして一時のものに過ぎないものじゃいけないんだろう。それならばご主人さまは永遠を求めようとしているのだろうか。それは一体どこにあるんだろう。そんな高尚な考えは猫ごときの私には到底分からない。でも、ご主人さまはそれを見つけなければならないのだ。私を置いて。
「ミャー」
私は一声鳴いて、ご主人さまの首に頬をすりよせた。
「ミーシャ」
ご主人さまは私の精一杯の抱擁に答えてくれた。腕を伸ばして今までのどんな抱き方よりも頼りなく、私の体を抱いた。その腕はあまりにもかそぼくて、私は悲痛に鳴いた。
「ごめんな。ミーシャ。お前との毎日は楽しかったよ。満ち足りていたはずだった。でも、やっぱりどっかが欠けてるんだ。足りないものを求める自分が重くて、脱ぎ捨てたくてしょうがないけど、でもできないから、また探すしかないんだ」
私は分かっているというようにご主人さまの頬を舐めた。ご主人さまの目が細められたけれど、それは前と同じように慈愛に満ちたそれではなかった。どちらかというと、私を哀れんでいるように思えた。
「ごめんな」
最後にもう一度小さく詫びて、ご主人さまは家を出て行った。一度も振り返ってはくれなかった。


私は鉄橋下の小さな川原で雨をしのぎながら生活している。
暖かいミルクももう決して飲めない。ゴミ捨て場からゴミをあさって人目を忍んで食べる。野良猫の生活だ。
思うのは、私を捨てたご主人さまのことばかりだった。
明日のことを考えられない私は今まで気楽だったはずだ。でも、もはやそれでは気楽に生きられないことを私は知ってしまった。
前と同じような安穏とした生活を送るには、私はもっと退化した動物になって、過去のことを考えられない生き物になることだ。そうすれば、私は完全に一時の刹那だけに身を任せて、死にゆくまでなんの思い煩いもなく生きていけるだろう。
明日のことも過去のことも考えられるご主人さまは今幸せなんだろうか。
川の揺らめく水面には天上の月が一分も変わらない姿で映っている。
水月。
いつか消えるうたかた。
これではだめなのだとご主人さまは言った。何がいけないんだろう。偽の月であっても、今これはこんなに美しく、私の目の前でたゆたっているというのに。
「ニャー」
私は月に吼える狼のように、水月に向かって鳴いた。
水月はただ悠然と微笑んで水の上にその身を委ねているだけだった。