やわらかな夜
sleepdog
 背筋をぴんと伸ばした青い黒猫がブロック塀にのぼって、よく日に焼けた少年を見下ろしていた。
「そろそろ眠りたいか」黒猫は問う。
「みんなは……」
「“お前”は、眠りたいのか?」
「みんなは……――」
 黒猫は少年の虚ろな瞳を遮るようにして、青を煮詰めた安らぎの天幕を一帯に広げた。ところどころに流星の当たった焦げ跡が見える。天幕はずずずと少年を爪先まで包みこみ、みずみずしく潤うつぼみの形の膜に変わった。少年を眠りへ誘ない、新しい生命を注ぐ膜。やわらかな、夜のはじまり。

 黒猫は膜の中の少年に囁きかける。秋の匂いは、いち早く色づいたものが発し、周りへ移っていくと云う。少年は瞳を閉じ、こくりと頷いた。
 見上げれば、薄焼きのクラッカーを敷き詰めたような小麦色の雲間を、きらきらと鰯の群れが舞いながら、赤く染まった山の端をめざし帰っていく。それを追うようにウミ亀や糸巻きエイがのんべんだらりと泳いでいる。
 秋の空は夏の海の移り変わりであり、秋の海にはもう何もいない。この澄み渡った空の気色は、海の中が天に引っ越したことを気付かせないくらいつつましく、ちょうどよい湿り気を帯びているのだ。
 少年はこくり、こくりと頷き返す。

 話しこむ間に、秋の糸が空からすこんと垂れていた。黒猫が触ろうとすると、糸はつるつると宙をおどった。猫のひげを揺らすほどの風もなく。
「おちょくるつもりか」
 大人気なく躍起になって掴みかかると、栗の実が転がるような気配が毛先にたちこめた。糸は空から抜け落ちて、何百枚、いや何千――いや何億という真っ白い切符が降りまかれた。そのすべてが、行き先もなくただ一方向の矢印と、「曲折隘路」と印刷してある片道切符だった。
 少年が眠る濡れた膜に、白い切符が次々に貼り付いていく。その様子を黒猫はじっと見守っていた。手の甲を舐め、鼻頭を撫でる。外灯に明かりがともり、ぱたぱたと蛾の集いが始まる。膜の中の青い暗床と、膜の外の宵闇が次第に距離をつめ、近付いていく。


 金木犀の枝で休んでいたセキセイインコは夜露の肌触りを敏感に察知し、今宵どこかの空いた巣を探しに飛び立っていく。この季節の、この時刻、退屈なあまり家出したセキセイインコたちが数え切れないほど飛び交うのだ。そして、一本の立ち枯れしかけた銀杏の樹が最後の力をふりしぼり、彼ら彼女らに呼びかけて廃墟をごまかし立派な社交場を演じると云う。
 黒猫の軽妙な口ぶりに、少年はくすくすと笑い声を返した。膜に貼り付いた切符は、すでに半分以上が力尽きて剥がれ落ちていた。
 大勢のセキセイインコが枝葉に一斉に集まると、老いた銀杏は豪奢な黄金色のヴェールを纏い、月輪に張り合うほどの輝きを手に入れる。銀杏はその姿に自惚れて、くせのある秘蔵の美酒を鳥たちに振る舞い、一晩限りの宴は夜明けまで続く。そうして秋の匂いは、いち早く色づいたものから周りへ移っていくのだ。

 少年の宿る膜の中に、一枚の切符が潜りこもうとしていた。どれよりも早く、どれよりも強く――

 黒猫は膜の周囲をうろうろと徘徊し、夜道の匂いを確かめていた。ふと、塀の途切れた曲がり角に、いつの間にか大きな鰐が腹這いに構えていた。体中に細かな傷を負い、薄汚れた小さな布かばんを脇に巻いている。踏み出した前足が雑草を騒がせる。
「何の用だ」
「そいつを食わせろ」
 鰐は単刀直入に云う。
「腹が減ってるのか」
「そうじゃない。弟たちに持って帰るんだ」
「待て」黒猫は語勢を強めた。「これはいま眠っているんだ。起きたら、お前が望む食い物をたくさん与えてやれる。おとなしく待て」
「待てない」鰐は喉を低く唸らせる。「弟たちは夜明けを待たずに死んでしまう。そいつに注ぎこんでいる生命をいますぐ俺に寄越せ」
 黒猫は体勢を低く構える。
「こいつを奪ったら、秋は来ないぞ」
「そいつを奪えなければ、朝は来ないんだ」
「秋か」
「朝か」
 二人は険しい形相で長い時間にらみ合った。体格では鰐が圧倒的に優位だが、黒猫に飛びかれずにいた。全身が苦く痺れるように疲弊していて、威嚇するだけで精一杯なのだ。黒猫は何とはなしにそれを察したが、相手が相手だけに迂闊に動かず沈黙に徹し続けた。
 彼らの上では、セキセイインコの群れが次の社交樹を求め飛び交い、遊び疲れぬ嬌声を鳴り渡らせている。水を離れて身軽になったウミ亀たちが夜風の浮遊を愉しんでいる。空には、夏の呪わしい湿り気から解き放たれた、やわらかな世界が昏々と漂泊していた。

 やがて、目玉と口を奇妙な形にくり抜いたカボチャの馬車が到着し、美しく着飾った姫が道の外灯をひとつずつ鮮やかなオレンジ色に変えていった。その度に、羽毛を嗅いだような笑い声が姫の潤んだ唇からこぼれる。馬もカボチャも外灯もすっかりみんな姫に恋をしていた。
「あら、貴方たちはどうしたの?」
 姫は馬車を止め、小さな顔を窓から覗かせ、黒猫と鰐に呼びかけた。
「ずいぶん無粋な眺めね」
 仄暗く沈む膜の中の少年と、二体の黒い生き物と――それぞれを興味深げに見比べる。
「どっちがそれを食べるかを相談してるのかしら? 決まらないなら私が決めて差し上げるわよ」
「いいえ、姫様、どうかお気遣いなく」
 黒猫は丁重に頭を下げた。
「あらそう。ちょうどいいわ、貴方たちにも教えましょう。私ね、もうすぐ初めての世継ぎを産むの。聞いて、初めての世継ぎよ。国中のみんなが祝福してくれるの。行く先々で貢ぎ物を食べきれないほど貰っちゃって困るのよ。あんまり積み過ぎたら、この馬車がひいひい音を上げるわ」
 すると鰐の目の色が変わった。姫の馬車のほうに居住まいを直し、恭しい眼差しを向けた。
「姫様、その貢ぎ物を少し分けてもらえないでしょうか」
「あら、どうしてそうなるの。あなたは世継ぎを産まないのに?」
 姫は稚気を浮かべて愉しげに笑った。
「弟たちが死にかけております」
 鰐の切なる訴えに、姫の表情がすっと静まる。
「そう……それは可哀想ね。私を祝福してくれる住民が減るのは居たたまれないわ。いいでしょう。馬車の荷から好きなだけ持って行きなさい。――あら自力で運べないの。不甲斐ない兄ねぇ。よろしい、特別に貴方の家へ寄ってあげましょう。さあ乗って。案内なさい」
 鰐は、姫の家来の手を借りて馬車に乗りこむと、安堵の溜め息をもらした。そして家へ行く道を説明した後、窓からひょいと鼻を出し、黒猫の顔をじっと眺めた。
「ああ……これでまた朝が来る」
「ああ。これでまた秋が来る」
 互いにお礼を交わすような去り際でもなかったが、黒猫は背筋をしゃんと伸ばし、彼らの姿が見えなくなるまで見送った。バタークッキーのように大きな月がカボチャ馬車の行く手を照らし、姫は窓から手を伸ばし外灯にオレンジの色を振りまき続けた。
 黒猫はよく知っている。この大きな美しい月の名を――

 振り返ると、少年を包む膜の周囲に力尽きた片道切符が無数に散らばっていた。だが、ついに、最初の一枚が膜の中に到達しようとしている。黒猫はじりじりと身を焦がされるような祈りを続け、月がのっそりと南へ動いたのも気付かぬほどだった。
 空を賑わせたインコや魚たちの姿も、道を賑わせた馬車の車輪の跡も、あまたの切符も移ろう夜風にすべて消え、いつの間にか二人きりになっていた。
「怖いか」
「……何が?」膜の中からまだ声が戻ってくる。
「大丈夫、うまく行ってるよ」
「みんなは……――」
 いきなり膜がぶるんと震え、黒猫は思わず体を強張らせた。
 しかし、震えはそれきりで終わりだった。万一この膜が破けたら、少年の魂は散り散りになってしまう。慎重に様子を見て回ると、一枚の切符が膜の中の奥深く滑りこんでいた。いまの震えはこれが原因だったらしい。黒猫は胸を撫で下ろし、その場に丸くなった。
「うまく行ったよ」
 ――もう返答はない。
 黒猫は三日三晩同じ場所にうずくまり、息を殺して見守り続けた。


 膜を張った夜よりも一段と毛先が冴える夜が訪れた。
 手の甲を舐め、鼻頭を撫でる。外灯にオレンジ色の明かりがともり、ぱたぱたと蛾の集いがまた始まる。膜の中の青い暗床と、膜の外の宵闇がとうとう完全に一体化し、おぼろげな膜の輪郭を残すだけだった。
 膜の表面が少しずつ少しずつ割れ、中で眠っていた少年が起きようとしている。破れた穴から、蒸れた朽ち葉を掘り返す濃密な秋の匂いが漏れ出した。道端の雑草さえも儚く色づきはじめる。空も、山も、海も、四季の世界に住む者はみんなこの瞬間を待ち望んでいる。そして、今宵も大きな月が黒猫の頭上にたっぷりたぷんと垂れ下がっていた。
 やがて、秋の匂いに誘われたかのように、鰐の兄弟たちが祝福の花束と食べ物を抱えて黒猫のもとに現れた。みな元気そうな顔色をしている。姫の恩情によって無事救われたようだ。そう言えば三日三晩何も食わず、黒猫はひどく空腹だった。
「これから魚がうまくなる。空を泳いでうまくなる」長男の鰐が云った。
 大きな月が引っ張って、魚は天に舞い上がり、秋が深まればやがて重みで地に落ちるのだ。
「秋が来たんだな……」
 どちらともなく、右につぶやく。
「ああ、そうだ。――これほどに、月が誇らしいなんて……」
 どちらともなく、左につぶやく。
 黒猫は夏の名残の消えてゆく夜空を眺め、真っ白に煌めくハーヴェスト・ムーンの光を瞳に吸った。小さな体に溜まった濁りを解かすぬく水の匂いが胸いっぱいに染みこんで、ひげをふるふると揺らす。
 ブロック塀に昇ると、月はいっそう澄み渡り、やわらかな虫たちの音に包まれていた。

(おわり)