第1章 「新しい一歩」(1)
TOP | HOME 「セフィ」 手が空をつかんだ。思わず冷水を浴びたような恐怖にとらわれて、はねおきた。 セフィロトがまたいなくなってしまった。そんな悪夢の続きを見ていたのかもしれない。 そこは寝室のベッドの上だった。陽の光が部屋いっぱいに満ちている。 クリーナーロボのぶうんという振動音。 そして、挽き立てのコーヒーのいい香り。 ああ、いつもの朝の光景。私は帰ってきたんだ。セフィロトとともに暮らす生活に。 昨夜この家に戻った途端、玄関にへなへなと座り込み、その場で泣き崩れてしまった。 私の心ない言葉に傷つき、彼がこの家を出て行ってしまってから一ヶ月。 悪夢のような日々だった。 軍事クーデター騒動。セフィロトは光線銃に打ち抜かれて、何週間も目を覚まさなかった。 そして、樹の出現と消滅。 セフィロトとふたたび会えることはないのだと、絶望に囚われることが何度もあった。 それなのに、今彼は私の隣にいてくれる。そう思ったとたん、長い間の緊張が解け、押さえつけていた思いが一気にあふれだして、もう止まらなかった。 まるでたががはずれたような状態の私を、彼は何も言わずにずっと抱き寄せてくれた。 たぶん、そのままの格好で眠ってしまったのだろう。 彼に横抱きにされてベッドまで運んでもらったことを想像すると、顔や首が熱くなった。 シャワーを浴び、身支度を整えて寝室を出る。 ドアを開けたとたんに、クリンが入れ違いに入ってきた。 「オハヨゴザイマス、今日モイチニチ、ガンバリマショ」 「おはよう、クリン」 思わず笑みがこぼれる。なんだかクリンまで、いつもよりキビキビと働いている。張り切っているみたい。 ダイニングに入ったとたん、手足がじんとしびれて動けなくなった。 セフィロトがいる。 こうして窓辺の観葉植物に水をやっているセフィロトの姿を、この一ヶ月どんなに胸に描いたことか。 「セフィ。おはよう」 「おはようございます。胡桃」 なんだか彼の前に立つのがとても恥ずかしい。まともに見られない。 振り向いたセフィロトも照れているのだろうか。表情が少し硬い。 気を落ち着けようと、うんと息を吸い込んだ。 「わ、いい香り。早く飲みたいわ。コーヒー、注いでくれない?」 セフィロトは、テーブルにとんと両手をついた。そして、怖い顔でにらみつける。 「いやです」 「え? ええっ?」 私は愕然とした。 これってば、これってまさか。 また私をマスターと認めないなんて言い出すの? はじめからやり直しなの? 「胡桃、その前に話があります。座ってください」 「は、はい」 私はぼんやりとした面持ちで、言われたとおりにした。 「一晩かけて、家の点検をしました」 ゆっくりと言葉を吐き出しながら、冷たく私を見下ろす。 「クリンの定期点検が1月31日にあったのに、メンテナンスに出しませんでしたね」 「あ、わ、忘れてた」 「そのせいで、フィルターが目詰まりを起こしかけていました。ガラス用洗剤の補充もしていないし、何度も警告があったはずですよ」 「は、はあ」 「東の窓際のボストンファーンは日にきちんと当てていないので、成育が悪くなっています。それから棕櫚は水をやりすぎて、根腐れになる一歩手前でした。ただ水をやればいいってもんじゃないんです。 おまけに、冷蔵庫の中には注文したまま、ほったらかしの食材が山積みになっていました」 「……」 なにがなんだか、わからない。 いったい、どうしちゃったんだろう。まるで一昔前の嫁いびりのお姑さんのように、すっごく意地悪。 セフィロトは目覚めて以来、性格がすっかり変わってしまったのだろうか。それとも、 『ロボットは人間とは違うの、人間にはなれないの』 そんなひどい言葉を浴びせられた記憶を今になって取り戻して、私に対して怒っているのだろうか。 流砂のように次々と押し寄せる不吉な考えに、足元をすくわれそうだ。 「ご……、ごめんなさい」 「……いえ、いいんです」 私のおろおろする様子を察したのか、彼は急に困った表情になって口をつぐんだ。 「クリンはゆうべのうちに調整しておきましたし、植物はすぐ元通りになります。 ――本当はたいしたことでもないのに、すみませんでした」 さっきまでとはうって変わったしょんぼりした仕草で、私のお気に入りのカップに熱いコーヒーをそそぎ始めた。 「どうぞ。味が……変わってないとよいのですが」 そう言って真正面に座って、私の口元をじっと見つめる。その瞳に宿る緊張に気づいた。 やっとわかった。セフィロトは今、とても不安なのだ。 プログラムを書き換えた自分が、今までと同じようなコーヒーを淹れられるのか。 彼のせっぱつまった視線を感じながら、私はカップに手を伸ばし、こくりと喉を鳴らした。 「おいしい! いつもの味だわ、セフィ」 「本当ですか?」 「本当よ。……うれしい、あなたが戻ってきてくれて。またこのコーヒーが毎日飲めるのね」 そのことばを聞いたときのセフィロトの表情と言ったら。 この世の終わりみたいな暗い顔つきが、まるで固い結び目がすっとほどけていくように、柔らかい無邪気な微笑みに取って替わる。 「よかった……」 「いったいどうしたの?」 「本当は、この家に帰ってきたとき、すべて元通りなのが悲しかったのです。わたしがいなくても、この家はきちんと片付いている。わたしのすることなど何もないし、わたしは胡桃に必要とされていないように思えました。だから一晩中、家の中を探し回っていたのです、何か胡桃のために、わたしだけにできることはないかと。そして胡桃に言ってほしかったのです。あなたがいないとやっぱりダメだって」 「セフィ」 私はぽかんと口を開けて、それからクスクス笑い出した。 私がセフィロトを必要としていないなんて。何でそんなことを考えるのだろう。あれだけ、彼が目を覚ましてから「愛してる」って言ったのに。それこそ、犬槙さんに呆れられるくらい何度も何度も。 でも、それでは彼には十分ではなかったのだ。 セフィロトはまだ成長の途上。【愛】をことばだけでしか、知識だけでしか学んでこなかった。 りんごを触って、かじってみて、初めてりんごのことがわかるように、私たちがこれから、お互いを見つめながら生活を築いていくことこそが、彼にとって愛とはどんなものか学ぶ場になる。 「ねえ、セフィ」 私は彼の隣に席を移して、彼の肩にこつんと頭の片側を乗せた。 「この家が一ヶ月間、どんなに寂しかったかわかる? 誰ともおしゃべりをしないで、ひとりで作って食べるご飯がどんなにまずいかわかる? テレビだって一緒にソファに座ってくれる人がいなきゃ、見る気が全然しなかったわ」 「はい」 「どんなに照明を明るくしても、どんなにエアコンを暖かくしても、あなたがいないと、暗くて寒い心地は全然消えなかった。 それに、家中の葉っぱに水をやるのは、そりゃあ大変だったのよ。腕が痛くなっちゃったんだから」 「はい」 「この家は、セフィがいないと全然この家らしくなかった。私はあなたがいないと、全然私じゃなかった。 この家にはセフィが必要だし、私はセフィのことを必要だし、誰よりもあなたを愛しているのよ。わかってくれる?」 「はい、わかります」 彼が深くうなずくのを、身体の片側に感じた。 「わたしもこの家を出てから、ずっと暗くて寒くて寂しかったです。回りにあるすべてのものが大嫌いでした。そして自分のことが一番嫌いでした。でもやっとわかりました。わたしは胡桃のそばにいられるから、わたしなのです。だから、わたしは胡桃のことを誰よりも愛しています」 そっと、私に振り向く。 「言っていることが、おかしいですか?」 「ううん、それでいいんだよ」 私は涙をこらえると、伸び上がってセフィロトの唇にキスした。 「セフィ、もう一度、おかえりなさい」 NEXT | TOP | HOME Copyright (c) 2003-2005 BUTAPENN. |