第3章 「柔らかな迷路」(1)                  BACK | TOP | HOME




「胡桃……胡桃」
 重い瞼を持ち上げると、セフィロトの瞳がすぐ前にある。透き通ったきれいな茶色。心配げに、少しだけ金の色を帯びて。
 彼の目が私だけに注がれているのがわかると、私は悪夢から完全に覚め、思わず安堵の吐息を漏らした。
「いったいどうしたんですか。胡桃のうめき声が聞こえたので、飛んできたんです」
 起き上がると、まだ春の夜は明けやらず、青い闇が部屋を満たしていた。
 セフィロトはベッドの上で四つんばいになってかがみこむようにして私を覗き込んでくる。充電装置から出たときに、あわてて下着とシャツだけを身に着けたのだろう。すっと伸びた素足が白かった。
「苦しいのですか?」
「違う。夢を見たの」
「夢? 人間がレム睡眠のときに見るという、あの夢ですか?」
「おかしな夢だったわ、いろんな人が出てきて」
 ふたたび枕に頭をつけると、くすくす笑いながら目を閉じた。瞼の裏に、消え残った映像の断片がせめぎあうように浮かんでくる。
「ショッピングをしていたの。そしたら、一軒のお店の中から伊吹先輩が現れて」
「伊吹織江先生が?」
「お化粧が剥げてみっともないから、この化粧品を買いなさいってしつこく勧めるの。私はいらないって言ったんだけど、断っても断ってもしつこく追いかけてきて。そばにあったすごく長い下りの階段をジャンプしたら、空を飛び始めて」
「空を?」
「最初は調子よくモール街の屋根の上を気持ちよく飛んでいたんだけど、だんだんと高度が下がってきて、最後は地面にお腹がこすれそうになってしまったの。それでも、後ろからは伊吹先輩やさくらちゃんや、椎名先生や小松先生や水木園長まで追いかけてきて」
「え、そんなにたくさん?」
「ばたばたと手を羽みたいに動かして必死に逃げてたら、いつのまにか応用科学研究所の中に入ってきて。そしたらセフィが庭にいて、必死で呼んだんだけど、全然別の方を見てた」
「えーっ。わたしがそんなひどいことを?」
 セフィロトは見る見るしょんぼりした表情になった。
「すみません、わたしったらどうして、胡桃の声に気づかなかったんだろう」
「セフィ。私が勝手に見た夢の中のことに、あやまる必要はないのよ」
「いいえ、きっと私は普段から、胡桃に呼ばれても答えないような、いいかげんで不誠実なロボットなんです。だから胡桃の夢に、そういう姿で現れたのだと思います」
「そんなこと――」
 私はいったん口をつぐむと、「セフィ」と彼の名を呼んだ。
「はい」
「ほら、本物ならちゃんと答えてくれる。夜中でも私のうなされた声でも聞きつけて、こうやって飛んできてくれたじゃない」
「あたりまえです。胡桃の声は、どんなに遠くにいたってわかりますから」
 少し得意げに、胸を張って言う。
「ね、やっぱり夢の中とは違うのよ」
 私はうんと心地よく両腕を伸ばして大あくびした。
 夢の中で感じた不安で哀しい思いが、どこかに飛んでしまっている。彼と話すといつも、ポジティブな考え方に戻れる自分を感じる。
「さ、もうすっかり目が覚めたから、起きようかな」
「え? でもまだ、予定の起床時間より1時間27分も早いですよ」
「いいの。たまにはうんと早起きしてみるのも。シャワーを浴びてくるから、セフィはコーヒーを淹れておいてくれる?」


 シャワーのうんと熱い湯を浴びながら、私は悲しい夢の記憶までも勢いよく洗い流そうとした。
 さっき、ひとつだけセフィロトに話さなかったことがある。
 夢の中で現れた彼の隣には、SR12型シーダがいたのだ。セフィは思い定めたように彼女を見つめたまま、私がいくら呼んでも振り向きもしなかった。
 その場面が頭をよぎると、ちくんと痛みが突き上げてくる。
 あの夢は、私が心に抱えている恐怖をそのまま形にしたものだ。何度も否定して頭の隅に追いやって考えないようにしていたことが、夢の中で解放されたのだ。
 セフィロトにとっては、シーダこそが最高のパートナー。
 今はいい。私とセフィロトは互いを求めてやまない。だがどれほど愛し合っていても、私は老いていく。お化粧でも隠せないほど醜い姿になって。そして死を迎える。永遠に生きるセフィロトをひとり遺して。
 そのことにセフィロトもやがて気づくにちがいない。そして、自分とともに永い時を歩むことのできるパートナーを、いつしか求めるようになるはずだ。
 それは私ではない。
 今このタイミングでシーダが私たちの前に現れたのは、神の配剤ではないだろうか。私が取り返しのつかない間違いを犯す前に、引き返すようにと。


 シャワーを浴び終え、部屋着を羽織ってダイニングに入ると、セフィロトが近づいてきて、湯気の立つマグカップを私に手渡してくれた。
「きれいな空……」
「ほんとうです……」
 小さくささやき合いながら、並んで窓の外を見つめる。
 声を出すこともはばかるほど美しい鴇(とき)色の朝焼けが、東京ベイの上を覆っていた。乳白色の雲が、まだ昇らぬ太陽の光を受けて真っ先に輝き出す。
 雄大な景色。普段は感じないけれど、こういうとき私たちは地球という大きな惑星の上に住んでいるのだと思い出す。
 私たちは、黙ってコーヒーをすすりながら、海が小さな光の屑を集めながら時間とともにその色を変えていくのを見つめていた。
「春は曙。ようよう白くなりゆく山ぎわ、紫だちたる雲の細くたなびきたる」
 セフィロトが唐突につぶやいた。
「あら。『枕草子』ね」
「不思議です。春の夜明けはどうしてこんなに春らしく感じるのでしょう。同じ夜明けでも、春と夏とではどこかが違います」
「確かにそうよね」
「きっと、空気の色が違うのだと思います」
 「空気の色」だなんて。きっと少し前までの彼だったら、「春と夏では、太陽光線の強さと、温度と湿度による空気の透明度が違うからです」なんて言ったと思う。
 セフィロトはいったい、どこまで人間に近い感性を身につけていくのだろう。怖いくらいだ。
 私は思わず、全然ロボットらしくない彼の暖かくて柔らかい腕に横から触れた。
 それを合図と受け止めたのだろうか、セフィロトはにっこりと微笑むと私に軽くキスした。
 いつもならそれで終わりなのに、その日は終われなかった。胸にわだかまる不安にそそのかされ、もっと長く、強く彼の唇を求めたのは、私のほうだった。


  「わたしも、夢が見られるようになりたいです」
 テーブルに着くとすぐ、セフィロトがまた突拍子もないことを言い出した。
 今日はふたりとも【すずかけの家】の遅番なので、ゆっくりと朝食を楽しむ時間がある。
 ベーコンと春野菜のスープに、ロールパンにコーヒー、そしてセフィロトの大好きないちご。そういえば、彼が造られて最初に口に入れた食べ物が、いちごだった。あれからもう1年経つのだ。
「セフィは夢を見たことがないの?」
「ありません。充電中は緊急対応用以外の認識機能は全部停止していますから」
「人間で言えば、ノンレム睡眠状態なのかな」
「胡桃の話を聞いていると、夢がとても魅力あるものに思えます。非論理的で支離滅裂なのに、ドラマチックで芸術的です」
「そういえば、小説や絵画には、夢からインスピレーションを得たと言われるものがとても多いわね。ケクレはからみあった蛇の夢を見て、ベンゼン環の構造のアイディアを思いついたというし、数学の難問を夢の中で解いたという話もあったかな」
「夢を見ると、直感的なひらめきが生まれやすいと言われています。人間の脳には、膨大な無意識の領域があるのですが、普段は表層の意識が前面に出て、無意識を底に押しやっています。けれど、夢の中ではその領域が意識の妨げを受けることがないのです」
「ふうん」
「だからこそ、夢には人間の隠されていた深層心理が深く関係します。睡眠中、ランダムに発生した視覚映像がきっかけとなり、内的情動によって次々と無意識領域の記憶情報を取り出していく過程が、夢だからです」
「そうなんだ」
「胡桃はゆうべ、買い物に行きたいと言っていましたね」
「そうそう。そのときに化粧品を買わなきゃと考えてたんだわ」
「それに、4月の新学期が始まってから【すずかけの家】での仕事がずっと大変でした。その忙しさのせいで、みんなに追いかけられる夢になってしまったのでしょう」
「追われる気持になるほど、疲れていたのかもしれないわね」
「はい」
「すごいわ、セフィ。私よりもずっと、私の心の中のことがわかってるみたい」
「そんなことはありません。わたしのは、ただの知識だけです」
 彼は恥ずかしそうにうつむいた。
「知識だけでは足りない。人間とまったく同じように、私も体験したいのです」


 毎年四月になると、【すずかけの家】の教師たちは、慢性疲労と腰痛に悩まされることになる。ファッションに完璧な伊吹織江先生でさえも、その時期だけは髪をひっつめてトレーニングウェアで臨戦態勢を敷くくらいだ。
 それぞれのクラスが新学年に上がるための事務や作業は、二倍にも三倍にも増える。それに加えて重労働のタネなのが、新しく入園してくる四歳児クラスだ。
 乳幼児棟から移ってくる八人の子どもたちは、毎年これでもかというくらい手を変え品を変えて、問題を起こしてくれる。
 去年はアラタくんがその主犯格だったが、今年もそういう子たちが何人かいた。
 その日は、ユキナちゃんという名前の子がなかなか泣き止まない。夕方が近づくと、生まれてからこの春まで彼女を育ててくれた専任の養育師が恋しくなるらしいのだ。
 遅番の私たちは、「このままでは夜勤スタッフに引き継げないわ」と判断した。
 入園した児童が自分の育った乳幼児棟に行くことは、決して禁じられてはいない。むしろ最初の数ヶ月は、望めばできる限り行かせてあげる。いつでも帰れると納得することで、落ち着く子もいるのだ。
 私とセフィロトは裏手の森を抜けて、【すずかけの家】の同じ敷地内にある乳幼児棟に向かうことにした。
 セフィロトは今日の午後はずっと、ぐずるユキナちゃんを抱っこし続けている。腰痛にも慢性疲労にも縁がない彼がいてくれて、本当に私たちは助かっていた。去年の四月にはまだ教師の一員ではなかったというのが信じられないくらい、もうベテランの域に達している。
 コテージ風の赤い屋根の建物が見えてくると、とたんにユキナちゃんは足をばたばたさせ、セフィロトの腕からすべり降りた。そして自分の育った家に向かって、まっしぐらに走っていってしまう。
 セフィロトは数歩追いかけたが、そこで立ち止まった。
 ちょうど家のドアから、赤ん坊を抱いた女性が現れたのだ。
「ママ!」
 ユキナちゃんは大声で叫ぶと、駆け寄った。女性はバルコニーにしゃがみこむと、少女から赤ん坊を守るように半分体をそむけながら、片手でユキナちゃんを受け止め、そして頬にキスした。
「ユキナ、いらっしゃい」
 ユキナちゃんは一瞬きょとんと目を見張って、「おかえり」と言ってくれなかった【ママ】の顔をまじまじと見た。そして、その腕に抱かれている赤ん坊に目を留めた。
「ほら、あなたの妹よ」
 ユキナちゃんは、強ばった表情を浮かべながら、その小さな生き物を見つめ続けている。
 ほんとうは、妹ではない。そしてこの女性は自分のほんとうの母なのではない。幼いながらも、そういうことは徹底的に教え込まれている。
 これが、人工授精によって生を受ける子どもたちの宿命。私の夫の樹もそうやって育ったのだ。
 ついこのあいだまで自分の母親だった女性が、もう次の子どもを預かって養育している姿を目の当たりにする。残酷なようだが、そこから出発しないと彼らは生きていけない。
 ユキナちゃんの瞳に、みるみる暗い怒りの色が染み出してきた。
 いけない。
 私が叫ぶより先に、もうセフィロトが反応していた。赤ん坊を叩こうと振り上げた手をとっさにつかんで、そっと後ろから全身を抱え込む。
「どうぞ、中に入ってください」
「はい」
 促された養育師は、ちらりとユキナちゃんの方を一瞥すると、そのまま家の中に消えていった。
「ママ! ママぁ!」
「ユキナちゃん」
 セフィロトは暴れるユキナちゃんをしっかりと両腕で抱きしめていた。
「哀しいんですね、ひとりぼっちになってしまったように感じるのですね」
 諭すように言い聞かせる。
「この世で、自分を愛してくれる人は誰もいないと思ってしまったのですね。わたしも同じでした。でも、そうじゃないんです、ユキナちゃん。わたしたち教師はみな、あなたのことを愛しています。どうか、そのことをわかってください」
 声を震わせてささやき続けるセフィロトの背中がまるで泣いているように見えて、私はぼう然とした。


 明け方、セフィロトははじめての夢を見た。
 起床時間直前の最後の十分間に、あらかじめ自分の中に作っておいたプログラムが作動した。前日の記憶情報の中からランダムに選んだ映像を、感情中枢と組み合わせて、不定連鎖アルゴリズムによってひとつの情景に作り上げていく、というものだ。
 セフィロトの視覚回路に映ったのは、【すずかけの家】の庭だった。
 胡桃が、ひとつの木の切り株に腰をおろしている。
 セフィロトが呼びかけても、胡桃はまるで気づかぬように聖母の微笑みをたたえながら、じっと腕の中の存在だけを見つめている。
 そして、彼女の腕には。
 安らかに眠るひとりの赤ん坊が抱かれていたのだ。




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