番外編(1)  「ピュグマリオンの夢」                 TOP | HOME




 甘い香りがした。
 不思議だ。今まで嗅いだことのない匂い。頭がぼうっとしてくる。
 彼女の香水だろうか。犬槙は、ベッドを振り返った。ついさっきまで熱い夜をともにした女性が蕩けるような眠りのうちに横たわっている。
 酒の勢いで、付き合っていた女性のひとりを呼び出して、肌を合わせた。
 こんなことは初めてだ。
 犬槙にとって逢瀬はいつも、ひとつの芸術作品を仕上げるような細心さで行われるものだった。彼女の一番好きな花を用意し、最高の食事と一流のホテルをセッティングする。他の一切のことを忘れて彼女が楽しむことだけを考え、心からの愛に身を捧げる。
 それなのに、今夜はありきたりのホテルの一室で、最初に連絡のついた女性と一夜を過ごしてしまった。
 誰でもよかった。死んだ親友の妻、古洞胡桃の身代わりにさえなれば。
「どうかしている」
 眼の前の女性への罪の意識に耐えかねて、彼はひとりつぶやく。


『私は、セフィロトを愛しているの』
 胡桃は、涙をためた瞳でそう訴えた。
 AR8型セフィロト。深層に古洞樹の意識を持つ自律改革型ロボット。
 よりによって犬槙自身が精魂込めて作り上げた人形が、愛する人をふたたび手の届かないところにさらっていってしまうとは。
 僕はなんという、道化の人形師だ。
 目を覚ました女性を家まで送り届けたあと、犬槙は研究室に戻った。
 暗いメインルームに、コンピュータのランプが明滅し、壁にたてかけたカプセルには作りかけのロボットが並んでいる。
 彼はもうすっかり習慣になってしまったアルコールの壜を手にすると、作業台の上に腰かけて、口をつけてあおった。
「樹。僕も言いたいことが山ほどあったんだよ」
 手の甲で口をぬぐいながら、ことばを吐き出した。
「僕だって、おまえのことがずっと憎かった。胡桃ちゃんを何度おまえから奪おうと思ったかしれない。それをしなかったのは、おまえがいずれ死ぬことがわかっていたからだ。僕はただ待つだけでよかったんだからな」
 冷たい色の無機質の壁からは、何のこだまも返って来ない。犬槙はくすくすと笑った。
「やめた。馬鹿馬鹿しい。さすがにこんなセリフ、犬槙魁人らしくないな」
 ボトルを元通りにしまい、仮眠室へ行こうとして、ふと彼は壁際のパーツに目をとめた。
 それは、AR9型のための試作用の頭部だった。エナメルのようになめらかなパーツにはまだ人工の眼球も毛髪もなく、皮膚も表情筋もかぶせてはおらず、まるでほっそりした人形の頭のようだった。
 人形師。
 犬槙はふと、ギリシャ神話のピュグマリオンの伝承を思い出した。キュロス島の王ピュグマリオン。すぐれた人形師でもあった王は、理想の女性を彫刻によって作り上げて愛した。やがて女神アフロディテが彼の願いを聞き届け、その彫像に命を与えたという。
 もし胡桃そっくりのロボットが作れたら。
 彼はその思いつきを一笑に付し、考えから追い払おうとした。
 しかし、できなかった。甘美な香りのように、その恐ろしい考えは犬槙の脳を痺れさせ、侵食していった。


 次の日から彼は、昼夜を分かたず、新しいAR8型ロボットの制作にのめりこみ始めた。
 500万円を越える天文学的な資金は、AR9型開発のために国から与えられた予算をまるまる使った。恋人たちからの誘いを片っ端から断り、まるで何かに取り憑かれたようだと応用科学研究所の同僚に噂されても、意に介さなかった。
 閉じこもる彼を心配して、胡桃がセフィロトといっしょに訪ねて来たりしたが、もちろん一歩たりとも研究室に入れるはずもない。
 数ヶ月後、すべての工程が終わった。
 セフィロトのときの詳細なデータが役に立って、数回の試行を経ただけで、ロボットはまもなく完成の域に達した。
 カプセルからゆっくりと立ち上がるその体の、輝くばかりに白くなめらかな皮膚。豊かな乳房。黒く大きな瞳。涼やかな声。
「マスター」
「僕のことは、魁人と呼んでくれ」
 魅入られたように答えると、犬槙は古洞胡桃そっくりのロボットを胸にかき抱いた。
「きみを、今日からクルミと呼ぼう」


「魁人、起きて。朝ごはんですよ」
 朝、クルミの声で目覚める。
 犬槙は、シーツに隠れてころんと寝返りを打ち、幸福な予感にわくわくしながら眠ったふりをしている。
「こらあ、寝ぼすけ、コーヒーが冷めちゃいます!」
 シーツをはがしに来た彼女を逆に腕の中にからめとって、その顔にたくさんのキスを降らせる。
 あれから1年。犬槙は、クルミとふたりの生活に溺れていた。
 自宅に彼女を連れ帰り、ひとときも離れずに過ごした。
 外出するときは知った者に誰も会わないように、わざと遠くの映画館やレストランを選んだ。万が一にでも本物の胡桃にばったり出くわすわけにはいかない。
 そして夜は、暖かく柔らかな裸体に口づけ、抱きしめて思いを遂げた。
 AR9型の予算を流用したことがバレれば、研究所を追い出されるだろうが、それでもかまわない。どうせ、研究所にはもうほとんど行っていなかった。
 クルミさえいれば、もう何も要らない。


「クルミ。愛しているよ」
「愛、とは何ですか?」
「いっしょにいると幸せだと感じる想いだよ」
「幸せ、とは何ですか?」
「セフィロトは、作られて半年も経たないうちに幸せを理解していたよ。同じ人工知能なのに、どうしてクルミにはわからないの?」
「人間の感情はむずかしくてわかりません……。だって私はロボットですから」


 それを聞いたとき、犬槙は愕然とした。
 そう言えば、クルミは1年経っても、セフィロトのような複雑な表情を浮かべることができない。草木や動物に細やかな愛情を示すこともない。
 育て方が悪かったのか。
 それともまさか、樹の【人格移植プログラム】の組み込まれていないクルミには、セフィロトのように他の生き物との人格的な交わりができないのだろうか。
 樹の天才的な頭脳がなければ、自分にはセフィロトと同じAR8型を作り出すことすらできないのか。
 一度湧いた疑念は絶望へと変わった。いったん狂った歯車は元に戻らなくなった。
 所詮、クルミは胡桃ではない。そう頭の中でささやく声が日ましに強くなっていった。
「魁人。どうして笑ってくれないのですか?」
 悲しそうにクルミが言う。
 犬槙は彼女に触れることも笑いかけることもできなくなり、ただ酒に浸って真実から逃げるだけの日々を送った。愛が何かを知らなくても、愛が自分から失われたことだけは、クルミは敏感に感じとっていた。
「もっと以前のように、笑ってください。私に話しかけて」
「うるさい! あっちへ行け! この、機械め!」
 どこかから、甘く強い香りがする。彼はもう、半分狂いかけているのかもしれなかった。
「人間のふりをするな! おまえはいくら似せようとしても、胡桃じゃないんだ!」
「私はクルミです。魁人がそう名づけてくれたんです。私はクルミ。クルミです!」
「黙れえぇっ!」
 彼はとっさに近くにあったスパナを取って、ロボットの頭上に振り上げた。
「おまえは胡桃じゃない。胡桃じゃないんだ!」
 叫びながら、何度も何度も凶器を打ちつけた。


「あ……」
 犬槙は目を覚ました。
 彼は水蒸気で白く曇ったカプセルの中で寝ていた。内部の空気には、さっきからずっと感じているあの甘ったるい芳香が漂っていた。
「犬槙さん、どうでした?」
 カプセルがふたつに分かれ、ひとりの若い科学者が人の良い笑顔でのぞきこんだ。
 同じ応用科学研究所の後輩、苅谷博士。若いながらも、心理学、大脳生理学の分野では権威だ。
「とても素敵な夢が見られたでしょう。このうえなく幸せな気分になれましたか?」
 思い出した。苅谷は今朝、犬槙の研究室を訪ねてきて、新開発の【夢増幅装置】の実験台になってくれと頼みこんできたのだ。
 ストレスの多い現代人にとって、健康な睡眠はますます不可欠なものとなり、科学者たちの重要な研究課題となっている。
 寝ている間の夢をコントロールできたら。自由自在に自分の望む夢を見られたら。これは人類にとっての、まさに「長年の夢」を叶える装置だと言うのだ。
 入眠前の数分間、被験者が頭に思い浮かべたことを増幅し、電流刺激によって脳の記憶を活性化して現実の体験と同等のリアリティを付加し、さらに夢の内容に応じて幸福感や戦慄感を増幅する薬品を芳香剤として注入することで、本人の望む夢を100%確実に見られるという。
 犬槙が念じた夢はもっと違うものだったはずなのに、知らず知らずのうちに胡桃との幸福な日常生活を妄想していたというのか。
「犬槙博士。【夢増幅装置】の感想を聞かせてください」
「ばかたれ。とんでもない悪夢を見たぞ。自分の望む夢が見られるなんて、この嘘つき」
「え、そんなはずはないです。だって犬槙さん、寝てるあいだ、うれしそうにニコニコ笑ってましたし」
「……とにかく、ボツ。廃棄処分」
「そ、そんなあ。待ってください」
 元通り眼鏡をかけた犬槙は、情けない声を上げる苅谷を残し、すたすたと彼の研究室を出た。
 まったくとんでもない機械だ。被験者なんか引き受けるんじゃなかった。
 気分をすっきりさせようと戸外に出て、植え込みの木々の下に立ち、夕方の空気を吸い込む。どこからか薔薇の良い香りが漂ってきた。夢の中で嗅いだイヤな匂いとは雲泥の差だ。
 夢でよかった。
 よりによって自分の手でロボットを打ち壊すなんて。その生々しい感触は今でもはっきり手に残って、思い出すだけで身震いがする。
 自分は、根っからのロボット工学者なんだと思い知らされた。世界中のすべてのロボットが人類の役に立ち、それぞれ幸福になってほしいと願う。
 研究室に戻ったとたん、通信がはいった。
 驚いたことに、それは胡桃からだった。
「やあ、胡桃ちゃん、久しぶり」
「ええ? 昨日話したばかりですよ」
「あれ、そうだったっけ? なんだかあれから1年も経ったような気がするよ」
「昨日相談したセフィのことですけど、すっかり良くなりましたから。安心してください」
「そうかい、それはよかった」
「やっぱり、犬槙さんの言ったとおり心理的なものだったみたいです」
「心理的、ねえ」
 犬槙は笑い出した。
 将来、いくら最新型の優秀なロボットを自分のこの手で作ったとしても、心理的な原因で具合の悪くなるロボットなんて、このセフィロト以外にはいないだろう。まったく、たいしたヤツだ。
「今だから笑いごとですけど、昨日は大騒ぎだったんですから」
 画面の中の胡桃が、膨れっ面をしている。
 その顔を見ていると、犬槙はこれまで感じていたわだかまりが溶けていくのを感じた。
 僕はやっぱり、この胡桃ちゃんが好きなんだ。それだけは何があっても変えられない。
 そして、あの夢を見てもうひとつわかったことがある。
 どんなにそっくりな人形でも、人間はそれを愛する人の身代わりとすることは絶対にできない。似ていれば似ているほど、ほんのわずかな違いに絶望する。
 だから胡桃は、セフィロトを樹の身代わりに愛しているわけではない。セフィロトがセフィロトだから愛しているのだ、と。
 ばかばかしい。僕がふたりのことを心配してやる理由なんて、これっぽちもなかったのだ。
「じゃあ、全快祝いに3人で食事にでも行こうか」
「うわ、いいんですか? セフィも犬槙さんに会えて喜びます」
「日が決まったら、また連絡するよ」
 久しぶりに心が晴れ晴れと澄み渡っていく。
 もしかするとあの【夢増幅装置】は、いい夢を見るという意味では失敗作だが、それなりにプラスの心理的効果はあるのかもしれないな。次に苅谷に会ったら教えてやろう。
 ディスプレイの前から離れようとしてふと思いつき、犬槙はひとりの女性に電話をかけた。
 あの夢に登場した女性。罪滅ぼしというわけではないが、急に会いたくなったのだ。
 デートの約束を取りつけると、途端に彼の指がキーボードの上を忙しく動き始める。
 彼女の好きなピンクのデンファレを100本、花束にして送ろう。レストランはたまには地中海風にするか。ホテルは台場エリアの最上階スイート。
 細心の計画を立てながらほくそえむ犬槙魁人は、そのときまさに水を得た魚だった。







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二周年キャラ投票第5位、犬槙魁人です。
とっとさんの掲示板のカキコにヒントを得て書きました。