番外編(3)  「イカロスのいた空」                 BACK | TOP | HOME




 樹の指がふと止まった。
 暇つぶしに、【エリイ】の画面を次々と送っているときにあらわれた、何ということもない科学ニュース。


『日本最初のAI搭載人工衛星、落下』
  「百年にわたって地上400キロメートルの共軌道上を周回していた日本の科学衛星「イカロス」が、11日夕刻、日本近海の太平洋上空で大気圏に突入する。
  「イカロス」は、204X年5月に日本初の高性能人工知能搭載衛星として打ち上げられ、気象やプラズマなどの多目的観測用として活躍した。軌道寿命は200年として設計されたが、これほど早く落下することになったのは、予測より強い太陽風の影響で徐々に高度が下がってきたためである。
  「イカロス」の人工知能は、11日未明、『ミナサマ、サヨウナラ。ワタシハ、オ星サマニナリマス』というユーモラスな通信を最後に送ってきて、種子島宇宙センターのスタッフをしんみりさせた。
 その言葉どおり、天気がよければ本日午後6時ごろ、日本各地の東の空で、大気摩擦で燃え尽きる「イカロス」が観測されるかもしれない」


 それを読んだとき、樹はめずらしく表情を崩して笑った。
 百年も前の人工知能のことだ。たぶん最後の辞世のことばは、それ自体が考えたものではなく、開発者が冗談で教え込んだものだろう。
 「イカロス」という名前も人を食っている。鳥の羽を蝋で固めて作った翼で空を飛び、太陽に近づきすぎて落下したという、ギリシャ神話の人物の名を人工衛星につけるとは。
 樹は立ち上がると、東向きのベランダに出て、透き通った茜色に染まる空を見上げた。
 子どもの頃、夢想したことをふと思い出す。
 宇宙飛行士になって、大気圏突入に失敗し、そのまま蝋のように溶けてなくなる死を迎えることを。
 会ったこともない世界中の人々の、ただ幾人かが空を仰ぎ、流れ星のように燃え尽きるロケットを見て、名も知らぬ飛行士を悼んでくれたらいい。
 それが最高の死に方だと、あの頃は思っていた。
「お待たせ!」
 後ろから、妻の大きな声が響く。
 振り返ると、浴衣を着た胡桃が、少し恥ずかしげな笑みを浮かべて、くるりとその場で回ってみせた。
「夜が明けるまで待たされるかと思ったぞ」
 樹は、渋面を作って答える。
「えー。もう行かないなんて言わないよね」
「だいたい俺たち、どこへ行くことになってた?」
「ほら、もう忘れてる。隅田川恒例の花火大会よ。ちゃんと一週間前から毎日念を押してたのに」
「あの、人ごみがひどいところか」
 彼女は有無を言わせぬ勢いで、夫の腕にしっかりと両腕をからめた。
「やめたって言ったらだめよ。行くって言ったら行くんだからね。ぜぇーったい!」
 そのまま気乗りのしない樹を胡桃が引きずる形で、ふたりは駅に向かった。

 花火大会のせいだろう、都心行きのモノレールの中は、この時間にはめずらしく混んでいた。
 たくさんの乗客の人いきれの中で少し上気した妻の横顔を、樹はそっと見下ろした。アップに結った髪からひと筋、後れ毛が落ちている。
 この瞬間を網膜に焼き付けることができたらいいのに。自分の目が機械でないことが悔しい。
 たぶん、俺はもう来年の花火大会に来ることはできない。
 駅から隅田川沿いへの道を、東の空を時折仰ぎながら歩く。
 モノレールの中でも気をつけていたが、「イカロス」の落下はとうとう見えなかった。目を離した隙に上空であっという間に燃え尽きてしまったか。いったい何人の人間がその最期を見届けたことだろう。
「樹ったら」
 提灯で飾られた堤防の道を、胡桃が小走りに追いかけてくる。「ひとりでずんずん行っちゃうんだから」
「あ、すまない」
「私のこと、忘れてたでしょ。こないだも私と危うくはぐれそうになったことを話したら、犬槙さん大笑いしてたわよ。『どうせ奴のことだからロボットのことで頭がいっぱいだったんだろう』って」
 ぷりぷりと頬をふくらます彼女。
 こんなふうに胡桃の文句を聞けるのも、もうわずかしかない。定期検査で異常があったわけでもないのに、なぜだかそう感じる。彼のDNAに刻まれた残りの日はあと1年。いやもっと短いかもしれない。
 死にたくない。まるで永遠に生きるかのような顔をして、来年も再来年もこうして胡桃のそばに立っていたい。
 樹は知らず知らず、妻の肩に片手を回して、ぎゅっと抱き寄せていた。
「え、どうしたの?」
「胡桃。その……」
 次のことばを言う前に、ぽんぽんという大きな爆発音がしたかと思うと、大輪の花火が川向こうの夜空に上がった。
「わ、始まった!」
 胡桃が差したその指先からこぼれるように、無数の光のしずくが夜の闇に吸い込まれていく。空をまっさかさまに落ちていくイカロスのように。
「樹。今、何を言いかけてたの?」
「なんでもない。忘れろ」
 樹は不器用に笑むと、胡桃の問いかけにただ首を振った。


 AR8型セフィロトをなんとしても生きているあいだに完成させたい。
 心地よい夏の夜風、提灯の灯り、人々の歓声、胡桃の華奢な首筋の後れ毛を、俺がどんなに愛しく想っていたかを、新しく生まれてくる「生命」に伝えたい。
 そして来年の夏、この同じ場所で、俺がさっき言おうとして言えなかったことばを、セフィロトに代わりに言ってもらおう。【人格移植プログラム】は決して意識の表層に出すべきものではないけれど、それくらいの我儘は許されるだろう。
 樹は胡桃の後ろでいっしょに夜空を仰ぎながら、今夜のこの幸せな時すべてを心に刻みつけようと、目を閉じた。


「胡桃、早く早く。花火が始まっちゃいますよ」
 セフィロトが玄関で足踏みをしながら、せきたてる。
「ごめーん。髪の毛がうまく結えなくて」
 浴衣姿の胡桃はばたばたと走って、下駄をつっかけた。
「でも、セフィ。よく隅田川の花火大会のこと知ってたわね。教えた覚えないのに」
 モノレールから降りて川沿いに歩くと、堤防の上はいつものように、大勢の人でごったがえしていた。
 去年も、樹とここに来たんだ。
 そう思い出して、鼻がつんと痛くなった。
 こんなに早く別れが訪れると知っていたら、無理に引っ張って来るんじゃなかった。花火などではなく、彼の顔だけをずっと見ていればよかった。騒音に邪魔されない静かなところで、いろんなことを語り明かせばよかった。
 後悔の涙が目頭にあふれる。
 そのとき、後ろに立っていたセフィロトの両手がすっと彼女の肩に置かれた。
「綺麗だ。その浴衣、とてもよく似合う」
「えっ?」
 驚いて振り仰ぐ胡桃に、セフィロトの無邪気な視線がぶつかった。
「どうしたんですか? 胡桃」
「う、ううん。何でもない」
 空耳だったのだろうか。今、樹がしゃべった気がした。
 時間を切り取って、浮遊しているような不思議な心地の中で、胡桃はセフィロトに寄り添いながら、夜空に開く色とりどりの花火をいつまでも見つめていた。
 






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