小さなころからオレの身体の中には、蟲(むし)が住みついている。 奴はオレが気がついたときには、もうオレの中にいた。 運動会の徒競走で、あとちょっとで先頭を抜かそうとすると、奴はオレにささやく。 『なにを熱くなってんだよ。たかが学校の行事だぜ』 映画を見て感動しそうになったときは、こうだ。 『観衆を泣かそうとして作ってんだ。その策略にはまるのかよ』 国語の教科書で「走れメロス」を読んだときは、こいつは腹の中で七転八倒しやがって、オレはもうすこしで胃けいれんを起こしかけた。 合唱コンクールで級友たちが一生懸命歌っているときも、オレはあくびをしていた。 誕生会でもお別れ会でも、オレひとりだけがいつも浮いていた。 こんなオレだから、小学生のころから友だちはほとんどいない。たまにできても、それはオレに輪をかけて変わってる奴らばかりだ。 爺ちゃんの葬式でさえ、家族で泣かないのはオレだけだった。 2つ年上の姉貴は、オレのことを「血も涙もないやつ」と評する。 オヤジはオヤジで、「こいつは絶対にサラリーマンにはなれない。俺が面接官なら、目つきを見ただけで落とす」と宣言しやがる。 母親は、「あんたは幼稚園までは、絵本を読んで涙ぐむやさしい子だったのにね」と、しみじみ懐古する。 悪いがオレは、ガキのころの自分にまで責任を持てねえ。 ただ、こいつのせいで、どれだけ損をしているかはわかっているつもりだ。 勉強だろうが趣味だろうが、オレが何かに熱中しだすと、必ず奴は横槍をいれる。 奴がささやくと、途端にオレはすべてのやる気をなくす。真剣にやろうという情熱を失ってしまう。 だからオレは、今まで何かを全力でしたことはなかった。 心から喜んだり悲しんだり怒ったりしたことがなかった。 オレだって、こいつを追い出すためにあらゆる手段を尽くした。 しかし効果はなかった。効果がないどころか、オレが成長するにつれ、奴の手口はますます巧妙に、邪悪になった。 中学でずっと帰宅部だったオレは高校に入ると、背の高さを見込まれてさんざん勧誘されたバスケ部に入部した。 めずらしく邪魔をしねえなと思ったら、奴はちゃっかりと自分の一番の活躍の場を用意していたんだ。 最初はオレも努力したさ。みんなにとけこもうと一生懸命にやった。 だがこいつがいる限り、所詮オレには土台チームプレーなんてものはできっこなかった。 あがいた結果オレを待っていたのは、部員たちに背を向けて練習をサボるか、ひとりでフープに向かう毎日。 おかげで、3Pシュートだけは「スラムダンク」の三井なみにウマくなったが、こんな調子ではレギュラーになる日は永久に来ないだろう。 オレに言い寄った女もいなかったわけではない。 不思議とオレのようなタイプは、優しい男に飽きた可愛い系の女にもてたりする。 デートまでこぎつけたこともあったが、ここぞというとき、オレの中の奴はちょっかいを出す。 『バカか、おまえは。オンナなんかと並んで歩いてデレデレしやがって、自分がどう見えるのかわかってるのか』 最初のデートで女はオレをひっぱたくか、泣き出してしまうかだ。2度目はない。 こいつが体の中にいる限り、オレは一生結婚もできないだろう。 蟲ヤローのせいで、オレの人生はめちゃくちゃだ。 だが、オレは逆らうすべを知らなかった。 2年になって少しすると、学祭の季節がやってきた。 オレの高校は毎年6月に、校外にも開放するかなり大掛かりな学校祭が開かれる。 クラスの出し物の議論に、回りの連中があーだこーだと白熱する中、オレは教室の最後尾の指定席で、机の下に収まりきらない脚を通路にデンと伸ばして、 ひとり居眠りをこいていた。 「半澤くん。ちょっと半澤くんってば!」 女生徒の大声でオレは目を開いた。 いつのまにかホームルームは終わっていたらしい。そしてオレのすぐ目の前に、赤い縁の眼鏡をかけたショートカットの女が顔をにゅっと近づけてくる。 ああ。見たことある。クラスの行事に何にでも首をつっこみたがる、でしゃばり女。 たしか名前は、一ノ瀬ちひろ。 「あなただけなのよね。何の役も決まってない人。私実行委員長だから、困るの。今すぐここで決めてくれる?」 「…このクラス、何をするって?」 「喫茶店だよ、喫茶店。さっきの話し合い、何にも聞いてなかったの?」 「だったら、てきとーに看板持ちでも振り当ててくれ。ぼーっと立ってりゃできるヤツな」 「そんな役ないよ。せっかく新しいクラスがひとつにまとまるチャンスなんだから、みんなでがんばろうよ」 …こいつ、オレのなかの蟲の一番キライなタイプだ。 彼女は、前の空席に逆向きにまたがって、なおもオレの顔をのぞきこんだ。 「ねえ、半澤クンって下の名前なんて読むの。祐(ユウ)?」 「…たすく、だよ」 「フーン」 彼女はにやりと笑うと、持っていた名簿にシャーペンでしるしを入れた。 「決定! 半澤祐クンは、2年3組の学祭実行委員に任命されました!」 「お、おい」 オレは思わず素っ頓狂な声をあげた。「勝手にひとりで決めんなよ!」 「ちょうど、男子がひとりしかいなくて弱ってたとこなのよね。じゃ次の実行委員会からよろしく!」 一ノ瀬はミニの裾をひるがえして行ってしまった。 「おいおい、冗談じゃねえぜ」 あんなの、ありかよ。なあ、相棒。何とか言え。 あれ、ちょっと待てよ。 考えてみれば彼女との会話のあいだ、オレの中のあいつは一度も顔を出さなかった。 不気味だ。また、何かたくらんでるんだろうか。 一ノ瀬に名前を知られたことは、最大の失策だった。 「はんざわ たすく!」 ことあるごとに彼女はフルネームでオレを呼び、パワフルなキンキン声で怒鳴りつけた。 「今日こそ、放課後の実行委員会出席してもらいますからね。もう何回さぼったと思ってんの!」 「部活があるんだよ。もう何回言わせればわかるんだ!」 「今日顧問の石井先生に掛け合って来たもん。当分バスケの試合はないから学祭までは休んでいいって。レギュラーでもない半澤クンは、なおさらね」 この女、小さな身体のどこにこんな元気があるんだと感心するほど、いつも飛び回ってた。 放課後、窒息寸前まで首根っこをつかまれて、オレはとうとう実行委員会に出るハメになった。 いつもなら強い力をくれる蟲は、この日も完全に沈黙を守っている。 「メニューも決まった。仕入れ方法も。だけど、もうひとつインパクトがないのよねえ」 一ノ瀬は黒板の前でチョークを握りしめ、ふくれっつらをした。 「喫茶店はほかのクラスでもやるから、それなりの個性を出さないと、集客率はあがらないと思うの」 「個性って?」 「だから、なにかテーマを決めるのよ。峠の茶屋風とか、手作りケーキを入れるとか」 「いっそのこと、オカマ喫茶とか」 大爆笑。こいつら、いったい何考えてるんだ。 「半澤クン、何かいいアイディアない?」 気がつくと、一ノ瀬のことばに一斉にみんながオレを見ていた。 オレはぼそりと言った。 「ウェスタン…」 ちょうどそのときは、プレステで「ワイルドアームズ」をやっていた頃だったな。 「うわ。半澤クンがしゃべった…」 委員の女生徒のひとりが、信じられないという面持ちでつぶやいた。 言ったオレ自身が驚いていたんだ。 学校祭に賭ける青春なんか、一番ヤツの嫌うシチュエーションじゃねえか。 なんでこんなときに、あいつは邪魔しねえんだ。 「いいよ! それ。ウェスタン喫茶。西部劇の酒場みたいなセット組んでさ。ウェイトレスやウェイターもみんな、それ風のコスチュームにするの」 一ノ瀬ちひろは頭のてっぺんから抜けるような声で、はしゃいで言った。 その日からオレたちは、死ぬほど忙しい日々を送った。 「TAVERN」と書いた入り口の看板は、美術部の生徒に板切れに描かせて、それらしいものが出来上がった。 音楽室のすこし狂ったピアノを軽音楽部の奴が弾いて録音したBGMも、なかなか雰囲気が出ていた。 酒場風のカウンターや、ボトルの並んだ棚の背景は、クラス全員が遅くまでベニヤ板で作った。 片隅にダーツや射的コーナーを設置することも決まり、オレと一ノ瀬は日曜にわざわざ千葉の柏まで買出しに出かけ、駄菓子問屋で景品を仕入れた。 学祭当日、オレたちのクラスの喫茶店は大好評で、入るのに長蛇の列ができるほどだった。 後夜祭。 一ヶ月もかけて苦労して作った立看板や背景のセットが燃やされてできたファイアーストームを、オレは校庭の隅でぼんやりと見つめていた。 「はんざわ たすく」 オレは振り返りもしなかった。こんな呼び方をするのは、たったひとりだ。 「本当に、ご苦労様。大成功だったね」 「ああ」 「半澤クン、変わったよ。この一月で」 「え?」 「それまで、半澤クンが笑うところなんて見たことなかった。笑うと、すっごくかっこいいよ」 「あ…」 オレは、いつのまにかみんなといっしょに笑っていたのか。 ヤツがいる間、オレは一度だって人前で笑ったことがなかった。 「一ノ瀬」 「なに?」 「オレ、これまで自分の中に…」 「中に?」 「…いや、やめとく」 「何よ、それ。言いかけたことは言っちゃいなさいよ!」 「それよかさ。おまえ…」 振り向くと彼女は、いつもの赤縁のメガネをはずしていた。 揺れる炎に照らされて、思わず見とれるくらい一ノ瀬ちひろはキレイだった。 「なんで、そんなにいつもムキになって、ヒトにちょっかい出すんだ? オレには理解できねえ」 「私だって、本当は人のことなんかほっときたいよ。人は人。自分は自分。そう割り切っていたいよ。でも…」 彼女はくすくす笑いながら、オレのそばに坐った。 「私の中にね、「おせっかい」っていう蟲がいるの。その子のせいで、私はいつも人のことに余計な口出ししちゃう。小さいころからずっとそうだったの。 高校に入ってかなり抑えてたんだけど、2年になって一気に爆発しちゃった。 多分ね…、半澤クンと同じクラスになったせいだと思う」 オレはいきなり、大声で笑い出した。 一ノ瀬はびっくりして、目をまんまるにしている。 校庭にいた連中も、まるで珍獣でも見るみたいにオレを見ている。 笑いが止まらなかった。 やっとわかったのだ。ヤツがちっとも姿を現さない理由が。 おい、オレの中の蟲ヤロー。 おまえにはどうやら、天敵が現われたらしいぜ。 |