TOP | HOME


あなたが見えない


「美玖……。美玖」
 鼓膜を心地よく震わす彼の低い声。
 やさしく見つめる、深い海の底の色に似た彼の瞳。
 それさえあれば、何もいらなかった。

 美玖(みく)が彼と出会ったのは、短大の友たちに無理やり引っぱっていかれたライブハウス。
 そこで怜(れい)は歌っていた。
 不思議な声だった。魂の底からしぼりだすような、それでいて遠い昔を思い出させるようななつかしい声。彼女はたった一曲を聞いただけで彼のとりこになり、それからというもの毎晩通いつめた。
 怜のほうも、最前列でいつも熱っぽい瞳で彼を見ている長い髪の少女に、いつのまにか魅かれていた。
 ふたりはまたたく間に恋に落ちた。

 怜は仲間たちと、「ブルーカオス」というバンドを組み、インディーズで活動していた。
 ベースギターを買うために深夜までバイトし、明け方になるとやってくる彼のために、美玖はいつも熱いコーヒーを沸かして 待っていた。
 原宿でストリートライブをするときは、両腕に抱えきれないほどのおにぎりと、はちみつ漬けのスライスレモンを持って応援に行った。
 メジャーレーベルでのCDの発売が決定したときは、湘南まで何台もバイクを連ねて、みんなで海に向かって吼えた。

 怜は美玖を抱くとき、ずっと彼女の名前を呼び続けた。
 彼女の頬に口づけしながら、やわらかい髪を愛撫しながら、彼はその甘く低い声で、何かに飢えた子どものまなざしで、美玖を恍惚の高みに押し上げた。

「美玖……。美玖……」

 デビューして半年後、「ブルーカオス」の3枚目のシングルは発売第1週でいきなりチャートインし、その数ヶ月後に出したファーストアルバムはトップセールスを記録した。
 街中で怜の歌声が流れ、テレビで怜の姿が見られるようになった。
 「ブルーカオス」のボーカルとしての怜は、青い髪を騎士の羽飾りのように逆立て、濃いシャドーを入れ、まるで野獣のように美しかった。
 美玖は、彼の出るすべての番組を録画し、彼の載る雑誌はすべて買い漁った。
 忙しいスケジュールの合間を縫って、怜は美玖に会いに来た。
 化粧を落とした怜は、整った顔をしているだけの、痩せたどこにでもいる若者だったので、ふたりは堂々と腕を組んで街を歩いた。
 ベッドの上で抱き合うときの、彼女だけに向けられる怜の声とまなざしで、美玖はどんな孤独も忘れることができた。

 セカンドアルバムがミリオンセラーとなってからほどなくして、怜はほとんど姿を現さなくなった。
 たまに会っても、疲れきった様子でぼんやりと呟く。
「新曲ができないんだ」
「今日も、コウとドラムのことでけんかしちまった」
 美玖は、彼の口から今まで聞いたことがなかった仲間への悪意の言葉が発せられるのを聞いて、心がうずいた。

 「ブルーカオス」の全国ツアーが始まった。
 東京ドームでのライブも決定した。
 だが、美玖はテレビに映る怜の眼が、心なしか沈んでいることに気づいた。
 ある日美玖はいたたまれない気持ちで、会社を休んで、関東の地方都市のコンサートに行った。
 花束を持って会場の裏に回ると、ちょうど大勢のファンにもみくちゃにされながら、「ブルーカオス」のメンバーが通用口から出てくるところだった。
「怜!」
 彼女の澄んだ声は、怜の耳に届いた。一瞬目が合った。
 しかし、彼はうざったそうにそのまま顔をそむけて、ワゴン車に乗り込んでしまった。
 その日から、美玖は怜と会わない決心をした。

 1年がたった。
 「ブルーカオス」は今や、アジアに進出するほどの国際的なスターダムにのしあがっていた。
 美玖は、こっそりと職場を変え、アパートを移った。
 怜が使っていた歯ブラシも、茶碗も、着替えの下着も全部処分した。
 彼につながるすべてのものを、忘れようとした。
 しかし、忘れることはできなかった。
 街に出れば、「ブルーカオス」のコンサートのポスターが貼られている。
 あちこちの店で怜の歌声が耳にとびこんでくる。
 職場に行けば昼休みに、彼女と怜のことを知らない同僚が、彼の写真が載った雑誌のグラビアを読んでいる。
 電車の中では、声高に女子高生たちが怜の新しい恋人の噂話をしている。
 テレビをつければ、CMにBGMに、彼らの曲が聞こえてこないチャンネルはなかった。
 美玖は、怜の表情が冷たく、いらだったものに変わっていることに気づいた。
 その深い色の瞳は鋭利な刃物のようだった。
 彼女を憩わせてくれたはずの声は、とげとげしく世の中の狂気と憎悪を告発していた。
 不思議なことに、彼が変われば変わるほど、人々は彼に熱狂した。
 こんなにうつろな彼の瞳を見たくなかった。それなのに見えてしまう。
 こんなに冷たい彼の声など聞きたくなかった。それなのに聞こえてしまう。
 美玖は毎日地獄の中を生きているようだった。

 しかし、ある日突然やすらぎが訪れた。
 街を歩く美玖の目に映る怜の写真は、霞がかかったように白くぼんやりと見えた。
 スピーカーから聞こえてくる怜の声は、分厚い緞帳の向こうのようにくぐもって、とぎれとぎれだった。
 よかった。これでようやく彼のことを忘れられる。
 美玖は交差点のまん中で、にっこりと微笑んだ。

 深まる秋の中、美玖は病院のベンチに坐ってぼんやりと空を見つめていた。
 カサカサと銀杏の枯葉を踏みしめて近づいてくる足音がする。
「美玖。ずっと探したんだ。いったい何で突然いなくなっちまった?」
 遠くでジョウビタキの「チーチョ、チーチョ」と鳴く声がする。
「聞いてくれ。今度のツアーを最後に「ブルーカオス」は解散した。
 俺はソロとして、また一から始める。
 インディーズからやり直しかもしれないけど、それでも自分の好きな曲だけを歌っていたいんだ。
 美玖に元どおり、ずっとそばにいて欲しいんだ」
 秋の色づいた日差しがやわらかくて、気持ちいい。
「美玖! なんで返事をしてくれない!」
 そのとき、病棟のほうから人が来る気配がした。
「あ、霧島先生」
 美玖は、医師を見上げて微笑んだ。
「今日はいいお天気ですね。空気が澄み切って、とても静か」
 30代後半の冷徹な眼をした男は、怜に向かって会釈した。
「はじめまして、精神科部長の霧島です。あなたは?」
「日下部怜。……美玖の恋人です」
「ああ。あなたが」
「美玖は、いったい何の病気なんですか。さっきから話しかけているのに、全然聞こえていない。俺のことを見えてもいない」
「美玖さんのは、特殊な病です。ある特定のものだけが、彼女の網膜には像を結ばない。若い20歳前後の男性の像です。
 それに、ある周波数の音だけを、彼女は聞くことができない。だいたい基部が100から200ヘルツ、倍音の多い豊かな声。ちょうどあなたのようなすこし低い男性の声です」
「そ、そんな……」
「視覚、聴覚にはなんの異常も見られない。心の病から来ている症状です。
 彼女は渋谷のスクランブル交差点の前の大スクリーンを見て、大声をあげて倒れて、ここに運ばれた。
 スクリーンには「ブルーカオス」という有名なロックバンドのコンサートの映像が大写しになっていた」
 医師は、黒ぶちの眼鏡の奥からじっと怜を見つめた。
「今わかりました。……あなただったのですね。
 彼女は、愛しながら決して会うことのできないあなたという存在を感じなくなるために、あなたにつながる全ての情報を無意識に排除しているのでしょう」
「……美玖」
「残念ながら、この病気の治療法は見つかっていません。このままなら彼女は一生、あなたを見ることも、あなたの声を聞くこともできないでしょう」
 怜はぶるぶると震えながら、彼女の前にひざまずいて、そっとその体を抱きしめた。
「ごめん……。赦してくれ。美玖……。美玖!」
「ねえ、霧島先生」
 美玖はつぶらな瞳を見開きながら、かたわらに立つ医師に問いかけた。
「おかしいの。
 風もないのに、何かがわたしの頬や髪の毛をなでていくの。
 こんなにいいお天気なのに、熱い雨がわたしの手をぬらすの。
 でも、なんだかとてもなつかしい、あったかい気持ちになる。
 なぜなんだろうね……」






2003年10月、続編「あなたの歌が聞こえる」をアップしました。

このキリリク短編は、ある日の掲示板の書き込みの一文から始まりました。
「何も期待しない。決して自分のものにならない人を、半分そこにいないかのように見つめる女心(笑)。」
快進撃を続ける阪神タイガースを応援するファン心理についてだったんですけどね。
鹿の子さんがその文を見て、いたく気に入ってくださって、それをもとにした短編というキリリクをくださいました。
この文のおおもとは、レイ・ブラッドベリの「ウは宇宙船のウ」に収録された短編「宇宙船乗組員」です。

Copyright (c) 2002 BUTAPENN.





背景素材: ふるるか

TOP | HOME