狗頭クラブ
THE DOG'S SKULL CLUB 真っ先に視界に入ったのは、正面の棚、そしてそこに置かれた犬の髑髏だった。 その横に古ぼけた六分儀と羅針盤。壁一面を蔽う紅いビロードの垂れ幕。 そして、黒い尖った頭巾をかぶった集団が僕たちを取り囲むように立っている。 「なんだ、ここは。黒ミサの集会場か」 小さく吐き捨てるように、隣の男がつぶやいた。 まだドイツが東西に分かれていたころ。 西ドイツのバーデン・ヴュルテンベルク州のとある大学で、毎年新入生のあいだに必ずささやかれる噂がある。学内のどこかに存在するという秘密クラブの噂だ。 学業、スポーツ、社会活動。そのどれにも優れた成果を収め、容姿も家柄も申し分ない男子学生だけが、ある日一通の招待状を受け取る。 「貴殿は『狗頭クラブ』に入る資格を得た」 「狗頭クラブ」の会員となった学生は、卒業後もその恩恵を享受することができる。噂によれば一生のあいだ、この国の政治的・社会的頂点に立つ会員たちからの有形無形の支援を与えられるというのだ。 それゆえ誰もが、狗頭クラブの一員となることを望み、招待状を受け取る瞬間を待ち焦がれていた。 そして、今年招待を受けた1年生は3人。 僕たちは歓喜に打ち震えながら、指定された場所に午前0時に集まり、そこに待っていた覆面の会員の手によって目隠しをされた。 ミモザの強い香りが漂う学内をぐるぐると引き回され、きしむ階段を踏んでどこかの建物の2階に導かれる。 広間の真ん中に立たされ、目の覆いをはずされたあと、僕は両側に立っているふたりの同級生を見た。左側は知り合いだった。隣のクラスの学生、名はクレメンス・T。小柄で温厚な性格だが、数学に関して稀に見る天分を持っている。 右側の男、さっき「黒ミサ」うんぬんと独語した鋭い表情の背の高い学生は、学部が違うらしく見覚えがなかった。 「今より入会式をおこなう」 正面の犬の髑髏の近くに立っていた、主催者らしい黒頭巾の男が厳かな声を発し、僕たちの視線は彼に釘づけられた。 「狗頭クラブにようこそ。きみたちは1年生の全クラス512人の中から資格を吟味され、選ばれた者たちだ。ただし、生涯の忠誠を誓う者だけが我らの一員となることができる。誓いの儀式を受けることも、拒否してこの場から立ち去ることも、きみたちの自由な判断に委ねられている」 そして三人の無言の同意にかぶせるように、彼はさらに続けた。 「儀式に先立ち、着ている衣服をすべて脱いでもらおう」 「えっ」 僕たちの中から驚愕の悲鳴がもれた。 「何に着替えるのですか」 「そうではない。全裸でこの中に立ってもらう」 「下着も……ですか」 「そうだ」 動揺のあまり、三人ははじめて互いに視線を交わした。 「そんな馬鹿な」 クレメンスが当惑した声をあげた。「こんな大勢の前で、そんなこと!」 「落ち着け、クレメンス」 右側の男がふたたび口を開いた。 「きみは物理学部のクレメンス・Tだな。そしてこっち側はヴィルフリート・E」 「ああ、そうだ」 「俺は、社会学部のヘルムート・J。この部屋に入ったときから試していたんだが、私語は許されているようだ。それに俺たち三人が会話を交わすことも」 僕たちは言葉を切って少し待ったが、黒頭巾の集団はただ静かに僕たちのことを見つめている。 「そこで、きみたちの考えを聞きたい。俺たちはテストされているんじゃないかと思うのだが」 「全く同じことを考えていた」 僕は賛成のしるしに、うなずいてみせた。 「入会が許されたと言ったが、本当はこの入会式が最終審査かもしれない。僕たちにこのクラブにふさわしい固い意志があるかどうかが見られているのだと思う」 「裸になることが……?」 「これは自分の羞恥心との折り合いだ。犯罪をそそのかされているわけでも、体を拘束されているわけでもない。自分の自由意志で服を脱ぐ。それがクラブへの入会と引き換えにするほど躊躇うことなのかは、それぞれの価値観の問題になる」 ヘルムートはそれを聞いて、にやりと笑った。 「俺は脱ぐぜ。どうしたってクラブの一員になりたいんだ」 「僕もだ。不合理な要求に従うのはごめんだが、確かな目的のためなら、いっときの恥は我慢できる」 「わかった」 最後にクレメンスも吐息をついた。「三人ならば、心強いよ」 数分後、僕たちは一糸まとわぬ姿で彼らの前に立った。互いの体を見ぬように真正面の犬の骸骨だけを見つめて毅然と頭を上げる。そうすることで、自分たちを取り囲む黒頭巾の二つの穴から発するたくさんの視線の痛みに耐えられるような気がしていた。 「それでよい」 主催者の男は、変わらぬ無表情な声で言った。 「それでは誓いの儀式を始める」 彼の脇を固めていた数人が、無言で部屋の両側に散らばる。そして、壁際にずらりと並んでいた蜀台の蝋燭一本ずつにゆっくりと火を灯していった。 部屋中に、火の燃える香りが満ちた。つんと鼻を刺す、人を原始の本能にいざなう香り。 『一同、誓約のことばを唱えよ――。 我ら今宵ここに、聖なる狗頭のもとに集いしは、これなる者たちの誓いの儀式のためなり』 『我ら、虚りに曇らぬ真実の目をもて、この儀式を見守るべし』 会員たちによって唱えられる誓詞のあいだじゅう、僕たちの胸は緊張のため張り裂けそうだった。それがオカルト的で子どもじみた装いに満ちていればいるほど、排他的な特権階級の一員になれるのだという事実がいっそう重みを増して、19歳の僕たちの上にのしかかった。 『志願する者たちよ』 ふたたび正面の男が、僕たちに問いかける。 『生贄の台に横たわり、汝らの過去に犯したる過ちの中の最もおおいなる罪を、包み隠さず告白せよ。されば汝ら、潔めをもて、集会にふさわしき者とされん』 「なんだって」 呆然として僕はうめいた。「最も大きな罪の告白……」 「やっぱりおいでなすった。第二の試練というわけか」 ヘルムートはからかうような声をあげた。 「どういう意味だ」 「これは社会学でいう『通過儀礼』というやつだ。生死の境を通るような強烈な試練をくぐらせることで、集会に属する資格を与える」 「オーストラリアのバンジージャンプのようなものか?」 クレメンスが尋ねた。 「そうだな。「生まれ変わり」の体験をさせることで、大人の社会への帰属意識を高め、新参者に一員としての自覚を持たせる意味がある。多分この儀式も……」 僕は彼のことばを引き取った。 「裸になることが誕生の象徴。生贄の台に横たわり罪を告白することが、それまでの人生を捨て「生まれ変わる」象徴ってわけか。儀式そのものを、あくまでもひとつの象徴として考えればいいんだな」 ヘルムートは、軽く口笛を吹いた。 「さすがに頭が回るな、ヴィルフリート、クレメンス。きみたちとはこれからも気が合いそうだ」 「ああ、末長く、よろしく頼むよ」 クレメンスの柔らかい笑顔に、思わず笑みがこぼれる。 この儀式自体が象徴であるかぎり、罪の告白も適当な作り話でいいと、僕たちは暗黙のうちに了解したのだ。 いつのまにか、三人のあいだには不思議な連帯感が生まれていた。不条理で悪魔的な色合いさえ帯びたこの儀式の中で、理性を失わず、仲間と協力して次の行動を決める。 もしかするとこの決断力こそが『狗頭クラブ』の入会資格として求められていることではなかろうか。 僕たちはこのときまでそう確信していた。――あさはかにも。 「俺が最初に行こう」 ヘルムートが提案した。 異存はない。 相手の反応を見ながら注意深く話を進めなければならない最初の生贄には、機転の利く彼が適任だった。 彼は狗頭のある祭壇の前にしつらえられた長方形の生贄台に横たわった。 『汝の犯したる過ちを告白せよ』 『告白せよ』 低くおごそかな式文が、会員すべてによって一斉に唱えられた。 「はい」 ヘルムートも、やや沈鬱な声で話し始める。 「わたしは1982年、ハノーファーのギムナジウムの生徒だったときにわずか7マルクの切符で全国を旅行したことがあります。いわゆる不正乗車です。それによって鉄道会社に数百マルクの損害を与えてしまったことをここに告白します」 僕は彼の作り話の無邪気さにあきれてしまった。だが、普通の人間が犯す一生に一度の罪悪というのは、そんなものなのだろう。 生贄台を取り囲むようにして聞いていた黒頭巾の男たちの間から一斉に、低い嘲笑が洩れた。それは終わるどころか、時間が経つにつれ、より大きく、より不気味な詠唱となっていく。 「嘘だな」 ついに、主催者がそう断じた。 「嘘ではありません。証拠となる日記もあります」 「いや、そうではない。そのことがきみの最も大いなる過ちだというのが、偽りなのだ」 「え……」 「きみには、もっととてつもなく大きな罪過がある。そうだろう?」 ヘルムートの顔色がさっと変わったのが、僕たちの立っているところからでも見えた。 「そ、そんなことは……」 「偽りを言う者は、我がクラブの一員となるにふさわしくない。台から降りたまえ。真実を話す気になれば、ふたたび申し出よ」 彼はそれまでの自信に満ちた態度をすっかり失くして、僕たちのもとに戻ってきた。 「いったい、どういうことだ。ただの儀式じゃないのか」 口の中でつぶやいている。 「きみがうろたえたのが、悪かったんだ。あの話が嘘だということは誰にも証明できないはず。彼らはただ、鎌をかけていただけだ」 「あれは、嘘じゃない」 僕の非難のことばに、彼は力なく答えた。 「俺は真実を話した。これは実際に高校のときやったことなんだ。今までに犯した最も大きな罪――2番目の」 「2番目?」 「まさか、奴らが「あのこと」を知っているはずはない。誰にも知られるはずはないんだ」 「ヘルムート、それじゃ本当にきみは、奴らの言うようにもっと大きな罪を」 クレメンスは、そこまで言って喉をつまらすような音を立てた。 そのとき、僕の頭に恐ろしい考えが浮かんだ。 「もしかして、僕たち三人は……」 同じことにクレメンスもヘルムートも、同時に思い至ったようだ。 「『きみたちは、1年生512人のうちから資格を吟味されて選ばれた』。そう奴らは言った」 ヘルムートが悄然と言う。 「「資格」とは何だ。少なくとも、俺よりももっと天分と家柄に恵まれた奴なら他にもいる」 「資格というのが、……人には知られぬ大きな罪を犯していることだとすれば」 「「狗頭クラブ」というのは、一般に思われているような生え抜きのエリートの集会なんかじゃなかった。会員同士の罪を探り出すことによって、がんじがらめに縛り合い、裏切りを怖れながら集う、罪人たちのクラブだった……ということか!」 僕たちはそれ以上の言葉をなくして、ただ互いの顔を見合わせた。そしてそれこそが、三人とも人には知られたくない罪を心のうちに隠している、何よりも雄弁な証拠だった。 「次の者、生贄台の上に登れ」 その声に、僕たちは凍りついた。誰も動こうとしないのを見てとると、数人の黒頭巾が進み出て、クレメンスの両脇を抱えた。 「や、やめろ!」 小柄な彼は放り出されるように台の上に寝かされ、必死でもがこうとする四肢を彼らに押さえつけられた。 「離してくれ!」 『汝の犯したる過ちを告白せよ』 『告白せよ』 必死に叫ぶクレメンスの声を掻き消すように、割れんばかりの唱和が起こる。 僕はぺたんとその場に座り込んだ。 恐怖に打ちのめされた体の内側から、がらがらと何かが崩壊していく。 これは。――これはまるで、黙示録の光景だ。神の御前にて行われる最後の審判だ。 「聖なる狗頭の前にて、黙して真実を語らぬ者よ。火によるいましめを受けよ」 ひとりが蜀台の蝋燭を手に取ると、生贄台に近づいた。男たちの影がぐるりと壁をなめる。 「うわああああっ!」 ちりちりと髪の毛の燃える音。たんぱく質の焦げる吐き気をもよおす匂いが部屋に満ちた。 「やめろ! こんなこと許されると思ってるのか!」 僕の隣にいたヘルムートが突然、たががはずれたようにわめいた。 「ここは狂人の集まりだ。狂ってる。誰がこんなクラブに入るもんか。俺は脱ける! ここから出してくれ!」 「よかろう。彼を別室に」 たちまちのうちにふたりの者に両側から抱きかかえられ、彼はビロードの幕の奥に連れ去られる。 がちゃりと重々しく扉のかんぬきのかかる音が聞こえた。 ヘルムートが連れて行かれたのは、僕たちが入ってきた後ろの扉ではないことに気づく。 あちらから外に追い出されたのか? いや、違う。その証拠に、彼の服はそっくりそのままここに残っている。 あの別室で、――いったいヘルムートは何をされているのだ? 輝くような金髪を半分ほども燃やされてしまったクレメンスは、いまや生贄台の上で、野獣のうめきともつかぬ泣き声を、食いしばった口の端から垂れ流していた。 『さあ、狗頭の前にすべてを告白せよ』 彼をのぞきこむ男を見上げながら、クレメンスはうつろな声で話し始めた。 「僕は、15歳のとき……自分の部屋のベッドの上で・・・…自慰をしていました。すると……すると、突然ドアが開き……」 「クレメンス、やめろ……」 声にならない叫びが、僕の喉からほとばしった。「やめろ、何も言っちゃいけない」 「ドアが開き……、2歳上の姉のフリーダが入ってきて……、僕のしていることを見ると、姉は今まで見たことのない笑みを浮かべて近づいてきて、「女のことを教えてあげる」と服を脱ぎ……、僕は、いやだと言ったのに……、姉は」 「それから、どうしたのだね」 「僕は、フリーダと……、実の姉と……、関係を持ってしまったのです」 台から降りてこちらに歩いてくるクレメンスは、もう今までの彼ではなかった。 「ヴィルフリート。きみの番だ」 床に座り込む僕を何の感情もない目で見下ろし、無言のまま、正面に飾られた髑髏に忠誠を誓う騎士のように、真直ぐ顔を向けて立った。 「それでは、最後の者、ここへ」 両腕をつかまれ乱暴に立たされたものの、僕はほとんど歩くことができなかった。引きずられ、死んだ家畜の肉のように、どさりと生贄の台の上に載せられた。 『汝の犯したる過ちを告白せよ』 『告白せよ』 もう恐怖すら感じなかった。 いったいなぜなのか、わからない。 狗頭のふたつの底知れぬ洞が見下ろし、黒頭巾たちの後ろで無数の蜀台の光がゆらりゆらりと滲み出す中を、狂気と恍惚にむせび泣きながら、僕はいつしか、進んでことばを吐き出していたのだ。 「11歳の夏休み――、僕は近所の友だちとふたりで町のあちこちを遊びまわっていました。 そいつは小さい頃から乱暴で、僕はいつも力ずくで言うことを聞かされていました。はじめは他愛ない、子どもの王様ごっこだった。でも、やがて歳を重ねるにつれ、それは主人と奴隷の関係になっていきました。学校の宿題、家の用事、すべてにおいて奴は僕に肩代わりを命じ、僕はそれに逆らえなかった。 その日僕たちはいつものように、鉄橋の上から、下の線路に貨物列車が走るのを長いあいだ飽かず眺めていました。 新型車両が来たと、奴が夢中になって下をのぞきこんでいるとき、僕は奴の両足首をぐいと握り、……そのまま上に跳ね上げると、奴はあっけなくバランスを崩し、落ちていきました。ちょうどその上を、反対方向の列車が轟音を立てて走りぬけました。 見ている者は誰もいなかった。奴の死は事故として処理されました。 でも真実は……僕は明らかな憎悪をもって、友人を殺したんです……」 僕とクレメンスは「狗頭クラブ」への入会を許された。 「今年のふたりは、数十年に一度の逸材だ。――うれしい誤算だったよ」 と彼らはあとで、そう言い交わした。 思えば、僕たちの犯した罪は、誰かに気づかれる類のものではなかった。 彼らは何も知らなかったのだ。僕たちが良心の穽に落ちて、自ら告白さえしなければ。でも、それは今となってはどうでもいいことだった。 ヘルムートに何が起きたかはわからない。あのとき以来彼のことを見ていないのだ。噂によると、大学を中退し故郷に帰ったという。 馬鹿な奴だと思う。彼は一時の試練に負けて、生涯にわたる特権と名誉への道を自分で閉ざした。 互いの裏切りに一生おびえる罪人たちのクラブだって? すべてを知り尽くした者同士の友情は、何にも代えがたい宝であることを知りもせずに。聖なる象徴のもとにひざまずき、自分のすべてを投げ出して走狗となる悦びを、知りもせずに。 だから、今年もミモザの花の咲く頃、僕とクレメンスは覆面をして夜のキャンパスに立つ。 選ばれた興奮に顔を輝かせて集まってくる1年生を待ちながら。 「ようこそ、狗頭クラブに。きみたちは入会の資格を得た」 sleepdogさん主催「犬祭」参加作品です。 背景は、Cloister Artsからお借りしました。 |
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