フェデリコ・フィオーレ。 もうあなたとは、いっしょに暮らせない。 今日あなたが、あの女にキスするのを見たの。すてきな色だねと耳にささやきながら、髪を撫でるのも。 カンバスに向かう画家にとっては、ひとときの嘘もすべてが真実。 瞳を見つめ、肩のくぼみに指を這わせるとき、あなたは本当に彼女を愛しているのね。 私にはわかる、だって、かつては私もそのひとりだったから。 思い起こせば、はるかな昔のこと。 若い私はカンバスの前に立ち、あなたの視線の愛撫を受けていた。 ある日あなたは私を見つめ、それから抱き寄せ、こう言った。「これからずっと僕の隣にいてくれないか」 それは、運命の女神フォルトゥナの残酷な気まぐれ。 ほんのわずか、あなたの目が美の小宇宙から逸れて、孤独を見つめていた刹那の奇跡。 浅はかにも私はその言葉を信じ、初めからありもしない果実で、渇いた唇を潤そうとした。 私と暮らし始めてからも、あなたは変わらずに、麗しい花のあいだを飛び回り続けた。 あなたは完璧な微笑で、女を虜にする。 低く甘いささやきで恍惚とさせ、純粋でまじりけのない水晶の中に閉じ込めてしまう。 中から輝きを放つのは、稀なる宝石。次の瞬間には砂糖菓子のようにボロボロと崩れてしまう、この世でもっともはかないもの。 造物主の至高の美は、あなたの絵筆にすばやく巧みに写し取られる。 生きているような肌の輝きも、つややかな唇も、瞳の奥にひそんでいる情熱さえ。 そう、あなたは魔術師。天上の音楽の鳴り響く神殿に女たちを導き、悦楽の園にいざなってくれる。 だから、誰もあなたを怨まない。たとえ、あなたが絵筆を置いたとたんに、彼女たちへの愛を忘れたとしても。 フェデリコ・フィオーレ、今世紀最高の画家。 絶えず新しい宝石を求めている探検者。 天窓から見える空が青いと言っては、身軽に手すりを乗り越えていく。 港に船が着いたと言っては、少年のように息をはずませて坂を駆け降りる。 大きな樫のテーブルに取り残されるのは、飲みかけのティーカップ。そして私。 私、そろそろ留守居に飽きてしまったの。 もう懲り懲りよ、あなたを待ち続けるのは。 たったいま体の奥で、何かがはじける音がした。 さよなら。私はこの家を出ていきます。二度と会うことはないわ。 ままごとは、これでおしまい。 あなたのパレットはもう洗わない。絵の具のついた鼻先を拭いてあげることもない。 台所でオレンジを搾りながら、あなたの帰りを待つ朝は、決して繰り返さない。 あなたがいなくても、きっと私は生きていけるわ。ええ、きっと。 思い知りなさい、フェデリコ・フィオーレ。 私は新しい人生を見つけて、やり直すの! ――いいえ。 やっぱり無理。 あなたを忘れて生きることなんかできない。 最高の男に出会ってしまった、これが私の身の不運。 美しい女たちに、あなたがどんなに愛を語ろうと、 悔しいけれど、私は今でも恋をしているの。 あなたが、もう昔のように私を見てくれなくても、 息が止まるほどに、愛しているの。 愛しているからこそ、いっしょには暮らせない。 だから、もう一度言うわ。 私のありったけの愛をこめて、こう言うわ。 さようなら。 フェデリコ・フィオーレ。 私の大切な人。 追伸 この手紙を置こうと、机の引き出しを開けた。 そして見つけた、あなたのデッサン帳を。 大胆な線で描きこまれたクロッキーには、まあどれもこれも、みごとに世帯やつれした女の横顔ばかり。 汚いエプロンを着けた腰など、丸みを帯びすぎて。 櫛も入れぬ髪、目尻の小さなしわ。よくも残酷なほど克明に。 そして表紙の裏に、癖のある文字。 『わが生涯をかけて愛する妻、ルチーア』 ああ、ああ、なんて大声で泣いたことでしょう。 隣のジュゼッペ爺さんが驚いて、窓から顔を出したほどよ。 こんなふざけた話ってある? たった今別れを決意したばかりなのに。 見る影もなく老けてしまった私を。いつも眉間にしわを寄せて、あなたを睨んでばかりいた私を。 あなたはこんなにやさしい目で見つめ続けて、『愛する妻』と呼んでくれた。 それだけで私はもう、あなたを赦してしまっている。 今から、私は賭けをするわ。 丘の上の私が生まれた家で、あなたを待っています。 この手紙を読んだらすぐに、走ってきて。 聖カタリナ広場の角の花屋に寄って、抱えきれないほどのバラを買うのよ。 酒場では一番高いワインを。1リラでも値切ったら承知しない。 石畳の坂の途中で、どんなに息を切らしても、決して止まってはだめ。 私はマンマ仕込みのタリアテッレを作りながら、あなたが登って来るのを見つめているわ。 もし私が賭けに勝ったら、今夜は、 ニレの樹の天辺にぶらさがる春の三日月を祝して、グラスを鳴らしましょう。 ねえ。 フェデリコ・フィオーレ。 この世は、ままならないことのほうが多いけれど、 信じれば本当になることも、確かにあるものよ。 Fin. この掌編は、「オンライン作家によるチャリティ本プロジェクト」 One for All , All for One ……and We are the One オンライン作家たちによるアンソロジー〜 (発起人 / 代表:立花実咲さん)に寄稿していたものです。 有料電子書籍として販売されましたが、プロジェクト終了にともない、2013.1.1から再掲載解禁となりました。 |