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あなたの瞳の殺意
MURDERER IN YOUR EYES
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彼の瞳の中だけが私の居場所だった。 「おかえりなさいませ」 出迎えのために玄関に立つと、靴をぬぐ夫の後ろにいつもいるのが彼。 部屋履きをそろえて夫に差し出すときの私の胸元に、その夜の底のような瞳はじっとそそがれている。誰にも気づかれぬよう注意深く。 その視線は、私の冷たいシルクのブラウスを刺し通し、乳房をひそやかに薄紅色にほてらせる。 私が深津晃司のものになったのは、25歳のときだった。 高校を卒業してからずっと勤めていた中堅企業は、倒産の危機の中にあった。その大口債権者のひとりが深津だった。 2000人の大企業の代表取締役である深津。この20歳も年上の資産家がなぜか私を見初めたのだ。 彼は債権の放棄を取引材料に、私を所望した。 善人の社長はそれでもなお、私をいけにえに差し出すことをためらっていたが、経理を担当していた私には、その顔の苦悩に満ちた皺の意味がわかった。 私が承諾しなければ、50人近い社員が路頭に迷うのだ。 幸か不幸か、恋人らしい恋人もいなかった私には、両親のいない私を娘のように可愛がってくれた社長の恩義に報いる手段はほかに見つからなかった。 「嬉しいです。社長。私、富豪の玉の輿に乗るのが夢だったんですよ」 せいいっぱいはしゃいで、最高の笑顔を残して、私は会社を辞め、深津のもとに嫁いだ。 とはいえ、私は籍に入れられない妻だった。 東京の家にはもう10年以上別居している本妻がおり、私は千葉の房総半島の海沿いの別荘を与えられた。 大勢の使用人にかしずかれ、することもなく、不規則にやってくる夫をぼんやり待つことだけが私の日課となった。 深津は、常軌を逸した異常な性格の持ち主だった。 彼に仕えた秘書が、この10年でふたりも自殺に追い込まれたという噂は有名だった。 最初に会ったときから、夫は猛禽類の目をしていた。小動物をじわじわといたぶりながら、なぶり殺す悦楽に光った目。 「今日は東京に出て、男と会っていたそうだな」 使用人たちは命じられて、私の行動を逐一彼に報告しているらしい。 「いいえ。同窓会で、久しぶりに高校時代の友人たちと会っただけです」 「昔つきあっていた男に、しなを作っていたそうじゃないか」 「そんなこと、嘘です。私は誰ともつきあったことはありません」 必死に弁解すればするほど、彼は私の髪をひっぱり、服を裂いて陵辱した。 その人並みはずれた猜疑心は、本妻が部下と密通したことに始まるとも聞いた。その部下は社会的に抹殺され、本妻もアルコール中毒で廃人同様になっているという。 私は恐ろしさのあまり、家に閉じこもるようになった。 泣くことも笑うことも忘れた人形のような生活の中で、ただひとつ私の心を燃やしたのが、彼の存在だった。 名前は倉木俊介。 私より2歳年下の倉木は、大学を出てすぐ深津の秘書となった。 彼の父の会社も深津の援助を拒めない状態に追い込まれて、ひとり息子の彼を差し出したのだ。 秘書とは名ばかりの奴隷だった。 早朝から深夜まで寝る暇もなく、仕事以外の理不尽な彼の要求に忙殺された。 彼の秀麗な額には、2センチほどの切り傷がある。私が嫁ぐ前、彼がまだ新人の頃、意に背いて新幹線のかわりに飛行機の予約をしたというだけでとがめられ、深津に灰皿を投げつけられたのだということだった。 血をぬぐういとまさえ許されず、彼はただ土下座することを強要された。 夫は人を抵抗できないようにがんじがらめにしておいてから、じわじわと首を絞めるのを好む、根っからのサディストだった。 私を見張らせるのも、愛するゆえの嫉妬からではない。私を痛めつける口実を探しているだけなのだ。 似た境遇の私たち。 いつしか、私たちは互いをいたわりの目で見るようになった。 共感が愛に変わるのに、時間は必要なかった。 監視の目が光る中、私たちは細心の注意をはらった。 決してふたりきりで話したことも、笑顔を見せたこともない。 ただ、周りの目を盗んで、こっそり遠くから瞳を交し合う。 彼が私を見つめるたびに、血が沸騰し、甘い興奮に五感は酔いしれた。 深津のただひとつの趣味は乗馬だった。自分専用の厩舎を持ち、数頭の馬を飼って、私邸の広大な庭を走らせるのが週末の日課だった。私も強いられて、ときおり同伴した。 大学生だった倉木が夫の目に止まった理由は、そもそもは彼が大学で乗馬部に属していたからだ。 過酷な仕事の暇を見つけては、倉木はしばしば厩舎員に代わって馬の手入れをしていた。 馬の毛を梳くときの、彼の優しいまなざし。ああして私も触れられたいとどんなに願ったことか。 「綾子さま。どうぞ」 乗馬服姿の私に、彼は鞍を準備した馬を引いてきて、手綱を差し出す。触れ合わないように注意を払いながら、私はそれをそっけない仕草で受け取る。 「ありがとう」 倉木が私の名を呼ぶ温もりのある低い声と、手綱をとおして繋がっているという意識だけで、私の下腹部は痛みにも似た快感で満たされた。 | |
あれほど気をつけていたのに、いつしか私たちの秘めた思いは夫の知るところとなった。 ある冬の週末の夜。雨が冷え冷えとした音をたてて屋根をうつ。 深津は私を書斎に呼び、暖炉の前でいきなり私の着ていたものを脱がせ始めた。 「あ、あなた。こんなところで。やめてください」 彼の真意はすぐにわかった。彼は私をあらわにした後に、倉木の名を大声で呼んだのだ。 「御用でしょうか。社長」 彼は、喉を詰まらせたような音を立てて、あわてて床に目を落とした。 「用があるから呼んだのだ。今は見てのとおり忙しい。少し待っていろ」 「しかし……」 「顔をそむける必要はない。そこに立って黙って見ていろ」 「社長!」 「オレの言うことが聞けないのか」 私は助けを求めるように、倉木を見た。しかし彼は、歯をぎしっと噛みしめたきり、言いつけどおりまっすぐに、夫と私を見つめている。 ふたりともわかっていた。逆らうことは、私たちの関わる多くの人を窮地に追い込むだけだということを。 深津は私を押し倒すと、羞恥のあまりに縮こめようとする私の脚を、無理に開かせる。 暖炉で赤黒く揺れる炎に、私のすべてが照らし出される。 「どうした。卑猥な女だな、おまえは。見られたほうが燃えるのか」 身をよじる私に、聞くに堪えない夫のことばが、容赦なく浴びせかけられた。 頬を涙が伝った。 夫の舌が私を這い、指が玩ぶのを、倉木はただ見つめていた。 顔は無表情のまま。しかし瞳だけは、たとえようもなく荒々しい光を放って。 彼の息遣いが聞こえるほどすぐそばで、浅ましい姿態をさらす私。 死ねるものなら死にたい。 燃えるようなその瞳で、私を焼き尽くしてほしい。 私は声を抑え切れずにあえいだ。意に反して私の内部が次第に熱く膨張してくる。 何かを掴みたくて、思わず腕をのばす。 あなたがいとしい。 からだは憎む男の腕の中でも、私の魂を抱いているのは愛するあなただけ。 深津に貫かれたとき、私の頭は白濁し、無数の泡の飛沫へと溶けていった。 夫は私の乱れた様に味をしめた。 小動物を2匹いっぺんにいたぶる術を手に入れたのだ。 それからというもの、深津は私との情事の場に必ず倉木を呼んだ。 若い彼はただ拳をぎゅっと握り締めながら、ベッドのかたわらに立って、夫が獣のように私を犯すのを見ていた。 夫が私の身体に夢中でかがみこむ隙を縫うように、私と彼は見つめあった。 彼のその深い色の瞳にあった燃える怒りがやがて、冷めた悲しみに、そして氷のような殺意に、静かに形を変えていくのを私だけが知っていた。 1年がゆっくりと過ぎた。 倉木は仕事の忙しい深津にかわって、たびたび別荘まで出かけてきては、夫の愛馬「フォーグル号」にまたがった。 フォーグル号は、精悍なサラブレッドの青毛馬で、競走馬として第一線で活躍してもおかしくないほどの名馬だった。その均整のとれた筋肉を損なわぬように、夫は倉木に絶えず念入りな調整を命じていたのだ。 倉木がその長身を馬上に預け、草原を駆る姿は、涙が出るほど美しかった。 彼はいつも、決まったコースをたどった。私邸の境界である柵をひらりと飛び越え、白い陽光に照らされて、真珠のような輝きをたたえる房総の海に臨む。 海沿いの入り組んだ海蝕崖の上をひた走り、巧みな手綱さばきで馬を操りながら、岩肌のむきだす、目もくらむほど急峻な高みを軽やかに飛び越える。 馬と乗り手はひとつの生き物だった。もし誰かがこの光景を目撃したとしたら、この馬の本当の主人は彼だと認めただろう。 私は2階の白いフランス窓からいつもその光景を眺めていた。 倉木と私は以前にもまして、互いに近づかないようにしていた。 挨拶さえも交わさない。屋敷中に深津によって盗聴器が仕掛けられているのを知っていたからだ。 ただ、ほんの一瞬のあいだ、目と目を交わす。その刹那のために命を賭けた。 | |
深津は死んだ。 空気さえとろけるような夏の夜のこと。 私や倉木、そして屋敷の使用人たちがとめるのも聞かず、ほろ酔い気分でひとりで乗馬に出かけた夫は、二度と帰ってこなかった。 ただ愛馬だけが、主のいない鞍を背にむなしく戻ってきた。 数週間して、波頭砕け散る岩場に、半分白骨化した遺体が打ち上げられた。 盛大な社葬が、倉木たち社員の手によって執り行われた。 私も喪服を着て出席した。 黒いレースのペールの陰で泣く真似をする必要はなかった。誰もが、私が夫を愛していないことくらい知っていたから。 深津の死を悼んでいる人など、誰もおりはしなかったのだ。 正妻でない私には、何も遺されなかった。遺言により、家も別荘もほとんどの財産が会社の資産として処分される手はずになっている。私に与えられたのは、都内のマンションの一室と、数百万円程度の有価証券だけ。 今住むところも3ヶ月以内には出ることを言い渡された。 それでもよかった。何にも代えがたい自由を私は手に入れたのだ。 倉木と私はそれからも相変わらず、親しげな素振りを見せることはなかった。 もうあの悪魔のような男はいない。でも、そのかわりに警察の捜査の目が光っている。 ここまできて、ぼろを出すわけには行かないのだ。 私たちの計画は完璧だった。 倉木と何かを相談したわけではない。ただ私たちは相手の目を見つめるだけで、お互いの心にひそむ意図を知ったのだ。 私は1年かけて、夫の酒量を少しずつ、目に見えぬ程度に増やしていった。 そして、あの夜。 私は夫に、ほんの少し許容量を超えた酒を飲ませたことを見計らい、夫に乗馬の話題をさりげなく持ちかけた。フォーグル号の毛並みがよく、とてもよい仕上がりになっていること。倉木が絶妙の調整をしてきたこと。 夫は私の巧みなことばに矢も盾もたまらなくなって、ほろ酔い気分も手伝って、愛馬の仕上がり具合を試してみたいと言い出した。 私と倉木は、使用人たちの前で必死で止めるふりをした。 しかし意固地になった深津の剣幕に逆らえるはずもなく、倉木は諦めたふりをして、自分で鞍を置き、手綱を引いてきた。 そして、フォーグル号の黒光りのする尻をいたわるようにポンと叩いた。 それが合図であることを、私以外の誰も見抜けなかった。 夫は、私邸の庭を軽く一周するだけのつもりだったに違いない。 しかし、馬は柵を高々と飛び越え、海に面する切り立った崖に沿って全速力で走り始めた。 かげろうのごとく揺れる月明かりの中、愛馬のたてがみに必死でしがみつく男を背に、フォーグル号は嬉々として駆け抜け、そして虚空を跳躍したに違いない。 半分失神していた深津がバランスを崩して、声もなくまっさかさまに、波さかまく荒れた海に落ちていった光景が脳裡に浮かぶ。 忠実な名馬は、極度のパニックゆえに手綱を扱えない乗り手の意志を無視して、まことの主人に教え込まれたとおりのコースを走って、ほどなく戻ってきたのだ。 私たちは今も、そっと視線を交わす。 彼の私だけに向けられる優しいまなざしが、私のからだを熱く焦がす。 互いの瞳の中に映る共犯者。 あと何ヶ月かの辛抱だ。警察の関心がこの奇妙な変死事件から失われる時が来たら、そのとき彼と私は手を取り合って、誰にも知られず遠い地に旅立つだろう。 待つことに私たちふたりは慣れている。 そして、秘書である倉木と妻である私以外は知るはずのない事実が闇から闇に葬られるまで待つことは、今までの苦しみにくらべれば、なんとたやすいことだろう。 深津は極度の高所恐怖症だったのだ。 shionさんの17000ヒットのキリリクです。 いただいたお題は「アダルティー」。「大人の香り」をさせた短編ということでした。 写真素材は「屋根裏400ヘクタール」様よりいただきました。 |
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