I'm home !


 放課後のチャイムが鳴ると同時に、俺は立ち上がった。
「今日こそは、家に帰るぞ」
 と心に固い決意を秘めながら。


ただいま!



 勢いよく教室を飛び出そうとすると、さっそく同じ班の女子に呼び止められる。
「ちょっと、九鬼くん。掃除は?」
 うん、これはまあ、想定内。学生生活のお約束だ。
「ごめん、今日は部活の後輩指導があって、早く行かなきゃ」
「しょうがないなあ。明日はちゃんとやってよ」
「へーい」
 「ゴミ捨てもだよ」という、これもまたお決まりの言葉に送られて、ダッシュで廊下を駆け抜ける。
 日の入りまでの二時間半が、勝負だ。
「おい、リョウ! 燎介(りょうすけ)!」
 階段を駆け下りようとしたとき、同じ部のヤツに呼び止められた。
「帰るつもりか」
「すまん。今日は執行部の会議だ。どうしても抜けられない」
「だいじょうぶか。来週はもう予選だぞ」
「ほーい」
 「絶対、県大会行くぞ」という言葉を背中に浴びながら、ダッシュで階段を駆け下りる。
「九鬼先輩」
 下駄箱の前で、また呼び止められた。
「あの……お手紙入れておいたんですけど、読んでくれました?」
 見知らぬ一年生の女子が、もじもじと胸元のリボンをいじっている。すぐ後ろには、友人らしき女生徒ふたり。あたかも、果し合い見届け役のようだ。
「あ、見たよ」
 髪がちょっと好みかもと思いながらも、答えた。「けど、まだ開けてない」
「え……」
 ショックを受けた様子の彼女に、俺はせいいっぱいの優しい笑みを浮かべた。
「家でゆっくり読む。読みながらニヤついてるのを、他のやつらに見られたくないから」
 ぼぼっと湯気が立ちそうなほど顔を赤く染めた女を後に残して、俺は昇降口を飛び出た。
「おーい、副会長」
 最上階の生徒会室から、書記が手を振っている。「文化祭のパンフが刷り上がってきたぞ」
「悪い、今日はパス」
 さすがに言い訳も尽きて、切羽つまった俺は、拝むように手を合わせた。
「家に帰らなきゃ、さすがにまずいんだ」
「家が、なーんだってー?」
 問い返す声を置き去りにして、俺はとうとう走り出した。
 ちくしょう、全部で五分ロスした。このロスがあとあと響かなきゃいいけど。
 校門を出るとき、後ろ髪を引かれるような気持ちで、校舎をちらりと振り返った。
 一日の学校生活が終わった。なんだかんだ言っても、俺はここが好きだ。この中にいる限り、俺には平和と安全が約束されている。
 けれど、一歩、校門を出れば、そこは別世界。
 生命の保証がない、魔の世界なのだ。


 学校の回りには、ビニールハウスが立ち並ぶ田園風景が広がっている。
 イチジクやナスの畑の畔を横切り、冷蔵庫が不法投棄されている雑草ぼうぼうの空き地を抜け、岩肌がところどころ剥き出した崖をよじ登っていくと、雑木林に囲まれた平場にたどりつく。
 このあたりは戦国時代には、小さな山城があったと聞く。さっきの崖は、掘割のなごりだ。
 ここなら戦闘装備をととのえるのには、恰好の場所だろう?
 古い松の木が一本あり、中が洞(うろ)になっている。俺はここに隠したクーラーボックスの中に、教科書一切を置いておく。
 あ、しまった。英語の宿題があったっけ。今やるべきかどうか迷ったけれど、明日は五分早く登校することに決めた。俺に明日があれば、の話だけど。
 Tシャツとジャージに着替え、制服を畳んで風呂敷に包み、たすき掛けにして背負う。スポーツシューズは脱ぎ、頑丈なブーツに履き替える。
 あれこれ仕入れてきた小道具一式をウェストバッグに入れ、あの娘のラブレターも、持っていくことにする。家で読むと約束したもんな。
 さあ、装備完了。腹の底に気合を込めて、尾根を登っていく。
 山の頂上に立つと、西側の斜面が切り立っていて、数百メートルすとんと一気に落ち込む。
 眼下に見えるのは、すり鉢状の谷に広がる森。とろりと濃い墨色のもやがかかって、何があるのかも判然としない。
 生ける者を寄せつけぬ、強力な結界。あの中心が、今から帰る俺の家だ。俺にとって、帰宅とは命がけの冒険なのだ。
 呼吸をととのえ、一気に斜面を滑り降りる。走るなんて、まどろっこしいことはしていられない。迫ってくる木を躱し、岩場をジャンプし、よけきれない木の枝や邪魔な藪は、手刀で払いのける。毎日通っている場所なのに、なぜ、こうも一日で草がぼうぼう生えてくるのか。
 土埃を巻き上げて着地したのは、陽の光も射し込まない、深い谷底だ。あたりはキンと耳が痛くなりそうなほどの静寂に包まれている。
 だが、もちろん、それはフェイク。
 俺が一歩踏み出すと、木の陰から、わらわらと魔物たちが現れた。
 ザコ敵レベル1、およそ十匹。
 スライムやゴブリンみたいに可愛い奴らじゃない。ストーム・トルーパーやショッカーのように笑いもとれない。ただ、毒のあるとげとげの鱗と、360度死角のない触覚と、時速40キロで跳躍する頑丈な六本の脚を持つ、ごく平凡なザコ。
「俺の帰宅を、邪魔するな」
 静かなる怒気を放ちつつ、警告する。
「着替えのパンツも今日で尽きた。前後裏表、計四回履けるという必殺奥義だけは、俺は習得したくないんだ。黙って消えろ」
 最後のことばとともに、ウェストバッグに手をつっこんだ。
「喰らえ!」
 投げつけた物体から、チョークの粉がもわもわと風に乗って巻き上がり、ザコ敵レベル1は、猛烈なくしゃみを始めた。
 秘儀、『黒板消し攻撃』。昭和の昔、教室の扉にはさみ、嫌いな教師の頭に投下して撃退したという伝説を持つ、あの強烈な炭酸カルシウム爆弾。魔族はこれが大の苦手なのだ。まあ俺もだけれど。
 もがき苦しむ奴らに鉄拳をふるい、二分少々で全員をやっつけた。
「おい、死んだふりするな。殺してないぞ」
 睨みつけると、やつらは起き上がり、すごすごと森の中に消えた。
 先を急ぐと、また次のザコ敵が立ちふさがる。今度は、レベル2が六匹。もうイヤになってくる。経験値もゴールドも手に入らず、仲間モンスターにもならず、こっちの腹が減るばかりなのに。
「早く家に帰らなきゃ、飢え死にする。所持金二十九円の心細さを知ってるか。コンビニで、おにぎりも買えやしないんだぞ!」
 怒りのせいで、さらに腹が減るという悪循環。
 呼吸を整え、片手で鼻をつまみながら、ポケットから次のアイテムを取り出した。
「吐くなよ!」
 必殺、『くさぞうきん攻撃』。年度はじめに家から一枚ずつ持ち寄るが、年度の終わりには、掃除ロッカーの中でしっかり腐っているという、一説には、スカンクの放つ悪臭よりも臭いと言われる、あの化学兵器だ。魔族はこれが大の苦手なのだ。まあ俺もだけれど。
 したたかに打ちのめされ、這う這うの体で退却していく敵を尻目に、俺は疾走を再開した。
 百メートルも行かずに、次の奴らに遭遇した。ザコ敵レベル3。よくもまあ、律儀にレベル順に現われるなと思うかもしれないけど、これには理由がある。
 魔族は、階級ごとにきちんと棲み分けをする種族だ。しかも、能力が上がり階級が上にあるほど、長である魔王の近くに侍る特権を得る。
 よって、結界の中は、レベルの順番にきれいな同心円になっているんだ。
 ……などと心の中で解説してるあいだにも、非情に襲いかかってくる連中に向かって、俺は叫んだ。
「男子三日会わざれば刮目して見よ!」
 臍下丹田から振りしぼった絶叫に、やつらは一瞬、動きを止めた。
 奥義、『わけのわからん慣用句攻撃』。まったく意味はわからんが、やたらにカッコいい言葉を浴びせられると、誰しも一瞬動けなくなるという、最上級呪文と同じ威力を持つ必殺魔法攻撃。魔族はこれが大の苦手なのだ。いや、俺は平気だけど。
 凍りついた奴らに頭突きを食らわせ、難なく退散させると、俺はまた先を急ぐ。
 そういう戦闘を、あと三回ほど繰り返したあげく、とうとう疲れてへたりこんだ。
 結界の中は静かだ。虫の音も、鳥のさえずりも、ここにはない。外界の動物はアリ一匹たりとも入れないように、目に見えぬ壁によって閉じられているのだ。
 大木の根にもたれて目を閉じると、朽ち葉の香りに満ちた森は、子宮の中のように俺を温かく包み込む。
 ああ、いい気持ちだ。このまま眠ってしまいたい。
 こんな具合に力尽きたあげく、気がつけば、朝が来て結界の外にはじきだされている。そんな日々が、もう四日も続いている。
 なんとか眠気を振り払って、沢まで降りていく。清水をすくって飲み、最後の十円で買った「うまい棒」をかじって、空腹をなだめた。
 今日こそは、絶対に家に帰る。何がなんでも、帰ってやる。


 このへんで、うすうす気づいた人もいるかもしれないが、俺の家庭はかなり変わっている。
 父親は人間じゃなく、魔王だ。東洋風に言えば、鬼だ。
 なもんだから、何百年ものあいだ、世間さまとは相当なあつれきがあったらしい。西洋風に言えば、勇者のパーティ、東洋風に言えば、桃太郎とそのご一行、そういうのが何度も攻めてきて、双方にたくさんの血が流れた。けれど、とうとう決着はつかなかった。
 そこで、両者の代表が話し合って、魔族側が強力な結界を回りにグルリと張り巡らせて、人間界から魔界を遮断することで、一件は落着した。ようやく、平和な時代が訪れたのだ。ところが――。
 ……おっと、のんびりしてる時間はない。早く家にたどりつかないと、日も射し込まぬ谷の底は暗闇に覆われ始め、ますます踏破が困難になってくる。
 家に近づくにつれ、結界が強力に作用し、どんどん走る速度が鈍くなる。どんなに急いでも、秒速五メートルしか出せない。
 このへんで、なんとなく気づいた人もいるかもしれないが、魔王の息子である俺も、厳密に言えば人間ではない。
 とは言え、母親はふつうの人間なので、見かけは人間とまったく同じだ。で、その母親が、俺が生まれたとき、『子どもはちゃんと学校に行って、義務教育を受けるべきよ』と強く主張して、聞かなかった。
 並み居る魔族たちの反対もなんのその、とうとう夫である魔王も折れた。なにしろ、一方的ひとめぼれのプロポーズ52回の末の、超・年の差結婚(そのとき親父は800歳、おふくろ28歳)。つまり、親父はおふくろに頭が上がらないのだ。
 俺はめでたく、六歳から小学校に行き始めた。
 もちろん、学校の教師や友だちには、俺が魔王の息子だなんて言ってない。もしそんなことがバレれば、すごい騒ぎになるもんな。
 俺は無遅刻・無欠席で通い続けた。学校は、めちゃくちゃ楽しかった。自慢じゃないけど、友だち百人はできたと思う。
 まだ小さかった俺にとって結界は、ちょいと遠いけど何の問題もなく通り抜けられる、ただの通学路だった。
 ところが、中学になったあたりから、問題が起き始めた――。
 などと語ってる場合じゃない。俺の足はぴたりと止まり、前に出なくなった。
 誰かが、木の陰で待ち伏せている。ザコ敵じゃなく、少尉クラスのやつだ。
 この数年、俺は苦労なしには家に帰れなくなってしまった。帰ろうとすると、結界が俺を弾き飛ばそうとし、父の配下の魔王軍も俺を攻撃してくるのだ。
 俺の力量が上がるにつれて、結界から異物を排除しようとする抵抗が、どんどん大きくなってきたらしい。
 なんで、『俺は魔王の息子だ、敵じゃない』って言わないのか、だって? もちろん言ったさ。親父にも頼んで、魔王軍を集めて何度も説教してもらった。
 でも、こういうのは理屈じゃない。魔族の本能ってやつだ。俺のまとっている人間の匂い、人間のDNAが、奴らの細胞に刷り込まれた憎悪を誘ってしまう。
 思ったとおり、今度の敵は、けたはずれに強い。
 両手の先が、鋭い斧に変形した。数本の長い触覚がばねのように伸びてきて、思いもかけない方向から攻撃してきた。
 たちまち、シャツの袖を切り裂かれ、真っ赤な血が細い筋となってにじみ出てくる。
「やめろ!」
 木の陰に隠れながら、叫んだ。「俺は九鬼一族だ。味方だってば」
 次の瞬間、その木は根元から、まっぷたつになって倒れた。全っ然、聞いちゃいねえ。
 俺は、湿った落ち葉の上をごろごろ転がりながら、相手の攻撃を避け続けた。
 体が重い。結界の力が、半端じゃなくなってきた。
 突然、落ち葉の中から鎖のようなものが飛び出し、俺の両手両足をつかんだ。
 しまった。こいつの使い魔が地面の中に潜んでいたのか。仰向けになったまま、俺は微動だにできなくなる。
「……マジかよ」
 反則だ。今まで、こんな強いヤツは出てこなかっただろ。
 ヤツが斧を振り下ろす瞬間、俺は使い魔の束縛を引きちぎり、脇にすり抜けて走り出した。
 向き直った魔族は、脚をぐいと伸ばしてジャンプし、追いすがってくる。しつこい。しつこすぎるって。
 まぎれもない殺気を背中に感じたとき、恐怖にわしづかみにされた。
 本気じゃないよな? 適当なところで急に我に返り、『おや、坊ちゃん』なんて言うに決まってる。
 それとも、最後の最後に親父が出てきて、カッコよく止めてくれるとか?
 触覚がバネとなって伸びてきて、俺の首に何重にも巻きついた。息ができない。
 斧が俺の頭上に振り上げられたとき、俺は、掛け値なしに冗談なしにリセットなしに、本当に殺されるのだとわかった。
 とっさに、ウェストバッグをまさぐった手がつかんだのは、爪切りだった。ドラッグストアに行って買ってきてくれとおふくろに頼まれていた、超特大のヤツだ。親父の爪が伸び過ぎて、気になってしょうがないんだと。
 その爪切りで、巻きついていた触覚をパッツンと切り落とした。バネがものすごい勢いで縮み、その勢いで、魔族はバランスを崩して、よろめいた。俺はその一瞬を狙って、顔面を蹴り飛ばした。
 うめき声をあげたきり、そいつは動かなくなった。
 おそるおそる這い寄ると、倒れてうつ伏せになった拍子に、自分の斧が自分の腹にめりこんでいた。
 俺はぜいぜいとあえぎながら、がっくりと地面に座り込んだ。
 とうとう殺してしまった。手加減すらできない自分の未熟さと弱さを思い知らされて、俺は死体を前に、安堵と恐怖ですすり泣いた。


 俺の中には、人間である部分と魔族である部分が共存している。
 どんなに帰るのが大変でも、俺は学校をやめたいとは思わない。朝になると、学校に行って、勉強や部活をして、友だちと遊びたくて、そうしないと、心にぽっかりと穴が開いて、俺の半身は死んでしまう。
 でも、放課後になると、家に帰りたいと思う。魔族と戦い、死にそうになるとわかっていても、家に帰りたくて、たまらなくなる。そうしなければ、俺のもう片方の半身が死んでしまう。
 いつか、どちらかを選ばなければならない時が来るのだろう。
 人間の世界から決別して、親父の後を継いで、魔王になるか。それとも、親父とおふくろを捨てて、人間として生きるか。
 選べない。どちらも捨てられない。
 このまま、どんどん俺の力が増し、人間の世界に魅かれるにしたがって、俺は魔王軍の将校を、将軍を倒さなければ、家に帰れなくなる。
 そして、いつか――魔王本人と戦うことになってしまうのか。
 涙でぐちょぐちょの顔をぬぐって、立ち上がる。
 だが数分も歩かないうちに、途中でがっくりと膝の力が抜けて、やわらかな腐葉土の上に崩れこんだ。もう一歩も歩けない。今晩も、ここでタイムアップだ。とうとう、今日も帰れないんだな。
 あの娘のラブレターを思い出す。ごめんな。家でゆっくり読むと約束したのに、果たせなくなっちまった。
 俺って、なんのために生きてるんだろう――。
 そのとき、向こうから大きな人影がゆっくりと近づいてきた。
「……親父」
「こんなところで、何をしている」
「腹へって、動けない」
 父親は、紅色の目を細めた。身の丈三メートルの体をかがめ、背中の大きな黒い翼をふわりと広げて、俺を抱き上げた。
「おかえり、リョウ」
「ただいま」
 温もりと安らぎとともに、新しい力が流れ込んでくる。泣きたいくらい、なつかしい匂い。
 顔を上げて、親父の目をのぞきこむ。笑っている。そこに、敵意はない。
 親父は、俺が魔王軍と戦っているのを知っている。魔族の最強の敵となりつつあることを知っていて、それでも俺を受け入れてくれる。
 いつか。
 いつか俺は、この人と戦ってしまうのか。
 そして、母親を泣かせてしまうのか。
 でも、今はまだ――大丈夫だ。今は、まだ。
 俺は、親父の腕から飛び降り、走り出した。
 外壁はツタのからまるレンガ造り。玄関のプランターには色とりどりの花が咲き乱れ、おふくろ手製の「Welcome」ボードが、ポーチでそよ風に揺れている。
 見た目はまるで、少女趣味の喫茶店。その後ろに、とてつもなく大きな禍々しい岩塊がそびえたっていなければ、の話だけど。
――これが俺の家、幾重もの結界で守られた魔王城だ。
 俺はカウベルのついた扉を勢いよく開け、せいいっぱいの明るい声で叫んだ。
「ただいま! 今日の晩飯、何?」
         





「オンライン文化祭2013 ―帰―」(主催:吉田ケイさん) 小説部門参加作品です。
    

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