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香よりかぐわしきもの


 干からびた大地に坐る女には、腕の中のわが子にたかる蝿を追う力もなかった。
 子どもは昨日から、泣き声をあげない。女はときおり、思い出したようにしなびた乳房をふくませるが、赤ん坊はもう口を開けようとしなかった。
 内戦の銃弾をかいくぐり、トラックで運ばれてきた食料の大きな荷は、とうに底をついていた。
 彼女の部族では、食べ物はまず男が口にする。女たちのもとに、おこぼれが来るのは最後だ。
 骸骨のような赤ん坊のからだを、彼女はそっとなでた。
「ああ」
 歯の抜け落ちた口を大きく開け、彼女はじりじりとわが子を焦がす空を仰いで、祈った。
「ああ」


 男は夢を見た。
 60年近く、毎晩見続けた夢だった。
 足元に中国人の農婦の死体が横たわっている。
 彼女の腹には、自分が突き刺したばかりの銃剣が、昆虫標本の虫ピンのように高々と刺さっている。
 そして彼自身は、日本軍の軍服を着て、そのそばで地面に突っ伏して叫んでいる。
「お赦しください。神さま!
私は大罪を犯しました。
いいえ、こんなことしたくなかったのです。
でも上官の命令に従わねば、私自身が殺されるのです。
しかたなかったのです。基督教徒だということで、ことあるごとに拷問を受け続けてきた私に、選択の余地はなかったのです。
それとも、神よ、あなたは私が死ぬことをお望みだったのですか。
罪を犯す代わりに、仲間になぶり殺しにされることが、あなたの御心だったのですか、主よ!
私は、私は怖かったのです……。
死ぬことが、こんなにも怖かったのです……」
「おじいちゃん」
 男は肩に手を置かれて、はっと目を覚ました。そこは陽光にあふれる静かな平和な室内だった。
「ああ、美智子さん」
「まあ、お嫁さんと間違えてもらえるなんて光栄だわ。あらあら、よだれをいっぱい出しちゃって。何の夢を見ていたの?」
「さあ……。忘れてしもうた」
「それじゃ、おむつを替えましょうね」
「美智子さん」
 男は、にっこりと子どものような笑顔を向けた。
「今日の晩飯は、何だろうね」


 彼女は、閉まりかけた電車のドアを間一髪でくぐりぬけた。
 間に合った。
 走りすぎて血の気の失せた身体をよろよろと動かしながら、開いている席に腰かけた。
 なんで、毎朝こんなことになってしまうの。
 今日だって、5時に起きた。なのに、3歳の娘が保育園に行くのをぐずりだして、結局遅れてしまった。
 最後は玄関で大声で怒鳴りつけて、叩いて、娘の手を無理やり引っぱった。
 ズキンと痛む心を、通り過ぎる車外の景色と同様に見ぬふりをして、目を閉じた。
(ああ、神さま。こんな生活もういやです。家のローンに苦しむ毎日も、家のことをちっとも手伝ってくれようとしない主人も、 手がかかって思い通りにならない娘も。私のやり方に、ことあるごとに口出しばっかりする主人の母も。
何でこんな結婚したんだろう。もう一度やり直せるものなら、やり直させて)
 電車がびっくりしたようにガタンと揺れ、彼女は居心地悪げに、もぞもぞと座りなおした。
(……あのう、神さま。今のは、ちょっと取り消し。ほんの少し、みんなを変えてくれたらいいんです。主人が今よりもうちょっと家事を分担してくれて、 娘の泣き虫がましになって、お義母さんが文句を言わないようになってくれたら、それで十分なんです)
 薄目を開けて、車窓をちらっと見た。
 緑がきれい。いいお天気だ。
 迷ったけど、洗濯物を外に出してきてよかった。今日はきれいに乾くだろう。
 彼女の眉間に刻まれていた緊張が、ゆっくりと穏やかにほぐれていく。
(……神さま。もう一回訂正。もしかして、誰も悪くないのかも。きっと何か歯車が合ってないだけなんです。普通だったら笑って済ませられるようなことを、ほんの少しタイミングが悪い ために、悪く悪くとらえてしまうんです)
 電車が駅に止まり、扉が開くと、爽やかな初秋の風がさっと車中を通り過ぎた。
 ビニールのバッグにぶらさがる、ピンクの飾りがゆらゆら揺れた。娘が保育園で作ってプレゼントしてくれた、毛糸の先が不ぞろいの小さなポンポン。
 彼女はそれをしばらく見つめていたが、指先でつんとつつくと、ふたたび目を閉じた。
(……神さま。本当はどうかまず、私の心を変えてください)


 ふたりは黙って、廃墟をただじっと見つめていた。
「そろそろ行こう。礼拝に遅れるぞ」
 夫のことばに、妻は強く首を振った。
「いいえ……、いいえ! 教会でいったい何を祈るって言うの? 『くそったれのわからずやの神さま、息子を返して』って?」
「わけのわからないことを言うんじゃないよ」
「祈れるわけないわ。もうあの子はいないのよ……。私たちのすべてだったあの坊やはもう」
「あの子は今でも私たちの誇りだよ。あの子は最後までベストを尽くそうとした」
「でも、もういない。あの子といっしょにたくさんの命が一瞬にして奪われてしまった。いったい何故?」
「……わからない」
「憎い! あいつらが憎いわ! 殺してやりたい。あいつらに恐怖と死を。……そう祈っていいの?」
「それは神の御心ではないと思うよ」
「では、何と……?」
「『希望』だよ」
「希望?」
「死んでしまった人たちが持っていた未来への夢や希望。その希望を、残された私たちが決して失わない。そういう世界にしていけますように、と祈るんだよ」
「そんな……」
 妻ははらはらと涙を落として、夫の胸に顔を押し付けた。
「神さま……。神さま……」
「愛しているよ。きみたちを永遠に」
 夫は廃墟に向かってそうつぶやくと、妻を抱きかかえるように、ニューヨークの摩天楼の谷間をゆっくりと歩き出した。


 開け放した夜の窓から、ジャスミンの強い香りが漂ってくる。
 ベッドのそばの床には、昼間の熱を残したテニスシューズ。
「もう寝る前のお祈りは、したの?」
 部屋に入ってきた母に、幼い息子は枕に眠そうな目を押し付けて、首を振るしぐさをした。
「1日くらい、お祈りしなくったっていいでしょ。僕のお祈りがなくても、毎日何にも変わらないもの」
 母はかがみこんで、彼の額にキスをした。
「そんなことないのよ。
聖書にはね。私たちの祈りは香のように、神の御前に立ち上るって書いてあるわ。
かなえられた祈りもかなえられない祈りも、ずっと昔の祈りも遠い外国の祈りも、神さまの前ではひとつになって、ちゃんと宝物のように取って置かれてあるのよ」
「神さまの宝物? すごい」
「じゃあお祈りする? 教えたとおりに言えるかしら」
「うん」
 少年は、ばすんぼすんとベッドを抜け出すと、床にひざまずいて、小さな手を組んだ。
「神さま、今日いちにちお守りくださってありがとうございます。
寝ているときも、昼間と同じようにお守りください。
明日も、世界中の人たちにとって、良い日でありますように。
今祈られているたくさんの人の祈りにあわせて、
イエスさまのお名前によってお祈りします。
アーメン」



6000hitのキリバンをゲットしてくださった南梓さんのリクエストは「祈り」。
人は祈るとき、世界中の人とつながることができる。そういう思いをこめました。


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