アユタヤの遺跡 |
一晩90バーツじゃ、この程度の部屋しかないというのはわかっていた。 それにしたって許容範囲というものがある。 枕はカビくさく、シーツはいつ洗濯したかというほどの、しみのついたシロモノだし、 共用トイレの便器のわきにある、コンクリートの水だめの水は赤さびの色で、シャワーからはお湯どころか水さえ、ちょろちょろとしか出ない。 俺はからだの痒みと、部屋中にしみついた匂いに耐え、ベッドに仰向けになってなんとか眠ろうとした。 ようやく訪れたまどろみを妨げたのは、視界を横切る天井の小さな白い影だった。 それはイモリだった。わずか5センチほどの、はかなげな爬虫類。 現地の人間は「チンチョー」と呼ぶ。そういえば、この安ゲストハウスのエントランスや廊下の壁といわず天井といわず、そこかしこに這っているのを見た。タイではゴキブリよりもありふれた動物らしい。 暗闇にぼうっと浮き上がる、すべりとした白い体は、俺の脳から遠近感をなくした。 点のような丸いふたつの目は、じっとどこかを見ている。 そっくりなものを知っていた。別れ話のあと、泣きもせずじっと俺を見る妻の瞳。 タイ・バンコク。 カオサン通り最初の夜は、眠るにはあまりに刺激的すぎた。 バックパッカーのメッカと言われるこの国に入ったのは、1996年の春のこと。 当時俺は、世界中をあてどなくうろつく漂流者だった。 目的も金もない俺のようなクズが、安ホテル街として有名なカオサン通りに五万とあふれていた時代だ。 その頃のバンコクは、わずか一年後に訪れるアジアバブルの崩壊を知らぬまま、空前の好景気に沸き、街のあちこちに 高層ビルの赤い建設用クレーンが、繁栄を示す広告塔のように立ち並んでいた。 そして繁栄の代償としてバンコクの街が得たものは、大渋滞と無秩序な喧騒、そしてさながら気管に手をつっこんで肺を黒く塗りつぶす画家のスプレーのような排気ガス。 暑さを逃れるため、チャオプラヤ川の川辺に来た。 雑多な店の並ぶ市場をくぐりぬけ、桟橋で1バーツ25サタンを支払って、渡し舟に乗り込む。 わずか数分の船旅をへて対岸に着くと、そこは三島由紀夫の「豊饒の海・暁の寺」で有名なワット・アルンだった。三島は「豊饒の海」の最終回の原稿を渡したその日、東京市ヶ谷の自衛隊駐屯地で割腹自殺を遂げた。 本来ならば、色とりどりの陶器のかけらでできた模様が照り映える、白く美しい塔。だが今は修復工事中で、不細工な足場におおわれた寺は、中を覗くことすらままならない。 すっかりくたびれた体をひきずってゲストハウスに帰ると、俺の部屋に知らない男がいた。 ロビーに降りて抗議すると、満室なので相部屋にしてくれと有無を言わせぬ、太った華僑の女主人のお言葉だった。 肝心なところだけ英語からタイ語に変わる不毛なやりとりに疲れ、俺は部屋に戻った。 相客は白人で、まだ若い綺麗な少年だった。 愛想の良いハシバミ色の瞳をきらめかせてクリストファと名乗り、アメリカのミシガン州から来たと言った。 俺の名はシンゴ。日本の神戸出身だ、と答えると、俺たちは今までの旅の話や、バンコクの情報交換をぽつりぽつりと始めた。 あたりさわりのない会話。長い旅で俺は、ことばを気持ちを隠す障壁として使うことを学んだ。 3本目のシンハ・ビールを空ける頃、昼間じりじりと体を焦がした太陽の熱が俺の意識を失わせた。 それでもどこか覚めた脳のひだの一部で、同室のアメリカ人が、スチールの簡易ベッドをときどきカタリといわせて寝返りを打っている気配を聞いていた。 何日もバンコク市内の寺を行きめぐった。 寺の軒先でしゃらしゃらと鳴る風鈴の音。水がめに浮かぶ薄桃色の蓮の花。原色のガラスモザイクに彩られた柱。 金色の仏像に向かって、人々は幾度も顔を床に着け、伏し拝む。 ジャスミンの花輪と黄色いろうそくと紅い線香をささげて、現世と来世の幸福を一心不乱に祈っている。 禁欲の対極にある無垢な明るさは、見ていて嫉妬を覚えるほど純粋だった。 3度の食事は、街角に必ずある屋台で30バーツも出せば、麺類、白飯と汁気たっぷりのおかず、揚げ物など食べられないものはなかった。 タイに限らず、アジアの旅は驚くほど金を必要としなかった。 もちろんそれが俺の選んだ旅の方法だ。それなりに危険という代償を払ってはいた。 こそ泥やホールドアップはしょっちゅう。けんかにまきこまれたことも1度や2度ではない。 ゲストハウスに帰ると、ちょろちょろ滴る共同シャワーの水をバケツにためて、体を洗い、下着もいっしょに洗うコツも覚えた。 その頃には同室の男も帰っていて、今日回った場所を報告しあう。 ときには、大麻を分け合って吸う。 グラスを吸い終わったときクリストファは、自分がゲイであることを打ち明けた。 そうか。残念だな。俺はストレートだ。 彼は「OK」とにっこりと笑って、そのまま別の話題に移った。 俺が旅の途中で知り合った人間には3種類しかいなかった。 女と、女とセックスしたがる男と、そして男とセックスしたがる男である。 概して、この最後の人種といることが俺には一番、居心地がよかった。 奴らは自分たちと同じ人種以外には驚くほど関心がなかったからだ。 クリストファはいっしょにいて、気持ちが落ち着くやつだった。 話すことがわずらわしいと感じたときは黙っているし、疲れてイライラしているときは冗談を言って笑わせてくれる。とても俺より8歳も年下だとは思えなかった。 時折どこも見ていないような、翳のある目をした。 バンコクの街は、一本路地に入ると父の時代の日本のようだった。 荒物屋の軒先にはアルミの大なべが積まれ、八百屋には蠅捕り紙がぶら下がり、駄菓子屋に子どもたちが群がる。 人々の笑顔もやさしい。戦後の日本が大急ぎで忘れてきたその風景。 それを懐かしむ日本からの移住者、不法滞在者が増えていると聞く。 俺たちの国は、まちがった進化をした。それになじめない多くの日本人が日本を逃げ出し始めている。 線路のわきに延々とつらなる掘っ立て小屋の店や屋台を横目に歩くと、はだしの幼い子どもが、屋台で働く親のそばでじっとこちらを見つめていた。 俺の息子も、もうあのくらいの年だ。 「別れよう。こんな生活、無意味だ」 果てしなく俺を罵り続ける妻に、俺は一度だけ声を荒げてそう言ったことがある。 妻はまばたきもせずにじっと俺を見た。壁を伝う小さなチンチョーのように。 「うれしいわ。あなたにもまだ感情があったのね。機械じゃなかったのね」 離婚届は郵送した。それ以来彼女にも息子にも会っていない。 部屋に戻ると、クリストファは晩飯を食べているところだった。 竹の筒に入れて蒸したもち米の飯だ。 白い赤飯のようだが、ココナツミルクで味付けしてあるため、甘ったるく俺の好みではない。 「夕べはどこへ行ってたんだ? クリス」 「アユタヤだよ。チャトゥチャックの北ターミナルからバスが出てる。遺跡がライトアップされてて、とても幻想的だったよ。あそこはお薦めだ。行ってみるといい」 「そうだな。考えておくよ」 「今日はシンゴはどこへ行った?」 「そうだな。あてもなくぶらぶら歩いてただけだ。ああ、マーブンクロンに行ってTシャツを買ったよ。3枚で500バーツだというのを、150バーツにまけさせた」 「マーブンクロンと言えば、例の腎臓どろぼうの噂、知ってる?」 彼は酔っ払っているらしく、饒舌だった。 「腎臓どろぼう?」 「モールなんかを歩いてると、いきなり何人組かの男たちに、トイレにひきずりこまれるんだ。そして個室の中で麻酔注射を打たれて、意識を取り戻したときにはもう、腎臓の片方が盗まれてる」 「ばかな。そんなことができるわけないだろう」 「それが、できるんだ。やつらの中にはプロの医者が混じっているらしい。きちんと傷口を縫合までしてくれて、歩いて帰れるくらい完璧な処置なんだって」 俺は鼻で笑って、そのままベッドにもぐりこんだ。この類のデマは、バックパッカーのあいだではいつも言い交わされている、小噺のようなものだ。 確かにこの国では、腎臓のヤミ移植が、なかば公然と行われていると聞いた。移植の順番を待てない欧米やアジアの金持ちの腎臓病患者たちが、大金を払って手術を受けにバンコクにやってくると。 金目当てにそうした無謀な犯罪を犯すやつらがいても、不思議はない。 命さえもが金で買える、資本主義という天国。天使たちがピンク色のぬめりとした臓器を抱えて、暗い闇をうごめいている様が目に浮かんだ。 この季節のバンコクは、一年中で一番暑い暑季を迎える。 でこぼこした舗道は、大量の熱を放射し、立っているだけで生きているのがいやになってくる。 町なかの名もしれぬ小さな寺の境内の木陰に寝転び、野良猫といっしょに一日をぼんやりと過ごした。 何かを捜して世界を旅しているわけではない。見たいものもない。 ただ逃げていた。なにかを考えることから逃げていた。 望むことは、このままこの世から消えてしまうこと。 それが不可能なら、次善の策はひとところに住まぬこと。 誰にも知られず、世界のどこかの町でのたれ死んで、身元もわからぬまま。 妻は子どもを産んで以来、俺の知っている女ではなくなった。高飛車で押し付けがましい専制君主になった。 生まれた赤ん坊は四六時中妻の乳房にすがりついて、そしてみるみるうちに大きくなり、俺の顔を見て声をあげて笑いながら、はいはいしてくるようになった。 ぴったりとからみついてくる、このふたつの寄生動物を見て、恐怖を覚えた。 人生のなにもかもに、窒息しそうだった。一流大学卒、一流銀行員としての肩書きを持つ自分にも、ベルトコンベヤの上に乗せられたような結婚生活にも。 だから、逃げた。仕事もなにもかも放り投げて、パスポートだけをひっつかんで飛行機に飛び乗った。 自分のおかした罪はわかっているつもりだ。 からだに熱がたまったまま、俺は息苦しさに寝返りをうった。 暗がりに、さっきまで部屋にいなかったはずのクリストファが俺を見おろして立っていた。 「シンゴ」 彼の闇の中で緑に光る目が、せつなげに濡れていた。 「寂しいんだ。シンゴ」 「俺はゲイじゃない」 求めてくる彼を、俺は両手で突き戻した。 「俺はひとりになりたくて、旅をしてるんだ」 冷たい拒絶に、彼はうなだれて自分のベッドに戻っていった。 今思いだすと、彼の体からは、はっきりと血の匂いが立ち上っていた。 その翌日、彼はベッドから起きてこなくなった。 食事もとらない。毎日壁にむかって泣いている。 俺はどうしてよいかわからず、彼のそばに坐っていた。 「シンゴ。僕には兄がひとりいたんだ」 俺に背を向けたまま、クリストファはか細い声で話し始めた。 「兄は、高校を卒業した年、僕や両親の前で自分はゲイだと告白した。 ずっと隠し通してきたと言った、辛かったと。自分でも認めたくなかったと。 母は泣き出し、父は兄を殴った。僕たちの家は熱心なメソジスト派で、父は地元の名士で教会の執事もしていた。 同性愛者とわかれば、教会にはもう行けない。 なんとか兄を説得しようとした。一時の気の迷いだと言って、無理やり兄を恋人から引き離した」 俺はいたたまれなくなった。 「やめてくれ。クリス。懺悔なら教会でしてくれ」 「聞いて、シンゴ。僕はそのとき15歳だった。兄をののしったよ。恥だ、もう兄弟だと思わないとまで言った。 その晩、納屋で兄はピストルで頭を撃った。僕は血にまみれた兄の死に顔を一生わすれない」 クリストファは大声をあげて泣いた。 くりかえし叫んだ。僕は兄を殺した。殺したんだ、と。 「そしてまもなく、自分もゲイであることに気づいた……」 早朝、俺はアユタヤ行きのバスに乗りこんだ。 あのゲストハウスには、もういたくなかった。 俺が逃げているように、クリストファも逃げているのだ。 自分を兄と同じゲイだと思い込んで、兄の死に対する罪の意識を消そうとしているのだ。 それがわかった今、彼と同じ部屋にいることに耐えられなかった。 アユタヤはバンコクから2時間ほど走った北の古都だ。 町全体が美しい公園のようだった。アユタヤ王朝時代の遺跡が町の中に点在している。 俺は30バーツの拝観料を払って、ワット・プラスィーサンペットと呼ばれる遺跡の中に入った。 中に入ったとたん、3基の巨大な尖塔が威容をあらわした。 むっと異臭がした。カビと草いきれと、年を経たしっくいと煉瓦の匂い。 4月の昼下がり。殺人的な暑さのせいか、観光バスの時間を外れているのか、人影はほとんどなかった。 250年前にビルマ軍に焼き討ちに会い、一夜にして滅ぼされた悲劇の都アユタヤ。 金無垢で被われていたはずの壮麗な寺院や宮殿は焼け焦げた支柱をさらし、都の人々を見守っていたはずの仏像たちは、ことごとく無残に首を断ち切られている。 中華なべの底のような湿気と高温の、沈澱した空気を吸って歩いた。 かげろうが立つ。 ふと回りを見渡すと、俺はたったひとりになっていた。 今はいつなんだ。俺はほんとうに生きているのか。それとも遠い昔に死んでしまった亡霊なのか。 時間が逆流しはじめた。華やかな衣裳に着飾った人々が通りを行き交う姿が、透けて見えるような気がした。 親子が、夫婦が、友人同士が愛し合い憎みあいながら、この王宮で生きていた。 俺は呆然と、彼らの残り香を感じながら、遺跡のまん中で立ちつくした。 なぜ250年前に死に絶えた民族の方が、生きている人間よりも身近に感じることができるのだろう。 寂しい。寂しかった。 妻と息子に無性に会いたかった。 仏塔の狭い階段に座り込み、顔をおおってすすり泣いた。 愛してるなんて、一度も思ったことはなかった。 それを認めるのが怖かった。人生の意味を人に委ねることが怖かった。 人といっしょに生きることが怖かった。 白人の観光客の一団ががやがやとやって来て、遺跡の神聖さをぶち壊し、さんざめくアジアの王族たちの幻想は姿を消した。 俺は彼らに殺意を抱いた。 アユタヤからバンコクへは夜汽車で戻った。 かまぼこ型のホワランポーン駅は修理工事の枠組みにおおわれていた。すべてがアジア大会に向けて動いているときだった。 俺は木枠のアーチをくぐり、公衆トイレに入った。 ふと前触れなく、目の前が暗くなった。 声をあげる間もなく、誰かの手が口がふさぎ、数人の気配が背後から俺のからだを取り囲んだ。 黒い布袋が頭にかぶせられ、視界を奪った。 次に気づいたとき、俺は個室の床にうつぶせに倒れていた。 頭ががんがん痛む。悪寒に耐え切れず、便器の中に吐いた。 床には大量の血を拭き取ったような跡があった。消毒用アルコールの匂いが充満している。 シャツはぐっしょりと真っ赤な液体で濡れていた。俺は思わず自分の腰に手を当てた。 わずか15センチほどの深い切り傷を感じた。傷口を縫い合わせた固い糸の結び目の端が左手に触れる。 クリストファの話が頭に浮かんだ。 嘘じゃなかった、ほんとうにいたんだ。 思わずうめき声を洩らした。よりによって俺の腎臓が盗まれた。 なんという小噺のオチだ。 麻酔のせいだろうか、痛みはないがまっすぐ歩けない。まるで臓器の片方をなくした身体がバランスを失っているかのようだ。 血まみれでよろめきながら歩く俺を見て、人々は気味悪げに道を開いてくれる。 不思議なほど気持ちは落ち着いていた。 今ごろ、俺の腎臓は保冷バッグか何かに詰められて、どこかの病院に運ばれている最中だろう。 ぬらぬらと光ったその物体は、どこかの国の大金持ちの病んだ体の中に移植されるのだ。 もしかして、それは日本人かもしれない。 妻のような女性か、息子のような子どもかもしれない。 そう思ったとき、なぜか無性にうれしくなった。俺の臓器が誰かを生かすのだ。 俺の一部が誰かの中で生きるのだ。 人と生きるというのは、こんなに簡単なことだったのか。 俺は歩きながら笑った。まるで気のふれた酔っ払いのように、声に出して笑い続けた。 病院に行くことは頭になかった。ただクリストファにこのことを早く知らせてやりたかった。 長い時間をかけて、カオサンの安ゲストハウスにようやくたどり着いた。 「クリス。起きているか」 電気が消えた部屋に入ると、ベッドに横たわっている男の背中に、あえぎながら呼びかけた。 「おい……?」 返事がないので近づいて確かめると、彼の深い寝息が聞こえてきた。 Tシャツが半分まくれあがっている。 暗闇に慣れてきた俺の目に、クリストファの美しい白い背中がぼうっと浮かび上がった。 自分の見たものが信じられなかった。 彼の腰、やや左上に15センチくらいの切り傷があった。糸でしっかりと縫い合わされたその傷口は、まわりの肉が青黒く、醜く盛り上がっている。 「おまえも……」 目からとめどなく涙があふれた。 俺は床にひざまずくと、彼の身体に両腕を回し、傷にそっと口づけした。 腎臓窃盗団の話は、実際に作者がバンコク滞在中に聞いたものです。 日本人の駐在員夫人がショッピングセンターのトイレで腎臓を盗られたというまことしやかな噂は、 日本人社会をいっとき恐怖に陥れました。 結局デマにすぎなかったのですが、外国に住む者の抱く得体のしれない不安感を思い出します。 |