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〜待宵草〜





 地上35階から見る都会の夜景は、海の底だ。
 動くものはただ、向かいのビルの屋上で深海魚のごとくゆっくりと点滅する航空障害灯だけ。
 足元をのぞきこむと、規則正しく信号機とネオンサインがまたたき、首都高速を走るヘッドライトとテールランプのせっかちな巡礼が途切れなく続く。
 そのせわしげな様は、まるでこちら側が水面の世界を見上げているような、そんな錯覚におとしいれる。
 城西じょうさいは、部屋を振り返った。
 ここは外よりさらに静かで、そして暗い澱みの中だ。
 執務用の広いデスクの上のディスプレイが、青いうねるような幾何学模様を映していた。
 そしてその回りの闇は、どこよりも濃い。
 軽やかなノック。
 計算しつくされたタイミングで、ドアが開いた。
「社長。よろしいですか」
 かすかに衣擦れの音を立てて、彼の秘書が入室したところだった。
古関こせきくん。まだいたのか。先に帰るように言わなかったか?」
「いえ……。それに、何か私にお手伝いできるかと思いましたので」
「悪かった。俺の車で家まで送らせよう」
「だいじょうぶです。終電までにはまだ間がありますから」
「東横線……だったか」
「よくご存知ですね」
「それくらいわかる。もう5年も俺の秘書をさせているんだからな」
 彼女はうなずいて、デスクの照明を調節した。灯りに浮かび上がる、白いなめらかな手がすばやくデスクの上を動き、既決書類の山とポートフォリオへの赤鉛筆の書き込みを確認して、今晩の彼の仕事の進捗具合を推し量る。ほっそりした指が筆記用具をペン立てに戻す。
 終わると、さりげなく城西の横顔を盗み見た。
「明日のスケジュールを確認してよろしいでしょうか」
「ああ。頼む」
 彼は、レザーのソファに腰を降ろすと、タバコに火をつけ、真正面の秘書の立ち姿にまなざしをそそぐ。
 その視線を受けた途端、古関かおりの細身の身体が、かすかな緊張をはらむのが、仕立ての良いベージュのスーツの上からでもわかった。彼女は脇にかかえていた大きなノートを広げ、読み上げ始めた。
「10月2日、水曜日。8時早朝会議のあと、10時J銀行本店にて頭取との面会。
11時、日本商工会議所会頭との懇談。12時半、エスクァイア投資信託の島津典弘氏と昼食。
2時、帰社後、「日本経済ジャーナル」のインタビュー。3時、各部連絡会議。以上です」
 彼女が読み終えて、伏せていた睫毛をあげたとき、城西は何も聞いていない素振りで煙をくゆらせたまま、首を傾げ、壁を見ていた。
 間接照明に白く浮き上がるその壁には、15号の抽象画、その下の作り付けのアクリルの棚には、濃い塗りの籠地の花器に紫の山アザミや白の小菊が、野趣に富む風情で生けこまれていた。
 草花のまわりで淡い香りが色を帯びて、静かに動いている。
「きれいだな。ずっときみひとりで生けているのか」
「はい。それが私の仕事ですから」
「そうだな」
 城西はゆっくりと頭を巡らし、そしてかおりをじっと見つめた。
「10月26日のスケジュールを調べてくれ」
 軽やかにページをめくる音が部屋に響く。
「群馬工場の視察です。それと、ライオンズクラブの方々との会食」
「どちらもキャンセルしてくれ。予定が入った」
「ご予定?」
「見合いをする」
 彼女は顔を上げる。眼鏡の奥の薄い茶色の瞳が、1、2度またたいた。
「相手はM商事の代表取締役の長女だ。今朝の重役会で決まった。父の代からの番頭連中が大乗り気で進めてきた話だ。奴らは俺が結婚するまでは、安心して引退できないと思い込んでいるからな」
「社長はそのお話をお受けになるおつもりですか?」
「断る理由など何もない」
「おめでとうございます」
「祝う理由もない」
 城西は、弄んでいたタバコをガラスの灰皿に押し付けた。
「俺と結婚した女が幸せになるとは思えない。一日の大半、休日のほとんどを会社で過ごしている、笑うことも、気の利いた台詞をいうこともできない男だ」
「……」
「ただ相手は上流階級の娘だ。俺と同じ教育を受けている。子どもの頃から人を信じることより先に、疑うことを教え込まれる。ほかの女よりは幾分、俺のことが理解できるはずだ」
「……わかりました。予定は変更しておきます」
「頼む」
 彼は短く言うと、ピアニストのような長い指先を閉じた瞼の上に当てて、ゆっくり揉みはじめた。
「その後の日取りが決まり次第、お教えください。それに、婚約指輪もすぐに必要になりますね」
「ああ。指輪はきみにまかせる。適当なものを選んでおいてくれ」
「承知しました」
 古関かおりは、ノートを閉じると退出のお辞儀をした。
 しかし、城西がふたたび目を開けたとき、彼女はなお同じ場所に立っていた。
「……どうした」
「お願いがあります」
「何だ」
「辞めさせてください」
「会社をか?」
 城西は、片眉をあげた。
「そうです」
「ずいぶん、急だな」
「もちろん、社長のご結婚までは、できることはさせていただきます。でも、その後は、湯川さんに引き継いでもらいたいと思います」
「理由は?」
「広島の郷里の母の具合が良くありません。ずっと帰ってくるように言われていました。……それに、もう私の役目は終わったと思います」
「役目?」
「正確に申し上げると、たった今終わったと思いました。社長が、さきほど花をご覧になって、きれいだとおっしゃられた、そのときに」
「それは、どういう意味だ」
 城西は、かすかに色をなして問うた。
「私は5年間、社長の秘書をさせていただきました。この5年間で、社長が私の生けた花をきれいだと目を留めてくださったのは、今日がはじめてでした。 私は、それを待っていたのかもしれません」
 彼女は、相変わらず涼やかな微笑をたたえている。
「5年前の夏、私が秘書室に配属されてほどなく、半導体部品の下請けメーカーとの交渉で長野県の松本にごいっしょしたことがあります。車の中で、社長は眠っておいででした。
高速道路から降り、県道を走っていたとき、ふと目を覚まされ、「あの花は何という花だ」と突然お尋ねになられました」
「……覚えていないな」
「私はそのときまだ、社長のことをよく存じ上げませんでした。先代社長の急死で、わずか25歳で2000人の社員を肩に担う重圧に耐えていらしたことも知らず、 ただ感情のない、冷たい方だという怒りに囚われていました。だから、そのときはじめて、人間らしい表情をお見せになった社長の横顔を見て、私はびっくりしたのです」
 かおりは、そのとき形の良い顎をついと持ち上げて、遠く夜空のかなたを見はるかしているようだった。
「社長のご覧になっていたのは、県道の中央分離帯に雑草に混じって生えている丈の高い花でした。丸い花弁がかわいらしい、黄色の花でした。私はふいうちを受けたようにどぎまぎして、思わず「あれは月見草です」 と答えてしまったのです。
社長は「あれが月見草か」と呟かれました。そして、ご自分が花の名前を何も知らないこと、小学生の頃から父親の後を継ぐために、友だちと野原で遊ぶ時間も、道草をする自由も与えられなかったことをお話くださいました」
「……」
「お話はわずかな間でしたが、私は今でもはっきりとあのときの社長のお声を覚えています。低く、とても寂しそうな……。ところがそのとき、私はとんでもない間違いをおかしていたのです」
「間違いとは?」
 城西は、魅入られるように彼女の口元に視線を注いでいた。
「あれは、月見草ではなかったのです。月見草は元来白い花で、しかも夕方から夜にかけてしか花を開きません。あの黄色い花はまったく違う種類の「待宵草まつよいぐさ」、または「宵待草よいまちぐさ」と呼ばれる外来種の花だったのです。私は そのことを、出張から帰ってきて、調べて初めて知りました。私の住んでいたふるさとでは、あの花を見かけることはありませんでしたから」
 かおりは、ざんげをするごとくに、唇を噛んだ。
「私は、社長に申し訳なく思いました。はじめて素顔を見せてくださった社長の心を傷つけてしまったような気がしました。本当のことを言って謝ろうと思いましたが、なぜかできませんでした。
その代わりに、私は生け花を習い始め、毎日、社長室に花を生けました。社長にいつも花をご覧に なっていただこうと、それが私の罪滅ぼしだと、そう5年間思ってきました。でも」
 彼女は元通りに向き直ると、城西を見て微笑んだ。
「今日で、私の罪滅ぼしは全うされたと感じました。ですから、もう社長のおそばにいる必要もありません。私は……」
 華奢な白い喉が、ことばを飲み込んで小さく震えるのが見えた。
「長い間、お世話になりました。あとわずかですが、精一杯勤めさせていただきます」
 彼女はもう一度礼をして、きびすを返した。
「古関くん」
「はい」
「退職は認めん」
「え……?」
 思わずふりむいた彼女のこめかみに、ひとすじのほつれ毛が落ちた。
「退職理由が嘘だからだ。きみのお母さんはご健在だ。特に健康に何の問題もなく、お兄さん夫婦と同居しておられるはずだ」
「なぜ、それを……」
「きみのことは知っていると言っただろう」
「……」
 城西は足を組み、ソファにもたれたまま、切れ長な漆黒の瞳で、まっすぐに彼女を見つめ返した。
「俺は5年間、きみの生けてくれた花で季節の移り変わりを知った。花を生けているきみの指先をいつも見ていた。言わなければわからなかったのか。 仕事のことなら、何も言わなくてもすべて先回りして俺の心を読んでいたきみが、俺の心の奥底だけは見抜けなかったというのか」
「社……長」
 ふたりは、しばらくの間お互いの呼吸の音だけに耳をひそめ合った。
「辞職の件は聞かなかったことにしておく。いいな」
「はい……」
「それから、26日の予定も最初どおりだ。変更の必要はない」
「はい、でも……」
 涙をふくんだ声を小さな咳払いで押しやりながら、かおりは気遣わしげにたずねた。
「重役会で決まったことなのでは……」
「たまには年寄り連中の肝を冷やして、背骨を伸ばしてやってもいいだろう」
 城西の相変わらず無表情に見える顔には、いたずらを思いついた少年のような無邪気な微笑が、わずかにのぞいていた。それにようやく気づいた彼女にも、次第に共犯者の笑みが広がる。
「そうだ、ついでだから、来年の5月の連休前後の予定をすべてキャンセルしておいてくれ」
「はい」
「4月末の大安の日を調べ、ホテルニュートーヨーの大広間の手配。あとの段取りはすべてきみにまかせる」
「はい」
「婚約指輪も、適当にみつくろってくれ」
「それはお断りします」
「……え?」
 彼女は、秘書になって以来、初めて使ったそのことばの余韻に戸惑いながらも、にっこり笑った。
「それだけは、社長ご本人がお選びになったほうがよいと存じますから」









この作品は鹿の子さんのサイト「日々楽々」の競作企画「らばーず」に参加したものです。
後日談として、「ムスクの香りの女」をアップしました。            *    *    *    *
背景壁紙はPurplemoonよりお借りしました。



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