(1) 古いものの匂いが好きで、私はいつも祖父の店で遊んでいた。 祖父の店は、京都・三条の古門前通りという小さな路地にある骨董屋で、私は小学校、中学校の帰り道に、「観花堂」と染め抜かれた海老色の暖簾をくぐるのが日課だった。 入り口の土間に、優しい顔の道祖神。 日本刀の鍔や中国のトンボ玉が並べられたガラスのケース。 伊万里の茶碗が無造作に積み上げてある木の棚。 鈍い飴色に光る薬箪笥。引き出しを開けながら、江戸時代の町医者がひょいひょいと、この中から慣れた手つきで丸薬を取り出している光景を思い浮かべる。 そんな時間が子どもの頃から、たとえようもなく好きだった。 高校へ入ってしばらくすると、祖父は私に1時間か2時間、店番をまかせてくれるようになった。 「たえ、古美術商組合の寄り合いやからな」 その日も祖父は、玄関で麻の帽子をかぶると出て行った。 しばらくすると、軒に雨の当たる音が聞こえた。 「おじいちゃん、傘持ってったかな」 読んでいた文庫本から顔を上げて、誰にともなくつぶやいた。 どうせ、初夏の雨。止むまでの間「昇竜庵」のご主人と将棋の二勝負目を指すのだろう。 雨は近くを流れる白川の水面を打って、石畳の通りを叩いて、木々を揺らして、格子戸を通り抜けて、水の匂いを運んでくる。 アメリカ製のダルマ時計の振り子の音が、かっちかっちとあたりに響く。 ふと空気が動いた。私はぱたんと本を閉じ、誰かが店に入ってきたのかと見回した。 誰もいない。 立ち上がって、店の入り口に出る。誰もいないことを確かめ、奥の帳場に戻る。 象の銅器の置物。木彫りの鬼の立像。李氏朝鮮の白磁の壷。 次々と通り過ぎて、私の目は正面の柱の壁にかかっている一枚の鏡に釘付けになった。 それはうちの店の商品にはめずらしい、昭和初期のアールヌーボー調の壁鏡だった。葡萄のつるに似た凝った銅製のひだ飾りは、歳月のため黒くすすけている。 その鏡にひとりの男の姿が映っていることに気づいて、あわてて口を押さえたものの、洩れた悲鳴が壊れたふいごのような音を立てた。 「ふひゃあっ」 幽霊。幽霊だ。 真正面に立っている私と鏡とのあいだには、空気以外の何物もない。映るはずのない映像だった。 幽霊が出そうな骨董屋。小学校の同級の悪童たちがそう言って私をからかったものだが、まさか自分の目が本物の幽霊を見るはめになるとは。 腰をぬかしかけた私を、男の目はとらえたようだった。 「誰だ。きみは」 うわあ、しゃべった。人間さまに向かって誰だなんて、幽霊のほうから聞かないでよ。 でもその声は、一目散にその場を逃げ出そうとしていた私の足を止めた。 声の中にかすかにかぶる、怯えたような響き。相手も怖がっている。 「あなたは、……あなたこそ、誰なの?」 私が問いかけると、男は目を少し見開いた。答えが返ってくるとは思ってなかったのだろう。向こうも私を幽霊だとおもっていたのだろうか。 鏡の向こうは別の空間と言われる。 彼は向こう側の世界から反対に、鏡の中に映るはずのない私の姿を見ているのだろうか。 私はまだ少し怖かったが、一歩だけ鏡に近づいて男を見た。 私と同じ高校生か大学生くらい。後ろになでつけそこねた黒髪が数房、はらりと額にかかっている。日に焼けていない神経質そうな顔。きれいにアイロンをかけた白いシャツ。楕円形の鏡には上半身しか映っていない。 「僕は校倉(あぜくら)栄一という」 「私は、春日野たえ。ここは祖父の骨董屋」 「骨董屋?」 「京都三条の「観花堂」っていうの」 「京都?」 彼は視線を泳がせ、一層、眉間の皺を深くして考え込んでいる様子だった。 「……あなたは?」 「ここは、僕の下宿している部屋だ。この春から同文書院に通うために、近くの中国人夫婦の住む家の2階に間借りしている」 「……場所は?」 「……上海」 「上海?」 「上海がどないしたって?」 いつのまにか店の入り口で、祖父が借りてきたらしい傘を傘立てがわりの萩焼の壷に差しているところだった。 「あ……」 私は祖父に向かって口をぱくぱく開けて、ふたたび鏡を振り返った。 もうそこには、骨董に囲まれてぽかんと立っている私以外、何も映ってはいなかった。 「お、おじいちゃん、この……鏡!」 「ん? その鏡がどないした」 私は勢い込んで、祖父に今見たことをすべて説明しようとしたが、すぐに考えを変えた。 もしかすると、夢かもしれない。私は単調な夕立の音に眠気がさして、まどろんでいただけなのかも。 確かめる方法がひとつあった。 「おじいちゃん、上海に同文書院っていう学校があるかどうか知ってる?」 「あるで。東亜同文書院大学」 私は身を固くした。もしそんな学校が実在するのなら、今のは夢なんかじゃないことになる。 しかし、祖父の次のことばが、さらに私を凍りつかせた。 「でも、それは日本が中国を侵略していた頃の話。戦前のことやで」 次の日、高校の帰りに観花堂に行くと、祖父は待ちかねていたように帳場を立った。 「この荷物を急ぎで届けてこなならんのや。ちょっと本局まで行ってくるから、店番頼む」 「うん」 祖父が出て行ったあと、私はしばらく逡巡した挙句、あの鏡の前に立った。 あの男性は現われるだろうか。それとも、あれは古い鏡が見せた一回限りの幻? 思いあぐねる間もなく、鏡面がかすかに揺らいだかと思うと、カメラがゆっくりと焦点を合わせるように、万華鏡のようなもやの中から、また彼の姿が映し出された。 「また会えた……」 彼は信じられないと言った面持ちで、私をまっすぐに見つめた。 「あれから毎日、きみにまた会えるかと思ってここをのぞいていた。もうほとんど諦めかけていたのに」 「毎日? きのう会ったばかりなのに?」 「なに言ってる。あれはもう一ヶ月も前だ」 私は否定の意味で首を振りかけて、ふと祖父のことばを思い出した。 「あの、そっちは今、いつ? 戦前なの?」 「戦前?」 「あの、つまり、今はいったい何年なの?」 「昭和18年に決まってるじゃないか」 言いかけて、彼は喉の奥がつまったような音を立てた。 「そっちはそうじゃないのか?」 「今は平成15年」 「平成?」 「昭和のあとが平成なの」 「未来……なのか?」 ふたりはしばらく黙りこんだ。 「にわかには、信じがたい」 抗うように、彼は力なく答えた。眼の前の鏡が映すはずのない映像を映している、その現実の前でなお、否定する気持ちが勝っているのだ。 「じゃあ、証拠を見せる」 私は、帳場に飛んで行って、祖父が読んでいた新聞を鏡の前にかざした。 「一番上の日付を見て」 2003年(平成15年)5月14日。 「21世紀……」 彼はあらためて私をまじまじと、こちらが恥じ入るくらいに見つめた。 「きみのいる場所は今と、何も変わっていないように見える」 「それは、ここが骨董屋だから。私の制服も古くさいセーラー服やし」 私はそう言いながら、新聞を鏡に近づけた。 「あ、ここのテレビ欄を見て。テレビは昔にはなかったでしょ」 「テレビ……」 彼はよく見ようと、目を細めて鏡に顔を近づけた。 「あ……」 「ああっ」 そのとき、信じられないことが起きた。湖面に石を投げ入れたかのように鏡がゆらめくと、新聞がすっと中に吸い込まれていってしまったのだ。 次の瞬間、彼の手の中に未来の新聞が握られていた。 「こんな……」 「ものの行き来ができるんだ……」 我に帰ると、彼は恐ろしい魔術の書物でも扱う手つきで、おそるおそる紙面を繰った。 「イラク……戦争。有事関連法案……。大東亜戦争の戦況のことはどこにも書いてないようだが」 「あたりまえだよ。戦争は昭和20年に終わったの」 「終わった? 昭和20年、そんなに早く?」 「日本は負けたの」 「負けた……」 「しばらくはアメリカに占領されたりしたけど、そのあとは戦争をしない平和な国になった。今の日本はとても平和だよ」 「そうか……」 彼はほとんど表情を変えずにそうつぶやくと、固く口を結んだ。 「ごめん、その新聞返してくれない? おじいちゃんにどこにやったって聞かれると困るから」 「あ。すまない」 ふたたび彼の手から鏡面を通って、新聞は現代に戻ってきた。60年の歳月を経て帰ってきた新聞。黄ばんでかさかさになっているかと思わず表面を撫でたが、元のままだった。 「もっと見たかった?」 「いや」 私の手に移った新聞からまだ目を離さぬまま、けれどもそこには安堵に似た光が宿っていた。 「これから何が起こるかを見るのは、怖い。未来の出来事を知るべきではないと思う」 「そうかもしれないね」 「あの。……たえさん?」 「あ、はい」 「僕たちは、なぜこんなふうに時を越えて話ができるんだろう」 「わからない。この鏡の力じゃないの?」 「これはこの部屋にずっと前からあったものだ。家主の中国人にも聞いてみたが、不思議なものを映し出したことはかつて一回もなかったそうだ」 「私も。この鏡は1年くらい前からこの店にあるけれど、こんなことはこれが初めて」 「きみさえ、もしよかったらだが」 彼は、はにかみながら言った。「これからもこうして鏡をのぞいて、僕と会ってはくれないか」 「え?」 「これは人知を超えたことであるという気がする。僕ときみがこうして時を越えて話ができるのは、天が与えた何かの意味があるのではないか。もしきみが承諾してくれたら、できる限り僕はこの鏡の前に立って、きみを待とうと思う」 「……」 「いやだろうか?」 彼の瞳の真摯なさまに打たれて、 「は、は、はい」 私はすっかりあわてふためいて、そう返事をしてしまった。 その日から私は、何のかのと理由をつけて祖父を店から追い出した。 「いったい、どないしたんや」 「ひとりでしんみりとしっとりと、本を読みたいだけや」 祖父はいぶかしげに聞いてきたが、私は本当の理由を言わない。 この奇妙なデートをふたりだけの秘密にしておきたかったのだ。もし真相を知られれば、祖父は鏡の構造や由来を調べようとするだろう。そうすれば鏡は過去を映す力を永久に失ってしまうかもしれない。 確かに栄一さんは、私がひとりで鏡の前に立つときを選んでしか現われなかった。 私にとってはそれは毎日のことだったのだけれど、彼にとってはそうではなかったようだ。 私が彼の下宿の部屋の鏡に映し出されるのは、短くて一週間、長ければ一月も二月も間隔を置いてから、であるらしい。 そのたびに彼の服装や部屋の様子は変わっていて、季節のうつりかわりを感じさせた。 彼の実家は裕福な貿易商だった。上海の大学を選んだのも、将来彼に会社を継がせたいと願う父親の意向だという。 東亜同文書院大学は、当時上海にあった日本の名門大学で、全国の都道府県から選ばれた公費留学生と私費生が日中両語で政治や経済を学んでいた。 栄一さんは私費留学生だった。いつも仕立てのよい服を着て、部屋の調度もゆきとどいて、とても戦時中とは思えなかった。 読書家らしく、部屋の隅の二つの石炭箱にいっぱいに、哲学や文学の書物がぎっしり詰まっているのも見えた。 映画を観るのも好きで、よく私の知らないヨーロッパ映画の話をした。マレーネ・ディートリッヒというドイツのきれいな女優さんの白黒のブロマイドを写真立に飾っていて、恥ずかしそうに鏡の前で見せてくれた。 彼は、誠実な人柄だった。現代ではもうどこでも聞けないような、折り目正しいことばづかい。 神経質そうに眉をひそめる癖も、私と気持ちが通じ合うにつれて消えて行った。 軍国主義の教育を受けた人はもっとコチコチに洗脳された石頭かと思っていたが、彼はそうではなかった。平気で時の政府の批判もした。 あとで考えると、それは外国にいるからできることだったのかもしれないが。 日本が戦争に負けるという未来を、彼は冷静に受け止めていた。 「しかたがないと思う。外地に来て初めて、日本の小ささと世界の大きさがわかった。日本はバカだ。身の丈に合わない無謀な戦争を始めてしまったんだ」 口から出ることばとは裏腹に、さびしそうな目をしてつぶやいた。 私はだから、広島や長崎に落とされたあのむごい原爆のことを彼に話すことができなかった。これから自分の国に訪れる避けられない運命を知ってしまったら、人はどんな思いで生きるのだろう。私は彼を悲しませたくなかった。 「京都はそんなに空襲に会わなかったの。アメリカは、京都や奈良の文化遺産は破壊しなかったみたい」 本当は京都は原爆投下の候補地にさえなっていたらしいのだが、私はそのことも黙っていた。 「そうか。それは良かった。たえさんの家も家族も無事だったんだね」 睫毛の長いきれいな目を細めて、心からうれしそうに笑う。 私はその笑顔が見たくて、彼との時間を何よりも大切なものとして心待ちにするようになった。 (2)につづく |