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手をのばして


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 誰にも話しかけられたくない。
 だから、講義が終わった瞬間に、法経の階段教室を一気に駆け下りた。
 外にカギもかけずに置いてあったボロ自転車にまたがり、時計台の横を過ぎ、正門を抜けて東大路通りに出る。
 午後の風は冷たい雨まじりで、往来の人々も肩をすくめて歩いている。
 知恩院前で西の小路に折れ、古門前通の一軒の骨董屋の店先で自転車を停めた。雨のしずくで濡れた眼鏡をはずし、シャツのポケットに差してから、ガタガタと木の引き戸を開けた。
 中はかびと埃の入り雑じった匂いのする、薄暗くひんやりとした空間だった。
「あ、遥(よう)くん」
 帳場に座って、文庫本を読んでいた少女が、俺を見て意外そうに微笑んだ。
「金曜は、来ない日じゃなかったの?」
「カテキョの子が期末試験中で、行く日を振り替えたんだ」
 むっつりと説明すると、「座って」と自分は立ち上がり、慣れた手つきでお茶を入れてくれる。
「はい、どうぞ」
 湯呑みとともに手が触れ合うと、彼女は恥ずかしそうにした。そして、さり気なく俺の顔を見た。
 俺ではない、俺にそっくりな、もうひとりの男の面影を見ている。
 ざらざらした手触りの赤茶けた陶器は、元は店の売り物で、備前焼というそうだ。
「これはねえ。おじいちゃんに頼んでお客さん用にしてもろたの。窯(かま)の中で灰に埋もれたところが、青っぽく見えるのが、すごくきれいでしょう」
 と丁寧に説明してくれるが、こっちはさっぱり焼き物の良さなんてわからない。彼女は俺が骨董に興味を持ったから、ここに来ると思いこんでいるのだ。
 熱い湯呑みを抱えながら、所在無くあたりを見回した。壁一面を埋め尽くすように、数百年の歳月を経た道具類が雑然と置かれている。
 それはまるで、時間の堆積物が化石となって見つめ返しているような、そんな薄気味悪さだった。
 だがその中に、見知った物がたったひとつだけ混じっている。静岡の家に昔あった鏡。この鏡が五ヶ月前、俺をこの店に結びつけた。
 付き合いが悪くなったと訝る友人どもに、俺がこうやって骨董屋で、毎日まったりと茶してることなど絶対に内緒だ。
 自分でも不思議だと思う。どうして俺ともあろうものが、こんなかび臭い場所に足しげく通うようになったのか。
 そして、目の前にいる「祖父の恋人」だったという女子高生のことが、どうしてこれほど気になってしまうのか。


 俺の死んだ祖父、校倉栄一は、若いときに不思議な体験をした。太平洋戦争のさなか、上海に留学していた頃のことだ。
 鏡の中に、未来に住むひとりの少女を見つけたという。
 彼女は2年間にわたって幾度も鏡の中に現われ、祖父と語り合った。彼女は確かに生きていた。鏡面を透かして、手のひらをわずかに触れ合うことすらできた。
 祖父は暗い時代を生きるための、ただひとつの灯火のように、彼女が鏡の中に現われるのを日々待ち焦がれていたという。
 普通ならば、祖父が孫にたわむれに話す、他愛のない作り話だ。だが、まだ幼かった俺は、いともたやすく信じ込んでしまった。鏡の少女に会いたくて会いたくて、ときどき祖父の書斎に無断でしのび入っては、あの古い鏡を長い間のぞきこんでいたこともある。
 さすがに成長するにつれ、そんなことはすっかり忘れてしまっていた。
 だが、祖父は死の床に着いたとき、驚くようなことを俺に頼んだのだ。
「わたしはあと2週間で死ぬ。そのときは、京都の古門前町の「観花堂」に行って、この手紙を鏡の少女に届けてほしい」
 そして、その言葉どおり、祖父はぴったり2週間後に亡くなった。
 遺言を守って、その骨董屋を訪れた俺の目に飛び込んできたのは、祖父の名を呼びながら泣き崩れている女の子の姿だった。
 春日野たえ。高校二年生。そいつが、今目の前にいる女子高生だ。
 彼女は一ヶ月の間、鏡の中の若き校倉栄一に毎日会い、彼を心から愛したと言った。その話を聞いたとき、俺は混乱した。
 俺はただ、だまされているだけじゃないのか。祖父と文通か何かで知り合った彼女が、俺をからかおうと思って、おとぎ話の中の少女を演じているだけじゃないのかって。
 しかし、もしそうなら、なぜ祖父は何のゆかりもないこの観花堂に、大切にしていた鏡を預けたのだろう。冗談にしては、説明のできない不思議が多すぎる。
 疑いながらも俺は次第に、たえの話が真実であることを信じ始めた。いや、願っていたのかもしれない。祖父のために流した彼女の涙が、決してウソであってほしくないと。


「どうして飲まないの。冷めちゃうよ」
 ぼんやりと店内を見つめていた俺をのぞきこむように、たえが言った。
「熱くて、飲めないんだ」
 不貞腐れて答えると、
「いやあ、まるで子どもみたい」
 ころころと笑う。俺はむかっ腹を立てた。
 何かにつけ俺のことを、たえは子ども扱いするのだ。祖父の栄一と愛し合ったというだけで、まるで実の孫でも見るような気分にひたっているのだろうか。
 大変な混乱の時代をくぐりぬけてきた若い頃の祖父にくらべれば、俺が頼りなく見えるのはわかっている。それはひそかに自分でも引け目を感じていたことだった。実業家として財をなし、人格も教養も申し分なかった祖父と何もかもそっくりだと言われるたびに、どうしようもなく劣等感に襲われる。顔は似ていても、中身は全然、同じじゃない。
 それでも、2歳年下の女子高生に「子どもみたい」と言われたくはない。
「いつも家では、温度の低い玉露ばかり飲んでたからな。こんな安物の煎茶じゃなくて」
「遥くんのふるさとも、お茶の名産地だもんね」
「両親が働いてたから、俺は祖母に育てられたようなものでね。祖母は、とてもお茶を淹れるのがうまかった」
「いいおばあさまだったのね」
「祖父母はとても仲がよかった。忙しい仕事の合間を縫って、しょっちゅう二人で散歩したり旅行したりしていたよ」
 どんどん意地悪な気分になっていく己を自覚する。
「祖父は祖母のことをとても大切にしていた。祖母の死を看取ってから、安心したように自分も逝ったんだ。一生鏡の中のあんたのことを思い続けていたなんて、そんなことはありえない」
 どんなに残酷なことを言っているのか、よくわかっていた。でも、苛立つ気持ちは止められなかった。
 祖父が50年余の結婚生活で、他の女性をそっと想っていたなんて、家族としても認められないのだ。それでは、あまりにも祖母がかわいそう過ぎる。
「うん、わかっている」
 たえは傷ついた顔を見せることもなく、穏やかにほほえんだ。
「栄一さんは結婚して、奥様のことを本当に愛したのだと思う。栄一さんは、そういう人だから」
 それを聞くと、カッと頭に血が昇った。
「おまえに、祖父の何がわかる!」
 俺は我知らず立ち上がり、怒鳴っていた。
「俺は、19年間いっしょに暮らしたんだ。祖父の膝に乗り、いっしょに食事をして、そして――最期の息を吐くのを枕元で見届けた。おまえなんか、何も知らない。俺たち家族が積み上げてきたのは、おまえが鏡の中の祖父と過ごしたより、はるかに長い時間なんだ!」
 雨に揺れる柳の枝のように、彼女の睫毛が震えた。
 見開いた大きな瞳から、涙がひとしずく滴り落ちた。
「ごめんなさい……」
 やっとのことでそう答えると、彼女は立ち上がり、黒光りのする柱の前にとぼとぼと近づいて行った。
 そこには、歳月を経て煤けたように曇った、祖父のあの鏡がかかっていた。
 知らず知らずのうちに、鏡にこめられた祖父の思い出に助けを求めるつもりなのだろうか。
「その鏡は俺のものだ!」
 俺は悪魔のような心に取り憑かれたまま、たえを鏡の前から引き離そうと荒々しく歩み寄った。
「あ……」
 ふたりの口から同時に声がもれた。
 鏡面は、さざ波を立てたように揺らめいて、骨董屋の内部とは別の空間を映し始めたのだ。
「栄一さん!」
 彼女は身をよじって俺を振り切り、鏡の錆びた銅製の枠を両手で力いっぱい握りしめた。
「栄一さん、栄一さん、あなたなの……? お願い、もう一度顔を見せて!」
 俺は、たえの後姿を茫然と見つめていた。
 彼女の全身が叫んでいた。『逢いたい』、と。俺には想像もできないほど強い、狂おしい想い。
「栄一さん、なぜ来てくれないの。そこはどこなの……」
 たえの口から力ない吐息が漏れたのと同時に、俺は彼女の肩越しに鏡の中をのぞきこんだ。
 それは、見知った光景だった。祖父の書斎。それも、大工に手を入れてもらう前の古い書斎だ。本当に、この鏡は過去を映し出すのだ。
「これは俺の家だ」
 目を疑うような奇跡に圧倒されながらつぶやく俺に、たえは振り向いた。
「今から10年以上前の、静岡の家だ」
「そう……なの」
「祖父は、この時にはもう結婚していた。子どももふたり生まれた。孫も」
 失意に肩を落とすたえを見て、俺はなおも怒りに囚われ、容赦なく、とどめのことばを吐き出した。
「祖父は、言ってた。上海で徴兵される前の日にあんたに別れを告げて以来、二度と鏡の中に未来を見ることはなかったと」
 祖父のことばが本当なら、たえはもう二度と祖父に会うことはない。もしそんなことにでもなれば、時間はねじまげられ、歴史が変わってしまう。
 彼女はこっくりとうなずいて、床に静かに崩れこんだ。
 こみあげる嗚咽を必死でこらえている彼女を見下ろしながら、俺は絶望的な敗北感にうちのめされていた。
 俺では、たえの心を切り刻むことはできても、たえの涙を止めることはできない。
 たとえ、どんなにそっくりな顔をしていても、俺は永久に、彼女の求める校倉栄一にはなれないのだ。
 息苦しさと、キリキリと痛むみぞおちに、ようやく俺は、遅すぎたひとつの真実を悟った。
 祖母のために怒っていたのではなかった。祖父の名誉を守ろうとしていたのでもなかった。
 いつのまにか、俺自身がたえを愛してしまったのだ。
 ふと、視界の端に動くものを見つけた。
 誰かが鏡の中の世界で、ドアを開けて書斎に入ってきたのだ。
 息を呑んで見つめていると、そいつは下の方からゆっくりと、よじ登るようにして俺の視界に入ってきた。
 4、5歳くらいの、利かん気そうな男の子。それはまぎれもなく、俺だった。
 雷に打たれたように、すべての記憶がよみがえる。
 幼稚園から帰った俺は、祖父の不在を知って、書斎にこっそりと入りこんだのだ。いつものように椅子の上に乗って、壁にかけられた鏡を覗いた。
 そこに映ったのは、いつもの見慣れた書斎の風景ではなかった。その向こうにあったのは……。
「あ」
 子どもの俺は、甲高い声で叫ぶとまっすぐに手のひらを差し出した。鏡面が激しく揺れ、小さな手だけが、にゅうっとこちらに飛び出てきた。
「ひゃあっ」
 苦痛の叫び声。
 そうだ、あのとき俺は痛さのあまり失神してしまった。それきり後の記憶がないのだ。
 考える間もなく、その手をつかむと、ぐいと向こう側に押し戻した。
 全身を突き抜ける衝撃。耳をつんざくような轟音が響いた。
 俺たちが手を触れ合った場所から、ぴり……とひび割れが始まると、みるみるうちに、鏡全体を埋め尽くした。
 ショックのあまり放心していた俺がふたたび目を上げたとき、鏡は粉々に割れ、床に無数の破片を撒き散らしていた。
 俺は過去の自分自身と出会ってしまった。あってはならない時間の禁忌を犯したがために、鏡はその衝撃に耐えられなかったのだろう。
 ようやく身体の痺れから立ち直って、たえのもとに這い寄ると、ぼんやりと座り込んでいる彼女の手を取った。
「栄一さん……」
 鏡が割れ、もう二度と愛する男に会えなくなったことを認めたくないのだ。彼女は心を亡くしたように、祖父に瓜二つの俺の顔を見つめるばかりだった。
「たえ」
 涙があふれるのを、感じた。
 自分がこの人をどれほど大切に思っているか、今ならわかる。俺は、祖父の遺した彼女への愛情を、そっくりそのまま受け継いでしまった。
 鏡が十数年前を映し出したのは、偶然ではなかった。もし鏡に心があるとするなら、最後の魔力をふりしぼって、俺に子どもの頃の俺を見せてくれたのだ。鏡の中の少女に会いたいと、いつもワクワクするような気持ちであこがれていた自分自身を。
 あの頃から俺は、たえに出会う日を待っていた。
 鏡の思い出を話してくれたのは、祖父はこうなることを心の中で願っていたからだろう。いや、ひそかに確信していたにちがいない。遺書を俺に託したときには。
 俺は見事にその計略にハマったわけだ。少しシャクだが、しかたない。もう自分の気持ちを変えることはできない。変えるつもりもない。
 俺は祖父の祝福するような笑顔を頭の片隅に見ながら、運命の神の筋書きどおりに、泣いている彼女を抱きしめて、額にそっと口づけた。


(終)









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