惣暗(つつくら)
分厚い壁に四方を囲まれた石牢は窓もなく、夜ともなると漆黒の闇に塗りつぶされる。
ヒヨは仰向けに横たわって目をつぶりながら、浅い呼吸を繰り返していた。
とろりとぬめった空気に、かすかなさざ波が立つ。形のない重みが、彼女の近くに現れる。
「つつくら」
ヒヨは壊れやすい泡を触るように、そっと呼びかけた。ああ、とそれは答えた。
惣暗(つつくら)。闇の住人。夜の化身。存在するはずのないもの。
乳房のふくらむずっと前から、ヒヨはここに住んでいる。
日の国を治める天照らす女王(おおきみ)は、神託によって大勢の巫女の中からヒヨを跡継ぎと定めた。ヒヨはすぐに父母から引き離され、大勢の女たちにかしずかれて、神殿の中で暮らし始めた。
きらびやかな螺鈿細工の家具、しゃりしゃりと音を立てる光る布、朱塗りの椀に入れられた湯気の立つ食べ物。
だが、幸福な記憶はそこで途切れる。
女王が崩御なされた日のことだった。侍女のひとりであったカガミが謀反を起こし、玉座を奪い取ったのだ。
風の夜。大勢の悲鳴と怒号があたりを包み、気がつけば、彼女ひとりがここに押し込められていた。
それ以来、ひとりの人間にも会ったことがない。
夜が明けたあとに一度、暮れる前に一度、小さな穴からにゅっと手が入ってきて、水と食べ物の椀を差し入れる。ほとんどは、拳の大きさに握られた固い干し飯と一杯の汁椀。空になった椀を穴のそばに置いておくと代わりが来る、その繰り返し。ことばが交わされることはなかった。
冷たい床に古いわらを敷いて、そこで眠る。そでのない衣ひとつの体をぎゅっと縮めて、我とわが身を温める。
地面に開けられた穴に用を足し、週に一度差し入れられるぬるま湯とぼろ布で体を拭く。
ヒヨはいつしか、言葉を忘れた。言葉とともに、泣くことを忘れた。
指を目の前に近づける。かろうじて見える。
しばらくして、また近づける。今度はもう見えない。新しい夜が訪れたのだ。
あとは、気が遠くなるほどの冥漠が支配する時間だ。何も見えないというのに、ヒヨは目をつぶることが恐ろしかった。体が溶け出して、自分の形がなくなってしまいそうで、怖かった。
昼に寝て、夜はわらの上に仰臥して、ひたすら深淵を見つめるのが習慣になっていた。
昨日から明日へと、同じ夜を幾百過ごしただろうか、ヒヨは部屋の隅にうごめく気配を感じた。
「あ……」
喉を開いたのはあまりにも久しぶりで、かすれて声にならなかった。
答えはなく、じっとヒヨを見つめたあと、すっと気配は消えた。
次の夜も、その次の夜も、同じだった。
「だ……れ」
考えて、一日じゅう考えて、ヒヨはようやく適切な言葉を、記憶のむろから取り出した。「だれ……なの」
どこからか、ぼんやりとくぐもった声がした。気づいていたか、と。
ヒヨは手足を硬く突っ張って、しばらく身じろぎしなかった。
「だれなの」
頑なに繰り返すと、言えぬ、という答えが返ってきた。
その声は、あたかも弦が音楽を奏でるように遠く低く、牢の空気を震わせた。
続いてそれはこうも言った。名を教えて、呪詞で虜にされてはたまらぬ。おぬしは巫女だからな。
「巫女?」
体の中でとくとくと心臓が早鐘を打つ。遠い昔に、どこかで聞いたことばだ。とても大切なことば。
なんだ、おのれのことも忘れてしもうたのか、と声の主は呆れたような声を上げた。
それなら、おれのことは、惣暗とでも呼ぶがいい。
「つつくら?」
暗闇、という意味だ。
それから毎夜、惣暗は現れて、ヒヨとことばを交わした。
ヒヨの記憶のむろは、そのたびに大きく扉を開き、中から取り出す言葉の数は増えていった。
「惣暗。おまえは、何者じゃ」
さあ、何者だと思う。
「体はあるのか」
自分で見てみればよい。
「暗くて、何も見えぬ」
では、触ってみればよい。
ヒヨは腕を伸ばし、気配のするあたりを両手でつかんだ。いない。またつかむ。いない。
ヒヨは夢中で追いかけた。萎えていたくるぶしで立ち、必死で牢の中を駆け回る。壁にぶつかり、ころんでは立ち上がる。
一度なにかをつかみかけたが、それは水のように手からすり抜けてしまった。
「おのれ……っ」
ぜいぜいと息を切らせ、ヒヨは仰向けにひっくりかえり、いつのまにか気を失うように深い眠りに陥った。ゆめうつつの中で、誰かの手がヒヨの髪をするりと撫ぜた。
「おまえは、何者じゃ」
何者だと思う。もう心に答えは持っているのだろう。
「物の怪のひとり。なにしろ夜にしか現れぬ。体を持たず、風のように自在に牢に出入りする」
なるほど、ちがいない。
「何をしに来た。わたしを喰らおうとでも言うのか」
ふん、こんな臭くて汚い小娘を喰らう物の怪はおらぬわ。
「うるさい」
腹を立てたヒヨは、くんくんと自分の着ている衣を嗅いでみる。もうそれは、何年も着たきりの襤褸で、あちこちがすりきれ、破れていた。
次の夜、ヒヨはわらの上に正座し、惣暗を待ち構えていた。
「牢番に頼んで、衣を替えてもろうた。湯をもろうて、皮が剥けるほど垢をこすった。もう臭くない」
惣暗は笑った。そんなにしてまで、喰らうてほしいのか。
「たわけ。そういう意味ではない」
「ただ」と消え入るような声で言う。「臭いわたしを嫌うて、おまえがもう来なくなるかと思ったのじゃ」
惣暗は、もう笑わなかった。
しばらくして、ヒヨは牢の中に良い香りのする塊がころがっているのに気づいた。
匂い玉だ。首からかけておけ、と惣暗が言った。
「くれるのか」
良い匂いの女になれば、そのうちに喰らう気になるやもしれぬ。
惣暗は夜になると、牢を訪れた。訪れない日もあったが、それでもヒヨは勝手にそこにいるものと決めつけて、朝になるまで話しかけた。
惣暗はいじわるだった。ことあるごとに、ヒヨをからかい、ヒヨを怒らせ、ヒヨを困らせた。「もう二度と来るな」と泣いて叫んだことも、しょっちゅうだ。
惣暗はやさしかった。「腹がすいた」と言えば、次の日には、ほのかに甘い饅頭が牢の床に置いてあった。「寒い」と訴えれば、熱した石を布に包んで放り込んでくれた。
こうやって、牢に入れられてから、幾度目かの暑さと幾度目かの寒さが過ぎた。
ヒヨは自分の体の変化に、ふさぎこむことがあった。
乳房に芯のある熱さが生まれ、下腹にじくじくした痛みを感じると、出血が起きる。何も知らないヒヨはうろたえ、惣暗が訪れると、わらを被るようになった。
なぜ、隠れる。
「近寄るな。わたしは汚い」
汚い? 湯できよめているのだろう。
「だが、血にまみれておる」
惣暗はうめいた。
そうか。もう、そんな年に。
「え?」
選ばれた巫女は、初潮を迎えると神殿に上がり、神の禊を受けて、女王(おおきみ)となる。おぬしは、とうとうその歳を迎えたのだ。
「わたしが――」
だが、神に女王と認められるためには、何千もの祝詞と呪詞を覚えて使いこなさねばならぬ。
「そんなもの、忘れてしもうた」
ヒヨは途方に暮れて、のろのろと言った。「第一、神殿にも上がれぬ身で、そんなものを覚えて何の役に立つ」
神殿にふさわしい生き方ができぬのなら、おぬしは一生神殿には上がれぬ。
「え?」
女王になるおのれを思い浮かべられぬのなら、おぬしは女王にはなれぬ。せいぜい一生牢で這いつくばるが、似合いだ。
ヒヨは、ゆっくりと身を起こした。
「そんなのは、いやだ」
ならば、ここを神殿だと思え。おのれを女王だと思え。
「ここは神殿……。わたしは女王」
神にささげる祝と呪は、おれが口写しで教えてやろう。
「物の怪が、物の怪祓いを教えるのか」
ふふ。覚えておけば、喰われずにすむぞ。ただし、紙はない。筆もない。おれが言うことばを、すべて一度で覚えよ。
ヒヨはかがめていた背を伸ばし、顎を持ち上げた。足をそろえて端座し、キッと暗黒をにらみつけた。
「わかった」
朝から晩まで、眠る以外はずっとぶつぶつと何かを口ずさんでいる。わらをかさかさと踏みしめて踊るような音も混じった。とうとう囚の気が触れたという噂が、牢番のあいだでささやかれるようになった。
また暑さと寒さが一度ずつ巡って、過ぎていった。
疲れ果てて眠っていたヒヨが目覚めると、玄夜の中に惣暗の気配がした。だがヒヨが起き上がっても、いつもと違い、無言のままだった。
「惣暗?」
ひどく疲れた声で、ああ、と答えがあった。
ここに来るのは今宵が最後だ。もう明日からは来ぬ。
「なぜだ」
ヒヨはひきつった叫びを上げて飛び起き、声のするほうに駆け寄った。だが、その手に触るものは、やはり何もなかった。
おぬしは、明日牢を出て、女王になるのだ。
「そんなものに、なりとうはない」
闇雲に両手を振り回して、その姿を捜し求める。「行くな。わたしを連れていけ。おまえとともにいたいのだ。それがかなわぬなら、わたしを喰ろうてくれ!」
カタリと音がした。どこかの石が動いて、はずれたような音。
初めて、惣暗の手がヒヨに触れた。
胸の双丘をまさぐり、その谷間に揺れる匂い玉をまさぐった。
硬く冷たい唇が、ヒヨの唇に覆いかぶさった。歯が当たり、血がにじむほど強く吸い上げられた。
(物の怪ではない。惣暗は物の怪などではなかった)
膝が力を失い地面に座り込むと、惣暗は唐突に手を離し、くぐもりのない鮮明な声で言った。
「長いあいだ、おぬしを苦しめた。すまない……」
石壁の一角が割れ、抜け穴が現れた。男の影が明かりの中に浮かび上がるのが見えた刹那、元通り壁は閉まり、もう押してもびくともしなかった。
「惣暗!」
ヒヨは壁に取りすがって叫び続けた。「わたしを置いていくな! 惣暗」
長い夜が明けたころ、牢の扉が開かれた。
「お出ましを。巫女姫さま」
黄金の衣を着た神官たちが、うやうやしく頭を下げ、ヒヨを牢から助け出した。「王位を簒奪しておりましたカガミを捕らえ、ようやくお救いに参ることがかないました」
外の光はまぶしすぎた。数年のあいだ暗闇にいたヒヨは、痛くて目を開けることすらできなかった。
分厚い布で頭を覆い、手を引かれて大きな建物の中に入り、熱い風呂の中で、頭のてっぺんから足の先まで磨き上げられた。髪を刈られ、爪を摘まれ、真白な絹の衣を着せられた。
「おお、なんと輝くような気品」
「五年も牢におられたとは思えぬ」
ようやく明るさに馴れ、おそるおそる目を開けると、見覚えのある神殿の中だった。
「巫女姫さま。こちらへ」
玉座に導かれて座すると、その前に後ろ手に縛られたふたりの罪人が引き立てられてきた。
「これが、五年間、みずからを女王と僭称しておりました咎人でございます」
髪を振り乱して獣のようにうなっている半狂乱の女が、カガミだった。相手かまわず呪詛の言葉を吐くため、猿ぐつわを噛ませてあるのだと言う。
「それは?」
カガミの隣に座っているのは、若い男だった。
「この女の弟、ツクヨミでございます。政をもって姉を助けておりました。ふたりとも、ただちに神殿の外に連れ出して、斬るべきかと存じます」
それを聞いて、女は泣き喚き始めたが、男は顔色を変えることなく、ただ黙して項垂れている。
ヒヨはじっと男を見つめた。
「さきほどの布を持て」
女官が持ってきた布で目をしっかりと覆うと、玉座から立ち上がった。
慣れ親しんだ暗闇の中で、ヒヨの足はしっかりと地面を捉えた。
かけまくも畏き大神の大前に 恐み恐みも まおさく
目隠しをした巫女姫は、みずからの歌に合わせて、舞を舞った。
梳かれた長い髪はつややかに揺れ、陽を知らぬ青白き肌に薄く赤みが差す。絹の袖はふわりと風をはらんで、光に煌く。
「惣暗」
ヒヨは咎人の男の前にぴたりと立ち止まり、恍惚とした笑みを浮かべた。
「確かに、おまえだ。惣暗」
ヒヨは腕を天に差し伸べ、居並ぶ神官、女官たちに毅然と命じた。
「ふたりを殺してはならぬ。カガミは牢に入れ、わたしと同じ年数だけ、あそこで過ごさせよ。ツクヨミは縄を切り、放免せよ」
「ご託宣じゃ」
「神のお告げがくだされたぞ」
人々のあいだから、地鳴りのような畏怖のどよめきが湧きあがった。
目から布をはずすと、驚きに彩られた男の顔が彼女を見上げていた。「なぜ……?」
「おまえから、匂いがしたのだ」
呆然と見つめる神官たちのただ中で、ヒヨはひざまずいた。男の手を取ると、甲に口づける。
「わたしの乳房にある匂い玉と、同じ匂いがな」
「おれを赦すというのか。おぬしを五年間、暗黒の檻に閉じ込めた仇敵だぞ」
巫女姫はゆっくりと首を振った。その拍子に目から雫がきらきらと零れ落ちる。
「それでも、おまえはわたしにとって、闇の中のただひとつの光であったよ」