ブリタニーは議論好きな女だ。 キスを交わしているときでさえ議論をふっかけてくるのだから、アメリカ人としたってこれは相当な変わり者の部類だろう。 「ワタルは日本人なのに、日本が好きじゃないのね」 俺の経営学ゼミと彼女の日本史ゼミが終わると、すぐ夜行に飛び乗り、けさ京都に着いた。 伏見の古い土蔵や、みやげ物屋が立ち並ぶ一角を並んで散策しながらも、彼女は宣戦布告してくる。 「なぜ、そんなこと言う」 「だって、千年もの歴史を持つ自分の国の古い首都を歩いているのに、つまらなさそう。目が何も映してないし、何も感じてない」 確かに俺の頭の中は、今夜の寝床の上の段取りでいっぱいだったが。 「そりゃ、こんなの日本人にとってはありふれた光景だし」 「うそ。私より何も知らないくせに。日本という国に興味はないの?」 「俺は自分が日本人だと意識したことは一度もない。だから興味もない」 「それはワタルが帰国子女だから?」 「日本人はたいていそうだよ」 「日本の歴史も文化も知らなくて平気なわけ? それで祖国に誇りを持てるの?」 「子どものころからディズニーのアニメを見て、ハンバーガーとドーナツ食って育ってるんだ。自分の国に誇りをもたないように、俺たちはアメリカ人に洗脳されたんだよ」 「わたしは日本が好きだから、日本を知りたくてこうして留学してきたから、あなたがそんなこと言うと、とても悲しいの」 青い目を少しくうるませて、俺をじっと見る。 俺は大嘘をついていた。 俺の19年の人生で、日本人であることはいつもまとわりついている。片時もはなれずに。 アメリカの小学校で毎朝校庭に整列させられた、 国旗を見つめ、こぶしを左胸にあて、祖国ではない国に忠誠を誓う。 湾岸戦争のときは、海軍の兵隊たちに教室で励ましの手紙を書いた。 そして、日本へ帰ってくるたびに、国歌斉唱であくびし、国旗に顔をそむける友人や教師たちを見てきた。 この国はなんなのだろう。 日本人でいることに、どうしてこれほど誇りが持てないのだろう。 この自問に答えを得たことはなかった。 ブリタニーの涙が呼びよせたかのように冷たい風が立ち、空がみるみる黒雲におおわれたかと思うと、あっというまに激しい降りになった。 難儀しかけるとちょうど、今日最後の目的地が角を曲がったところに見えた。 古い船宿を江戸当時のままに保存し、一般公開している史跡だ。 入り口で入場料を払いパンフレットをもらうと、彼女は片言の日本語で、なにやら窓口の男に質問を始めた。 俺に質問してもなんの答えも得られないのがわかっているのだろう。 とたんに意地悪な気分になった俺は、黒光りのする細く急な階段を、さっさとひとりで上がっていった。 雨模様の夕方。週末の観光地にしては不思議なほど、そこには人気がなかった。 低い天井の小部屋がいくつか並ぶ暗い廊下をつきあたると、俺は壁にもたれて腰をおろし、ブリタニーが階段を上がってくる軽やかな音を待った。 雨が単調に屋根を打つ。薄闇が古い旅籠の二階をじっとりと包んでいる。 夜行の旅の疲れと、濡れた体のけだるさも手伝い、俺は目を閉じた。 誰かの話し声と足音ではっと目を覚ました。 あたりはいつのまにか真っ暗になっている。 しまった、寝ちまったのかと、あわてて体を起こした。 目の前のふすまが数センチ開き、明かりがもれている。 その前に立つと、中からよくとおる野太い声がかかった。 「藤堂君。なんぞ忘れ物か」 肝をつぶした俺が黙ったままだと、 「誰じゃ」 畳み掛けるような誰何の声に、うろたえてふすまを開けた。 なんてことだ。 十畳ほどの部屋の中にひとりで坐っていたのは、侍だ。 信じられないほど暗い行灯の明かりにぼうっと浮き出るように、蓬髪で長身の武士が、床柱を背に片膝立てて、手酌で酒を飲んでいる。 相手は俺をぎょっとしたように見て、それからしぱしぱと目を細めながらじっとにらんだ。 「なんじゃい。おンしは」 「あ、す、すいません。俺は見学のもので」 「はあ? なに言うちょる」 俺は頭がくらくらして、訳がわからなかった。 正常な神経ならきっと、映画のロケに出くわしたのだろうとか、とりあえず下に降りて事情を聞こうとか思いつくはずのことが、そのときの俺の頭にはまったくなかった。 男は、黙って突っ立ったままの俺を危害を加える意思なしと認めたのか、興味深げに這いよってきた。 「おンし、変わった着物を気ちょるな。見たこともない形や。それはどこの国のもんじゃ」 すぐかたわらにある大小の刀でいつ切りかかられるかと、最初はへっぴり腰だった俺も、次第に冷静を取り戻した。 行灯の灯がちろりと瞬く。 とつぜん俺は論理的な結論に達した。 そうだ、これは夢だ。俺はまださっきの廊下のすみで夢を見ているのだ。 夢ならば、大立ち回りを演じたって死ぬことはない。何を言っても何をしても平気なのだ。 夢ならばこそ、こいつの顔がどこかで見たことがあるのも、うなずける。 思い至った俺は、大胆にもタメ口をきき始めた。 「ああ、これか。これはアメリカの「じーんず」ってハカマだよ」 「メリケンの装束か」 ぞくぞくしてきた。 どうやらブリタニーとの議論が記憶に残っていたせいで、俺は江戸時代の侍と会話する夢を見ているらしい。 「ああ、そうさ。俺はずっとアメリカで暮らしてたからな」 「そりゃすごい」 驚いてぎょろ目を剥く男の表情に、いっそう愉快になった。 「こっちに来て、すこし話を聞かせてくれんか」 彼は愛想よく手招きをして、さかずきを突き出した。 「ああ、いいぜ」 侍の無邪気な笑顔にすっかり乗せられて、俺は向かい合わせにどっかと腰をおろした。 「ところで、今は幕末のどのあたりかな」 「幕末ちゅうと?」 「ああ。幕府の末期ってこと。もうすぐ幕府はつぶれるんだよ」 「なんじゃって?」 男は俺の口から出てくるとんでもないことばに、度肝を抜かれたようだった。 「おンし、じきに幕府が倒れると言うのか」 「そうさ。薩摩と長州が手を組んで幕府に対抗し、外国の圧力に屋台骨を揺るがされた幕府は、結局天皇に統治権を返還するんだ。15代将軍のときだっけ」 俺はとぼしい日本史の知識を総動員してすらすらと、この男にとっては未来のシナリオを語って聞かせた。 倒幕と聞き、最初はうれしそうだった若い勤皇の志士も、 「遠見の術かなんかを知っちょるんか」 といぶかった顔つきになった。 「実は俺は、今から150年後の日本から来てるんだ。だからこれから起こることは全部知ってる」 俺は、小学生に算数を教える大学生のようにふんぞりかえった。 「へええ」 さすがに夢の中だ。男は素直に俺のことばを信じて、膝を叩いて喜んだ。 「それから、どうなる」 「天皇を中心とした政府ができる。外国の列強をまねて制度を整え、富国強兵を実施し、やがて清と戦争して、それからロシアと戦争して勝つ。日露戦争のときは日本の海軍が、強大な バルティック艦隊を撃破するんだ」 案の定、侍は日本海軍の勝利の話を聞くと、身を乗り出し、子どものように興奮していた。 もっと詳しく聞かせてくれとたのまれたが、俺の知ってるのはここまでだった。 「そのあとは、中国や朝鮮を侵略し、アメリカとイギリス相手に戦争を始めた。最初は勝っていたが、鉄も石油も資源がとぼしい日本が、あの大国に勝てるわけがなかった。 降伏して、アメリカに占領された」 「日本はアメリカに占領されるんか」 彼は腕を組むと、低い声でうなった。 「何年かして、また独立するけどな。それからの日本はすっかりアメリカの文化を真似して、民主主義、自由主義の国になる。 日本にはない資源を輸入し、それを加工して貿易するのが得意になる」 「貿易」 「外国相手に商売をするんだ。日本は軍隊を持たないで、代わりに商売で金をどんどん儲けた。あるときはアメリカを抜くほどの金持ちになったこともある。今は多少落ち目になっているけどな」 「ふうむ。商売か」 男はボサボサの頭を掻いて、考え込んだ。 「それで結局、日本はいい国になったのか。庶人の暮らしは楽に立つようになったのか」 このことばに、俺の弁舌はハタと止まった。 口ごもる俺に、侍は質問を繰り返した。 「日本は、良い国ではないのか」 「あまり良い国ではないよ」 俺は、目を伏せて答えた。 「政府は頭がかちかちで、派閥争いに夢中で、改革をしようにも動きがとれないでいる。役人や政治家は、自分のふところを肥やすことばかり考えている」 「それでは、今の徳川幕府と何も変わらんじゃないか。将軍家の保存のために、300年古くさい制度を大事に守って日本人の敵となった幕府と、 何も違いはありゃせんじゃないか」 「そうかもしれないな」 「それで、日本人はそんな政府を倒そうとはせんのか。おンしら若者は動かんのか」 「若い奴らはとっくに政治に興味なんか失ってるよ」 侍は、きっと眉をつりあげた。 それを見た俺は、全身とりはだが立つのを感じた。 「お前ら若いもんが、日本を背負って立たねば、日本はどうなる」 彼はさっと膝でにじりよって、俺の手首をつかんだ。 「いくら、わしらが古い政府を打ち破ったとて、おンしら新しい時代の若者が日本を背負わんば、わしらのしちょることは何の役に立つんじゃ」 俺は思わず声をあげそうになった。 侍の息が俺の顔にかかり、つかまれた手首はちぎれそうに痛み、だがそこから途方もなく暖かい力が流れこんできた。 これは夢なんかじゃない。 現実だ。 「すまん。わしとしたことが、ついムキになった」 彼はやがて手を離し、照れたように笑った。 「おンしはいくつじゃ」 「19だけど」 「19か。わしが江戸に剣術修行に出たのも19のときだった。まだ世界のことも何にも知らず、浦賀でペリーの黒船を見て、ただおどろいていた。おンしもこれからじゃきに。これから自分の目で、世の中を見渡せ」 立ち上がり、部屋のふすまを開けると、「お登勢さん」と階下の女将に、徳利のおかわりを頼む。 「あ、あの」 俺は、長躯の武士の背中に思わず呼びかけた。 「なんじゃ」 「気をつけてください。あなたは暗殺されてしまうんだ。なんとかいう店の二階で、同僚のなんとかいう男といっしょにいるときに……、ちっくしょう、 何を言ってるんだ、俺は!」 男はふりむいて、風の吹き抜けるような微笑を浮かべた。 それに合わせて、行灯の灯りがゆらりと揺れ、そしてあたりは真っ暗になった。 「ワタル……、ワタル」 遠くでブリタニーの呼ぶ声。 俺はがばっとはねおきた。 もといた廊下のつきあたりだ。恋人が心配そうにのぞきこんでいる。 「こんなところで寝てたの? ごめん、下で話し込んじゃったかな」 「ブリタニー。坂本竜馬は、どこで誰といたときに殺されたんだ?」 俺のせっぱつまった声にびっくりしたように、 「近江屋よ。中岡慎太郎がいっしょだったはず」 くそう。なんで俺が知らなくて、アメリカ人のこいつが知ってるんだ。 あわてて、部屋にかけこもうとした。 そして、わかった。 もうそこは、さっきの場所ではなかった。 観光名所と化して、電気や消火器や非常灯が備わった旅籠は、窓からさしこむ夕方の茜色の陽光に包まれていた。 呆然とたちすくむ俺の背中で、ブリタニーが楽しそうにしゃべっていた。 「この寺田屋って、坂本竜馬が常宿にしてたんですってね。恋人のおりょうもここに預けられたって、入り口で管理人がいろいろ教えてくれたわ」 俺は、侍につかまれた右の手首を見た。 くっきりと赤く、太い指の形がついている。 夢じゃなかった。 確かに彼は、たった今そこにいたのだ。 「ワタル……。どうしたの?」 部屋のつきあたりの床の間に、一幅の掛け軸があった。ひとりの男の全身像だった。 今見たのと同じ、人の心を溶かすまなざしをして。 「生きていてほしかったよ。竜馬さん」 俺はその肖像の前でつぶやいた。 「ずっと生きて、俺たちの国を見てほしかった」 初夏の通り雨はすっかりあがっていた。 寺田屋の玄関を出た俺たちは、残光に照らされた船宿をもう一度振り返った。 「150年の時差ぼけだな」 頭のうしろを叩く俺に、 「ワタル、なんか変わった」 とブリタニーが笑っている。 「なにが」 「顔つきが男らしくなった。何だかサムライみたい」 「日本人だからな。先祖は侍だったかもな」 伏見の古い城下町を歩き出した俺たちの後ろから、颯颯と一陣の風が吹き抜けた。 参考図書:司馬遼太郎「竜馬がゆく」(文春文庫)
nyansukeさんのキリリクです。 お題は「和」。西洋志向の私のもっとも苦手とする分野でした(汗)。 |