ここは宇宙? 目に見えるものはすべて闇。重さのない体がゆっくりとたゆたうところ。 でも今は少しずつ、確実に押されている。ぽっかりと落とし穴のような不安が待つ方に向かって。 苦しい。苦しい。もう死ぬの? 誰かが、遠くから呼ぶ声が聞こえる。光といっしょに。波といっしょに揺れながら。 生きろ。 生きろと。 「うわあ。海がよく見えるなあ」 翔平は窓枠をつかんで上半身をぐいとそらすと、きらきら光る夏の白っぽい光景に向かって、感嘆の声をあげた。 「いい天気だなあ。泳ぎてえなあ」 「こらこら、呑気なこと言わないでよ。人が苦しんでるっていうのに」 スチール製のベッドから脚を垂らしてぶらぶらさせながら、葵がにらむ。 「だって、ぜんぜん苦しそうに見えないし。よくドラマでやってるだろ。死にそうな声出してうめいてる出産シーン」 「ドラマっておおげさなんじゃない? だって陣痛っていっても、生理痛を重くしたみたいだよ。じくじく痛くなって、すぐ終わっちゃう」 「どっちも俺にはわかりません。あ、あれかな。サッカー部の合宿で、腐った牡蠣食って、丸一日トイレから出てこれなかった、あのときの痛みくらいかな」 「きったないよ、翔くん」 翔平は彼女のそばにかがみこむと、ぽっこり膨れたお腹に向かって、にんまり笑った。 「もう一度、触らしてくれる?」 「好きだねえ」 「もうすぐ、出てくるんだな。俺たちの世界に」 「赤ちゃんて出て来たいのかな。外に」 「そりゃ、こんな狭いところからは早くおさらばしたいだろう」 「でも、羊水の中に浮かんでるって気持ちいいらしいよ。ゆらゆら真っ暗な海の中にいるみたいで、お母さんの心臓が波の音みたいに聞こえて」 「ふうん」 「生命って、もともとは海が最初だったって言うでしょ。だから海は私たちのふるさと。お腹の中はその海に似てるんだって。……あいててっ」 「陣痛、来たのか」 「今の、何分間隔?」 「13分かな。さっきより長くないか」 「あれ? へんなの。なんだか消えちゃった……」 「さっきの医者、なんて言ってたんだ?」 「微弱陣痛なんだって。ちゃんとした痛みが来なくなってるらしい」 「だいじょうぶなのか?」 「もう少し、様子をみましょうって。陣痛促進剤の注射しましょうかって言ってくれたけど、私、なるべく自然に生みたいから」 「こりゃ夜中までかかるのかなあ」 「出産てね。潮の満ち干きの時間と関係があるらしいよ。満潮の時刻に生まれることが多いんだって」 「それって不思議だな。どうやってわかるんだろ」 「月の引力が人間のからだに影響するらしい。……人が死ぬときもそうなんだって」 そうつぶやいた葵は、茜色の夕焼けに染まるとろりとした海を、ぼんやり眺めた。 翔平が視線を落とすと、運ばれてきた夕食は手付かずのまま、サイドテーブルの上に置かれてある。 「俺さ、大学のとき、ライフセーバーのバイトしてたことあっただろ」 「うん」 「一回、見ちゃったんだよ。身投げした女でさ。それから2,3日ものが食えなかった」 「翔くん……」 「あ、胎教に悪かったか?」 「んもう、怖がってよけい出てこなくなっちゃうよ」 「ごめん。でもそれ以来、海って悲しいイメージがある。今でも夢に見る。目の前で人が死ぬのに、俺には何もできない夢なんだ」 「……その女の人、何で死んだの?」 「え……?」 「なんで、身投げなんかしたの?」 「……男に捨てられたんだって」 真夜中の闇に塗り込められた窓は、静かな海の気配を感じさせながら、室内の風景を寒々と映し出す。 苦しげな呼吸だけが響く部屋を。 「翔くん、どうしよう……。私、もうだめかもしれない」 「何言ってんだよ、葵」 「このまま死んじゃうのかもしれない。腰が痛くて破裂しそうだよ。全身の血がなくなっちゃったみたい。脈もすごく弱い」 「先生呼んで来て、促進剤打ってもらおう。もう意地はってる場合じゃないよ」 「いや……。きっと赤ちゃんが出てきたくないって言ってるんだ。このまま死んだほうがましだって言ってるんだ」 「葵! 自分の言ってることわかってんのか」 「だって、私が悪いんだもん。こんな母親に育てられても幸せになれないって、ちゃんと赤ちゃんはわかってるんだ」 「なんで、おまえがそんなこと決めるんだよ。人の一生って、俺たちが価値を決めるもんじゃないだろう」 「だって、不幸せに決まってるじゃん。お父さんがいないんだよ。未婚の母なんだよ、私! 相手には奥さんと子どもがいて、認知だってしてもらえないんだよ!」 「葵。そんなに泣くな」 「ごめん。翔くん。こんなによくしてくれたのに。いつも訪ねて来てくれて……。遠征のときは毎日電話くれて……。病院の手続きとかも全部……。それなのに、こんなこと言って……。ごめんね」 「葵。俺さ……」 「翔くんにあのとき駅で会わなかったら、私今ごろ生きてなかった。ほんとはあの日、海に死にに行くつもりだったの」 「……うそだろ?」 「ほんと……。死にたかった。もう何もかもどうでも良かった」 「すごく嬉しそうだったじゃないか。未婚の母やるんだって……。事情があって結婚はできないけど、この子がいるから幸せだって……。自信にあふれた笑顔で、そう言ったじゃないか!」 「だって、翔くんの顔見たら言えなかったんだもん! 辛いよ、死にたいよって。高校のときからの夢をかなえて、Jリーグに行った翔くんに、みじめな泣き顔見せたくなかったんだもん!」 「……葵」 「だから、こんな嘘つきのどうしようもない母親なんかに育てられたくないって、この子はそう言ってるんだよ」 「そんなこと言うかよ。赤ん坊が!」 翔平は眉をつりあげて、立ち上がった。 「生まれたいって言ってるんだよ、こいつは! 死にたくねえって。きっと、あの日俺を呼んだのはこいつなんだ。 耕冶が、サッカー部の女子マネのユキちゃんからおまえの噂を聞いてさ。 すぐに俺に知らせてくれた。あの日駅で会ったのは、おまえのマンションに向かう途中だったんだよ」 「え……」 「それでもあそこで出会えたのは、何万分の一の確率だ。偶然じゃないって思った。こいつが俺たちを会わせたんだ」 「翔……くん」 「俺が、こいつの父親になってやるよ。おまえとふたり、一生俺がめんどうを見る」 「だめ……、それだけは、だめ」 葵は口を両手でおおって、はらはらと涙を落とした。 「血がつながってない親子になるんだよ。辛いだけだよ。いつか絶対うまくいかなくなる」 「うまくいかないはずがあるもんか。こいつは腹の中で毎日俺の声を聞いてたんだぞ」 「私たち、翔くんの未来をめちゃめちゃにしちゃうよ……。そんなのいやだ!」 「俺、おまえのそばにいながら、何も言えない自分が歯がゆかった。でももう限界だ。お人よしの同級生のふりはたくさんだ。 俺は葵のことが、ずっとずっと好きだったんだ。おまえもここにいる子どもも、俺のものにしたい。こいつは絶対俺が死なせやしない!」 「翔くん……」 「おい! 聞いてるか!」 翔平は、グラウンドで風を切る雄たけびのような声をあげた。 「おまえは俺が守ってやる! 今日から俺がおまえの父親だ! 心配しないで、今すぐ出て来い!」 「翔……くん」 「よくがんばったな、葵。すっごく大きな男の子だぜ」 「うん……。私もへその緒切る前に抱かせてもらった。元気だねえ」 「背中なんか、赤ん坊とは思えないほどたくましかったぞ。ゴールキーパー向きだな」 「ふふふ」 「ガラス越しに、あいつの真っ赤な顔見てたら、ふっと名前が浮かんできたよ」 「なに?」 「カイだよ。海と書いて、カイ。海みたいな広い心の男に育てたいな」 「〈海〉……。いい名前だね」 「気にいったか? じゃ、急いで出生届の紙とってくるよ。あ、その前に婚姻届の方が先だよな」 照れくさげに葵の額にキスをした翔平は、彼女が止める間もなく、病室を飛び出して行った。 「せっかちなんだから。市役所まだ開いてないよ。昔から、ちっとも変わってない」 葵は寝返りをうつと、窓を見た。 透明な朝の光をふくむ窓の向こうでは、穏やかな藍の海が乳白色の波頭をきらめかせている。 なぜか空耳で、波の音がここまで聞こえるような気がした。 「ねえ、海くん」 葵は、新生児室にいる我が子に、思いを届けるように語りかけた。 「うれしかったんだね。新しいお父さんに会えるのが。 だって翔くんの声を聞いたとたんに、すぐにあなたが出たがったのがわかった。 私も、私もうれしかったよ。翔くんと3人で生きていけるのが。 翔くんは私の初恋の人だったから。 海くん、よかったね。 あなたが今までいたお腹の海は、翔くんの中の広い広い海につながっていたんだね」 この競作は、北条海里さんのサイト「LE ROUGE ET LE NOIR」の1000hit記念に企画されたものです。 お題「海の民」は、キリ番を踏んだ月灯さんが出してくださいました。 8月15日にアップした当時は、4人の作者名を伏せて作者あてクイズをしたのがなつかしい思い出です。 「LE ROUGE ET LE NOIR」休止中は、「海の民」はnyansukeさんのサイトでアップされています。 |