BACK | TOP | HOME (2) 「サンゴは、炭酸カルシウムを主体とした骨格としている。さらにサンゴの中に住み着いている褐虫藻の光合成により、大気中の二酸化炭素を固定する。つまり熱帯雨林と同じく、地球温暖化の抑制に大きく寄与しているんだ」 あのころのラントはよく、バスルームに酒のグラスと椅子を持ち込み、バスタブに沈んでいる私を相手に、ひとりでしゃべっていた。 「だが、その温暖化こそがサンゴの敵だった。海水温の上昇により褐虫藻は逃げ出し、サンゴの白化が始まった。さらに、オニヒトデやレイシガイダマシが異常発生してサンゴを食い荒らした。この美しいラグーンは、海面上昇とサンゴ礁の死滅、両面から失われていこうとしている。僕の取り組んでいるサンゴ礁の再生プロジェクトこそは、地球温暖化との戦いの象徴なんだよ」 そこで、くつくつと笑ってから、酒を口に含む。 「なあんてね。サンゴの再生には時間がかかる。暇な金持ちを捕まえて、地球温暖化防止と叫べば、金はどんどん入ってくる。サンゴの研究を口実に、こうやって毎日、飲んで寝ていられるってわけだ」 あなたはウソつきなの? 「きみは賢い子だ。ああ、そうだよ。僕はウソつき。サンゴ礁の再生が急務なのは、ウソじゃないけどね」 でも、あなたは間違ってる。サンゴが死ぬのは、暑さだけが理由じゃないわ。 人間がマングローブの森を切り倒したから、赤土が浅瀬の海を汚して、光が届かなくなった。 たくさんの人間が観光にやってきて、釣り針や舟の重りでサンゴを傷つける。 人間が使って汚れた水やゴミが川からたくさん流れ込んで、サカナたちは苦しんで死んだのよ。 「そうだったね」 悪いのは、海を汚す人間。人間さえいなくなれば、海は元通りの姿を取り戻すわ。 「結局、僕が死ねば、それだけ海も、この世の中もきれいになるわけか」 彼は、酔いにふらふらと立ち上がり、盛大な水しぶきをあげて、服のまま私のいるバスタブに倒れこんだ。 すっぽりと水中に沈むと、彼の髪は海草のようにゆらゆらと揺れた。開いたままの目は、やっぱり海溝のように暗かった。 人間は、水の中では息ができないのでしょう。 いいんだよ。このまま死ぬんだから。 だめ。死んではだめ。 私は、彼の頬を両手ではさむと、口に空気を送った。何度も何度も、必死で送った。 私たちは長いあいだ、バスタブの中で抱き合っていた。 そうして、私は人間と一緒に暮らし始めた。 ラントは、とてもやさしかった。私の言うことは何でも聞いてくれた。 そうすることで、彼は海に詫びていたのだと思う。 お酒を飲んでいる彼はときどき、傷つくことを恐れて動けない、脱皮したばかりのカニのように見えた。 ラント。わたしは、あなたを助けたい。 「どうやって?」 あなたの仕事を手伝うわ。このラグーンのサンゴをよみがえらせるの。 「無理だよ」 無理じゃない。私なら。 私はサカナたちの体に入って、彼らをあやつった。オニヒトデを外に追い出し、川からの汚れた土や水を、小枝と泥で堰き止めた。 少しずつ、サンゴは元の色を取り戻し始めた。 ラントは思いつめたような表情を浮かべて、じっと海を見つめることが多くなった。 人が変わってしまった彼に愛想をつかしたのか、赤い髪の女は、いつのまにか姿を消した。 ある日、コテージの前に、たくさんの資材を積んだトラックがやってきた。 「電着用の着床基盤だよ」 彼は明るい声で、何度も説明してくれた。 金網で作った基盤を海底に置き、微弱な電流を流すと、海水に溶けこんでいるカルシウムが析出する。そうすれば、数ヶ月でサンゴが着床し、その上で成長するらしい。 わたしには全然わからないけど、すごいことなの? 「すごいことなんだよ」 彼の目は、ラグーンの上に横たわる天の川のように、きらきら輝いている。 うれしいのね。ラントがうれしいのなら、わたしもうれしい。 彼は私をぎゅっと抱きしめて、ささやいた。 「きみのおかげだよ、ウンディーネ」 ラグーンでの一年が過ぎた。 彼の指揮のもと、人工基盤に着床したサンゴはみるみる大きくなり、島の回りをぐるりと囲むようにサンゴの砂礫が堆積して、新しい環礁となりつつある。 海面上昇で消えようとしていた島が復活したと、おおぜいの人が喜び、彼をほめたたえた。 私は相変わらず、彼のコテージのバスタブの中で暮らしていた。 毎日が、とてもしあわせだった。 ある日のこと。 数人の見知らぬ男たちがコテージの扉を叩いた。 私はあわててバスタブの底に隠れて、こっそり話を盗み聞いた。 「あなたのサンゴ礁再生プロジェクトはすばらしい。ぜひ力を貸してもらいたい」 ラントが属している国は、たくさんの島が寄り集まってできていて、たくさんの人が住んでいる。 島を囲む周りの海で、たくさんの魚や、たくさんの資源を獲っている。 だから、自由に資源が獲れる自分の海は、広ければ広いほうがいい。島が多ければ、それだけ自分の海も広くなる。 そういう海を、【ハイタテキケイザイスイイキ】と呼ぶのだそうだ。海は海に住む者たちのものなのに、人間て勝手。 けれど、このところの海面上昇で、いくつかの南の島が沈んでしまいそうになっている。 ラントが成功したサンゴ礁再生技術で、そういう島が沈まないようにすれば、【ハイタテキケイザイスイイキ】が狭くならないと、彼らは言うのだ。 「日本に戻らなければならない」 彼が私を見つめる目は、少し昔に戻ったように、暗い海溝の色をしていた。 じゃあ、わたしも一緒に行くわ。 「でも、こんなに綺麗な海は、東京にはないよ」 ううんと首を振った。ラントとバスタブがあれば、私はそれでいいの。 私は初めて、飛行機に乗った。 何十時間も窮屈な水槽に押し込められて、深海から海面に出るときのような急激な気圧の変化に苦しめられて。それでも、ラントといっしょに暮らせるためなら、なんでも耐えられた。 ところが、窮屈な檻から放たれてみると、そこはバスタブではなかった。 周囲を透明な壁で囲まれた、広い池。水の仲間たちがよく連れていかれる【水族館】というところに似ていた。 どうして? これはバスタブじゃない。 「ウンディーネ」 白い服を着たラントが、透明な壁の向こうから私を見つめていた。 ここはどこ? ここがラントの家なの? 「うちは、あまりに汚くて狭いから、研究所の広い水槽で泳がせてやろうと思ってね」 でも、わたしはラントの家のバスタブがいいの。 「二、三日ここでゆっくりしておいで。それから連れていってやる」 彼は私から視線をそらせた。「じゃあ」というつぶやきを残すと、逃げるように部屋を出て行く。 それから私は、彼と同じ白い服を着た人間たちに、さんざん体を調べられた。 ごうごうと唸る機械の箱に入れられ、コードを巻きつけられ、体のあちこちに電流を流された。 いや、ここはいや。 ラント、助けて。ラント。 泣いていたら、部屋に、あの赤い髪の女が入ってきた。 「人間モドキのくせに、泣くマネまでするなんて、気持ち悪い」 ベルタ。いなくなったと思っていたのに。 「まさか。私は先生の婚約者よ」 婚約者――? 「そう、来月結婚するわ。その準備のために故国に帰っていたの」 でも、ラントはわたしといっしょに暮らしたいと言ってくれたのよ。 「あなたは彼にとって、ただの研究材料。珍種の海洋生物というだけよ」 ベルタが笑うと、髪の毛が火のように燃えた。 「サンゴ礁再生技術の成功に続いて、あなたの存在を全世界に発表すれば、彼は海洋生物学者のトップに名を連ねることになるわ。だから彼はあなたを手放さなかったの」 では、ラントがわたしを愛しているというのは、ウソだったの? 「ウソに決まってるじゃない。彼が愛してるのは、私なんだから」 ベルタ。ラントが愛しているのはベルタ。 私はなんて愚かだったんだろう。 今までのすべてが間違いだったと言うのなら、いつまで戻ればよいのか。 そう、あの日だ。 あの日、ラントに会わなければよかったのだ。 そうすれば、私は永久に海でたゆたっていられたのに。広い海に意識を張り巡らせ、魚といっしょに自由に泳ぎまわり、どこまでも遠く、どこまでも深く行くことができたのに。 次の朝、私の姿が水槽から消えたと、研究所は大騒ぎになった。 (3)につづく この短編は、「500文字の心臓」に出品した「ぶた仙」名義の超短編の中から、もっともWEB拍手の多かった 「水溶性」を、 山仙とBUTAPENNがそれぞれリライトするという企画です。 ![]() 「ペンギンフェスタ2012」テキスト部門参加。 TOP | HOME Copyright (c) 2012 BUTAPENN. travelogue stock photo |