§1 「地球温暖化による異常気象、特に中南米を襲った数年にわたる局地的な少雨と冷夏のため、21世紀末にカカオ豆栽培は壊滅的な大打撃を受けました。 今世紀に入っても純正カカオの生産量は回復せず、価格は高騰を続けています」 「そう。だからこそ、ヴァレンタインデーはますます熱狂的な行事になって、女の子たちは徹夜をして並んでも本物のチョコレートを手に入れようとするのよ」 「小さな一粒が10円もすると聞いています。それをこんなにたくさん……。古洞家の収入と支出の健全なバランスを考えると、このようなぜいたく品への行きすぎた出費は賛成できません」 「一年にたった一回、恋人に喜んでもらえるなら、それはぜいたくとはいわないわ。さあ、座って」 セフィロトは言われたとおりに、しぶしぶとソファに縮こまった。 「口を開けて」 私はチョコレートの小さな球を、彼の舌の真ん中あたりに押し込んだ。 「美味しい?」 もぐもぐと口を動かしながら、懸命に味を感じようとしている。 「……とても美味しいです。今まで食べたことのある代替品とは比べ物にならないくらい。甘みも苦味もほどよく、空気含有量が多くて口当たりがまろやかです」 「よかった。じゃあ、こっちのオレンジリキュールのを試してみようか」 「胡桃」 セフィロトは泣きそうな表情をした。 「胡桃もチョコレートが大好きなのでしょう。なのに、マスターのあなたを差し置いてロボットのわたしが、こんな高価なものを食べるなんておかしいです」 「セフィに食べてほしいの。あなたが食べるから、ヴァレンタインの意味があるのよ。さ、も一回口を開けて」 セフィロトの白くてきれいな歯が、チョコレートで茶色く汚れているのが、なんともかわいい。 「どうせわたしが食べても電気分解処理されてしまいます。胡桃が食べたほうがずっと、食物の持つ栄養成分が有効に用いられます」 彼は2個目を口に含んだ状態になっても、なお文句を言い続けた。 「わたしも……、胡桃に食べて……ほしいのです」 「そんなに言うのなら、私も食べる」 私はいきなり顔を近づけ、彼の歯の表面についたチョコレートを舌できれいに舐めとった。そして驚いている彼ににっこり笑った。 「最高に美味しいわ。セフィ」 |
§2 「佐和。おみやげだ」 ゼファーは家に帰って来ると、紙袋をどさっとこたつの上に置いた。 台所に立っていた佐和が、手を拭きながら袋の中をのぞくと、色とりどりの包装紙に包まれた箱がたくさん入っている。 「うわあ、これ全部チョコレートです。どうしたのですか?」 「工場のラインの見回りをしていると、朝からあちこちの女性工員が俺にこれを押しつけてきた。『ヴァレンタイン』というのか。今日はそんな名前の祭りらしいな」 彼はコートを脱いで、こたつの前に胡坐をかくと、興味なさそうに紙袋を押しやった。 「おまえにやる。俺はこんなには食べられない」 「私も食べられないわ。一年分くらいありそうですね」 「工場長が、『義理チョコ』というのだと教えてくれた。つまりは職場の人間関係を円滑にするための、一種の祈願の貢ぎ物らしい。 確かに社長や工場長も少しはもらっていたようだが、俺のが一番多かった。俺との人間関係が良くないと感じている工員が多いのだろうな」 そう言って渋面を作る彼の様子を見て、実は内心ちょっぴり穏やかでなかった佐和はもう少しで笑いそうになるのをこらえた。 工場の女性たちにモテていることを、まったく自覚していない夫。私の口から本当のことを言わなくてもいいかしら? 「そうだ。私もゼファーさんにヴァレンタインのプレゼントがあるんです」 「佐和。おまえも、俺との関係を円滑にしたいと思っているのか?」 「まあ。これ以上円滑になりっこないわ」 佐和が台所から運んできたものを見て、ゼファーの口元が少しほころんだ。 皿の上には、ピンク色の塩鮭をまぶした大きなハート型のおにぎりが乗っていたからである。 |
§3 「はい、これはディーターの」 と、手のひらに乗るような小さなチョコレートの箱をテーブルに置く。 「そして、こっちは聖(ひじり)くんの」 歯固め用のおもちゃでご機嫌に遊んでいる聖の前に、でっかいチョコレートの箱を置く。 ディーターは頬杖をつきながら、しばらく無言でその2つを見比べていたが、ついに眉をひそめて言った。 「どうして、こんなに差が?」 「私の愛情の表れ、かな」 「ふうん」 平気さを装っているが、明らかにおもしろくなさそう。 「だって、ディーターは甘いもん嫌いやん。ビールとかウィスキーのほうが喜ぶでしょ?」 「それを言うなら、聖だってチョコレートは食べられない」 「だから、聖くんのためにたーっぷり、チョコレート風味いっぱいのおっぱいを出してあげるんや。そのためにしっかり食べへんと」 やっと得心したディーターは、やがてくすくす笑い始めた。 なんだ、結局円香が自分で食べる分なのか。 そう言いたげに笑っている彼の様子をみて、私もうれしくなってしまう。 聖に一瞬やきもちを焼いていたらしいディーターを見て、「やった」と思った私は、悪い女だろうか。 いつもそばにいるから逆に相手の心がわからなくなりそう。幸せだけどありきたりな毎日を送っていると、愛する人にときどき意地悪をしかけたくなる。 自分のことばで相手が怒ったり笑ったり、豊かに表情を変えるところを見たくなる。それは、とてもわがままなことなのだろうか。 やりすぎたかなとちょっぴり反省していると、ディーターがすっと立って、ベビーチェアから聖を抱き上げた。 柔らかなほっぺをいとしみながら、たくさんのキスの雨を降らした。聖はくすぐったいらしく、声をあげて笑う。 それからディーターは、私のそばに来て屈みこみ、額に触れるか触れないかの短く素っ気ないキスをした。 「これが、俺の愛情の表れ」 翡翠に似た瞳に、いたずらっぽい色を浮かべている。 ……降参。 悔しいけどやっぱり、ディーターのほうが私より一枚うわてだ。 「やだ。もっと」 私は彼の服の袖を引っぱると、聖をあいだに挟むようにして抱き合い、とても長いキスを交わした。 |