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       楽しいわが家


「あら、卵を切らしてるわ」
 有美は、冷蔵庫を覗き込みながら、ひとりつぶやいた。
 冷やご飯がたくさんあるから、オムライスにしようと思っていたのに。
 まあ、いいわ。カレーピラフにメニュー変更。ツナ缶でサラダを作って、あとの一 品は冷凍庫に入っていた春巻きをトースターで焼けばいい。
 野菜を刻んで下準備を終えると、彼女はインスタントコーヒーをマグカップに入れ てポットの湯を注いだ。立ち昇る湯気とともに心の落ち着く香りがして、ほっと吐息 がもれる。
 ダイニングテーブルの前に腰かけて、部屋の中を見渡した。朝刊がソファの上にぽ んと置かれ、朝のあわただしさがかすかに残っているものの、窓の多い広いリビング は清潔で開放的で、まぶしいほどの午後の光があふれていた。
 こんな家に住むのが、有美の長い間の夢だった。
 2階から、どどどっと子どもたちが駆け下りてくるのが聞こえた。4歳の実葉(み は)と2歳の龍太(りゅうた)が笑みを顔いっぱいに広げて、有美のもとにむしゃぶ りついてくる。
「ママーッ」
「ベッドでトランポリンごっこ、楽しかった?」
「うん。龍太と、まくらポンポンも、いっぱいしたよ」
「そう、よかったねぇ」
 ふたりをぎゅっと抱きしめると、
「今度は何して遊ぶの?」
「おえかき、する!」
「じゃあ、リュックの中からクレヨン出して。そこの床の上なら、お尻つめたくない でしょ」
 ふたりは南の窓際の床に腹ばいになって、画用紙に絵を描きはじめた。
 有美は夢中になっているふたりから離れて、マグカップを手に東側の窓に近寄っ た。掃き出し窓からはウッドデッキに出られるようになっていて、手すりに吊り下げ られたプランターにはマリーゴールドやペチュニアなど、丹精込めた色とりどりの 花々が咲き乱れている。
 こんな庭を持つのも夢だった。
 郊外の中古マンションに引っ越したのは、龍太がお腹にできた3年前。
 子どもの足音ひとつにも、階下から苦情を言われないかとびくびくしていた。散ら かり放題の狭い2LDK。いつも家事と子どもの世話に追われて、気が休まることが なかった。
 おまけに夫は手伝ってくれるどころか、都心までの片道1時間半の通勤に疲れ果 て、家に寝に帰るだけの毎日。
 孤立無援の有美は、ノイローゼ一歩手前まで追い詰められた。子どもを怒鳴って叩 いて、そのたびに落ち込んで食事さえ満足に作れなくなったあの頃は、思い出そうと してもぼんやりと霞み、まるで遠い幻のようだ。
 これではいけないとある日気づき、必死に勉強して、ようやくこの生活を手に入れ た。今は毎日が喜びに満ちている。
 実葉と龍太の表情も変わった。おどおどとした目つきではなく、明るく屈託のな い、子どもらしい笑顔。
「ママ、見て。ちゃんとお名前かけたよ」
 実葉が得意そうに見せに来る。
「す・ぎ・う・ら・み・は。わあ、きれいに書けたね。さんじゅうマル!」
 幼いふたりは、画用紙からはみ出るくらいに伸び伸びと描いている。床があちこち クレヨンで汚れているが、それさえも気にならないゆとりが有美には生まれた。
 ピンポーン。
 ドアホンが鳴った。モニターの画面を確かめ、通話口に話しかける。
「どなたですか」
「藤原さーん、○○宅配便です」
「はい、ちょっと待って」
 有美は玄関のドアにチェーンをかけて、スキマ越しに顔が見えないように応対し た。
「ごめんなさい、ちょっとハンコが見当たらなくて」
「あ、サインでけっこうですよ」
 領収書に「藤原」とサインし、包みを受け取る。
 単色の包装。「満中陰志」と書いてあるので、香典返しなのだろう。
「なんだ、タオルだわ。この頃はどこも、紅茶やコーヒーのパックが増えてきたの に」
 不満げにポンと箱を下駄箱の上に置くと、有美はリビングに戻った。
「あ、龍太」
 とうとうお絵かきに飽きたのか、それとも芝生をついばんでいるスズメに興味を引 かれたのか、2歳の息子が窓を開け放ち、庭に飛び出てしまっていた。
 実葉がお姉さんらしく、あわてて叱っている。
「お庭に出たら、だめでしょ。きんじょの人に見られちゃうよ。……ママー」
「あらあら、おまけに裸足で出ちゃったのね」
 前夜の雨でぬかるんでいた土の上で、困った顔をして立っている息子を、有美は微 笑んで見下ろした。
「さっき、お風呂のスイッチ入れたから、もうお湯がいっぱいよ。ふたりでお風呂 入って。きれいきれいしていらっしゃい」
「はあい」
 リビングの磨かれた床に、小さな泥だらけの足跡がぺたぺたとついていくのが、な んとも可愛い。
 ふたりの頭を洗ってやったりしながら、有美は手際よく夕食を整えた。
 にぎやかで楽しい晩御飯が始まる。
「ママ、龍太ったら、シャンプーをシュポシュポ、いっぱい出しちゃったんだよ」
「あらあら、もったいない。ママはもったいないことをする子は嫌いよ」
「おねえちゃんも、キライよ」
「ごめんなちゃーい」
「もう、しちゃダメ。わかった?」
「はーい」
 おしゃべりに夢中になったふたりは、ピラフやサラダのレタスをスプーンで口に運 ぶあいだにも、ぼろぼろこぼしている。床は食べかすでいっぱいだ。
「あら、もうこんな時間」
 有美は、壁の時計を見上げて眉をひそめた。日が長くなったから気づかなかった。
 7時過ぎには、この家の「本当の住人」が帰ってきてしまう。
「さあ、ふたりとも支度して。そろそろ出発するわよ」
「はあい」
 汚れた食器を流し台の上にぞんざいに積み上げると、あわただしく手にはめていた 手術用の薄い手袋を取る。お絵かきの道具をリュックにしまい終えた子どもたちの手 からも、手袋を取ってやる。
 玄関の扉からこっそり外を覗き、人通りのないのを見届けると外に出て、慎重に扉 をロックした。
 もともと子どもの頃から手先は器用だった有美がピッキングの技術を習得するの に、そう時間はかからなかった。
「楽しかった?」
「うん、またここのお家がいい」
「それはだめなのよ。一度きり。そういう決まりなの」
「じゃあこんども、お2階のあるお家ね」
「そうしましょうね」
「ママ、大好き!」
「だいしゅき!」
「ママも、実葉と龍太が大好きよ」
 夕暮れの色に染まった道を、三人の親子は手をつなぎ、大きな声で歌いながら家路 をたどった。






写真素材:a day in the life


Copyright (c) 2004 BUTAPENN.

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