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Chapter 19
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カチリという小さな物音に、アシュレイはぴくりと顔を上げた。 長い間暗闇にいるため、聴覚は異常なほど鋭敏になっている。今ならサルデス城の大広間で交わされる会話さえ聞こえるかもしれない。 しかし息を殺して待っても、そのあとに何も聞こえてはこなかった。 もしかすると、同じ地下牢の他の囚人が立てた音なのか――、ことによると、自身がそれと気づかぬ間に両足と右手にはめられた鎖を揺らしただけなのかもしれないという気がしてくる。 ここに閉じ込められてから、もう何日が経つだろう。昼も夜もない地下では、時間の過ぎる感覚はまったく異なっている。 決まりでは朝夕運ばれてくるはずのパンと水を数えれば、20日経っている計算になるのだが、看守の気まぐれで一食や二食抜かれていたところで、アシュレイにはわからなかっただろう。 食事は人間がかろうじて生きていくためのぎりぎりの量しか与えられず、かえって飢餓感を募らせることから、「しいたげの水とパン」と呼ばれていた。 季節はまだ初秋だというのに、ここは氷室のように寒い。 彼は鎧もマントも剥ぎ取られ、白い麻の平民服を着せられ、足は裸足だった。 寒さに凍える手足を無意識に抱え込もうとするため、鎖に引き戻され、鉄の輪でこすれた手首、足首には血がにじんでいる。 もう一度、今度はもっと近いところで物音がした。 そして、囚人の顔を確認するための松明の火が、牢の小窓から差し入れられる。アシュレイはまぶしさに、反射的に両腕で顔をおおった。 「おまえか? アッシュ」 涙が出るほど懐かしい声。 松明がしりぞいたあと、小窓の鉄格子のすきまの向こうに、ギュスターヴの顔がのぞいた。そして、その隣に水色のローブのフード。 「ギュス! アローテ!」 「遅くなってすまん。今ここを開ける」 黒魔導士は、傍らにいたアローテに灯りを預けると、両手で印をむすんだ。 「エパタ・ミージャ。知識の扉を我に開け」 しゅるんという軽やかな音がして、牢の錠前が外れた。 ギュスターヴは腰をかがめて、低い牢の扉をくぐる。 「じいちゃんから教わったばかりの開錠の呪文だ。俺はこの旅が終わったら、トレジャーハンターに転職するからな」 「ふたりとも、ありがとう。よく来てくれた」 「もっと早く来るつもりだったが、手間取っちまった」 あわてて、鼻を押さえる。「アッシュ! おめえ臭いぞ」 「ふふ。もう20日以上風呂に入ってないからな」 「正確に言えば、24日だ。おまえがサルデス軍に連れ去られてから」 ギュスターヴは片膝を床に着くと、アシュレイの右手の枷を調べ始めた。 「看守がいただろう。どうした?」 「私が眠りの呪文で眠らせた」 アローテがすばやく答えた。「早くしないと。見張りの交替の時間になったら、すぐばれるわ」 「アッシュ。ルギドはどこにいる?」 ギュスターヴは小刀を腰のベルトから抜くと、枷の鍵の部分を刃先で強くねじった。 「わからない。この階にいないことは確かだ。僕も取り調べということで一度だけ牢を出て、上の階に行ったことがある。 30分ほどしこたま殴られただけで、すぐに戻されてしまった。そのときも、ルギドの姿は見ていない」 「かわいそうに。こんなに痩せちゃって」 アローテは痛ましげに、アシュレイの青あざだらけの頬をなでた。 「ここの奴らは、正式の裁判を開く気など、さらさらなさそうだ」 アシュレイは悔しそうに唇を結んだ。 「人間の僕でさえ、こんな仕打ちを受けているのだから、ルギドはいったい何をされているか……」 「それが、王都に来るのにこれほど手間取ったのは」 手の枷を首尾よく砕いたギュスターヴは、両足の枷にとりかかる。 「港にも、途中の要害にも、魔王軍の姿がいっぱいなんだ」 「何っ?」 「しかも、サルデス軍の兵士が横に平然と立ってるんだぜ? 考えたくはないが、サミュエル王は魔王軍と手を組んだとしか思えねえ」 「そんな馬鹿な!」 気色ばんでアシュレイが叫んだ。 「この国は魔王軍にあれほど蹂躙されてきたのに。サミュエル陛下はお父上を目の前で殺された。それを、奴らと与するなど……」 「忘れたのか。ルシャン国王を殺したのは、ルギドだぞ」 「……」 「とりあえず」 ギュスターヴは渾身の力をこめて、両足の鎖を断ち切った。 「ここから逃げるのが先決だ。アッシュ、歩けるのか?」 「だいじょうぶだ。毎日鎖の届く範囲での運動はしてきた」 「ゼダも来てるのよ。王宮の庭の茂みに隠れて待ってる」 「危険なことを……」 「ルギドが捕えられたと聞いて、もう手のつけようのないほど取り乱したのよ。ジルとリグもいっしょに来ると言い張ったけど、スミルナ船で沖に待機してるわ。……それと、いい知らせもある」 アローテはローブの懐から、2本の剣の柄を見せた。 「あなたを捜しにここへ来る途中、牢の武器庫を見つけたのよ。あなたの風のレイピアと、それからルギドが使っていた黒い剣も見つけたわ」 「デーモンブレード! 例の魔法剣が使える剣だな」 アシュレイは、顔をほころばせながらも、複雑な表情を混じらせた。 「ルギドは、……また強くなるな。今よりもっと」 「さあ、行くぞ」 ギュスターヴは肩越しにふたりに声をかけた。 「おそらく、ルギドはもっと下の階だ。さっさと助け出して、ずらがるぞ」 しかし、牢の扉をくぐろうとした途端、ハッと歩みを止めた。 無言でゆっくりと後ずさりしてくる彼のみぞおちには、数本の槍の先が当てられている。 「ほう、これは黒魔導士」 オルデュースが、松明の光に輪郭をふちどらせて入ってきた。 「助けに来ることを予想して、網を張っておいた甲斐があったよ。テアテラ国内では捕えられなかったが、わが領土内とあらば、話は別だ」 「くそう。バレてたのか……」 アローテはとっさに機転をきかせ、へなへなと座り込むふりをして、牢壁の下のわずかな隙間に2本の剣を押し込むことに成功した。 「オルデュース、やめろ。ふたりを見逃してやってくれ」 アシュレイが懇願する。 「そうはいかぬ。死刑囚の逃亡を企てる者を、やすやすと見逃すつもりはない」 「死刑囚だと? 僕たちはまだ一度も王宮の法廷に立っていないんだぞ」 「法廷?」 オルデュースは、片眉を皮肉げに上げる。 「法廷とは、人間が人間を裁くところ。魔族とその仲間などに、法の裁きは無用だ。ただ死あるのみ!」 「オルデュース!」 「アッシュ、無駄だ。何を言っても」 ギュスターヴが低くうなった。 「こいつらはもう、魔王軍と一蓮托生だ。人間の正義や法など、とっくに投げ捨てているのさ」 「おまえなどに言われたくはないな」 サルデス騎士は冷笑すると、 「こいつらを縛り上げろ」 ギュスターヴとアローテは数人の手によって、後ろ手に縛られ、猿ぐつわをかませられた。 俗に「魔導士の轡〈くつわ〉」と呼ばれるもので、会話も水を飲むこともできるが、上下の唇を完全に合わせることができないため、正確な発音を必要とする呪文の詠唱をさまたげるのだ。 「オルデュース、なぜだ?」 勇者は、新しい鎖をきしませながら、かつての盟友にせまった。 「なぜ、魔王軍と手を結んだ!」 「アシュレイよ。おまえには理解できぬだろうが、魔王軍の中にも、人間との平和を望む者がいるということだよ」 オルデュースは、軍靴を鳴らして微笑を消した。 「魔王軍をここまで残虐な行動に走らせたのは、魔王とその息子ルギドだった。最後の魔将軍アブドゥール殿は奴らに反旗をひるがえし、我らの味方をしてくださった」 「アブドゥールだと?」 「結局、悪の根源は、我らの先王を殺戮せしルギドのみ。奴さえ殺せば、魔王はこの世に降臨できぬと、アブドゥール殿は教えてくださった」 「この、あほう! とんま!」 ギュスターヴは縛めのかかっていない両足をバタバタさせながら、わめいた。 「なんで、そんな見えすいた嘘を信じる? そんなのは、目の上のたんこぶの俺たちを人間の手によって葬ろうとする、奴らの罠に決まってるだろう!」 「ほほう。見えすいた嘘、と言うのか?」 オルデュースは、騎士学校の同輩であったアシュレイが見たこともないような冷ややかな光を、目に宿らせた。 「ルギドさえいなければ、魔王は降臨できない。これは真っ赤な嘘だと言うのかね?」 「そ、それは……」 「我らの目の前で、奴はルシャンさまの心臓を食らったのだ。王妃やサミュエル殿下、我ら家臣の目前で……。俺たちは何もできなかった。1日たりともあの光景を忘れたことはない!」 復讐の喜びに、騎士の顔は醜くゆがむ。 「アシュレイ! 貴様はその恨みを忘れたというのか? 貴様を幼いころより育ててくださった陛下の仇とともに歩むことなどが、なぜできるのだ? 俺には理解しようもない!」 「オルデュース、聞いてくれ。僕は……」 「貴様と話すことなど、もう何もない」 くびすを返したオルデュースは、扉のところで立ち止まった。 「明朝、王宮前広場にてルギドの公開処刑を行う」 「なんだって!」 アシュレイたち3人は、息をとめた。 「サミュエル陛下、王太后さまもご観覧あそばれる。グウェンドーレン王女だけは見たくないとの仰せであるがな。近隣・王都合わせて十万の民が集まり、その目の前で火刑に処せられるのだ」 「オルデュース。待ってくれっ」 アシュレイは、手首の皮膚が引きちぎれるのもかまわず、腕を必死に伸ばした。 「ルギドはどんな様子なんだ? せめて、せめて会わせてくれ! 後生だから!」 「会ったとて、奴は貴様らを見ることはできぬぞ」 「……え?」 「あの、くそ魔族め。毎日一本ずつ、手足の指を切り落としても、骨が見えるほど背中を鞭打っても表情ひとつ変えなかったが……」 彼は、こらえきれず笑いを洩らした。 「両眼をえぐりだしたときだけは、さすがにいい声を出してくれたよ。あははは」 アローテが小さな音を立てて、牢獄の床に崩れ落ちた。意識を手放したのだ。 「オルデュース、貴様……っ!」 アシュレイは絶叫した。 「悪魔に魂を売ったのか! なぜだ! おまえもサミュエル陛下も……、なぜこんなことを!」 「あいつに復讐するためだ! あの魔族を殺すためなら、悪魔に魂を売ってもかまわん! そして、貴様を苦しめることができたら! ……勇者として一身に栄誉を集めてきた貴様。俺がどれだけ貴様に引け目を感じていたか、わかるかっ。おのれの無力さに泣け。俺にひざまずいて哀願しろ!」 「オルデュース!」 荒い息の下から、狂気の騎士はにやりと笑った。 「何もできぬ苦しみに一晩のたうちまわれ。明日、十万の民の歓声が王都を揺るがすのが、ここからでも聞こえよう」 地下牢はふたたび、無音の漆黒に沈んだ。 「どうしよう」 ギュスターヴがすすり泣くのが聞こえる。 「俺の膝の上のアローテが、……全然震えがとまんねえんだ。半分気を失ったまま、震えてるんだ」 アシュレイはぼんやりと暗闇を見つめながら、つぶやいた。 「この国の人々は、のみこまれてしまった。大きな憎しみに……。目の前に差し出された獲物をいたぶる狂気に……。苦しみをつかのま忘れることのできる、残酷な快楽に……」 「アッシュ」 「でも、考えてみれば、ルギドも同じことをしてきたんだよな。あいつも命乞いする人間の首を斬り、大勢の人を焼き殺し、貪り食った。 僕らの仲間になったあとも、魔将軍の手足を一本ずつ切り刻んだこともあったな」 「アシュレイ、やめろ!」 悲痛な声でギュスターヴが叫んだ。 「だから、ルギドは苦しんできたんじゃないか。自分のせいで多くの人間が死んだ。何千もの部下も救うことができなかった。そのことで、あいつはずっと自分の心を切り刻んできたんじゃないか!」 「だからだよ」 アシュレイは静かに続ける。 「だから、ルギドはどんな拷問にあっても逃げないんだ」 「あ……」 「もうとっくに結界の効力はなくなっているんだ。どんなに弱っていたって、どんな鎖に縛られていたって、あいつなら逃げるチャンスはいくらでもあったはずだ」 「……」 「ルギドは、この国の人々の手によって殺されることを選んだんだ。畏王になってまた多くの生命を奪ってしまうかもしれない。その恐れを断ち切るために」 「そんなのおかしいよ。あいつは間違っている」 「そんなことはさせない!」 悲壮な決意を秘めたまなざしを、アシュレイは仲間に向けた。 「ルギドは必ず生きて救い出してみせる。たとえ、僕のこの手で、この国の人を……」 「それ以上言うな」 ギュスターヴは、かぶりを振った。 「勇者のおまえに、そんなせりふ似合わねえ。……やらなきゃならないときは俺がやるから」 「ギュス……」 「だが、どうやってここを出る?」 「呪文でこの手の枷を焼き溶かす。幸い、オルデュースのやつ、僕に猿ぐつわをかませなかった。僕が魔法を使えることを失念していたみたいだ」 「いくら初級呪文でも、手まで炭になっちまうぞ!」 「右手一本あれば、剣は持てる」 「……」 『アッシュサン、ギュスサン』 まさにそのとき、通路の天井のどこからか、甲高い声がかすかに聞こえてきた。 「ゼダか!」 ギュスターヴは顔をぱっと輝かせた。「そうか、おまえがいたんだ」 『ヨカッタ、無事デ、ナニヨリデス』 彼は、扉の小窓にふわりと舞い降りると、大きな黒い目をくるくるさせた。この暗い地下牢の中では、彼のからだは完璧な保護色になっている。 「よく助けに来てくれたな。ゼダ、そのすきまから入れるか?」 『ハイ、ヤッテミマス』 ゼダは翼を思い切りすぼめると、食事の差し入れ口から中にもぐりこんだ。 まず黒魔導士の手の縛めをほどく。 「ゼダ。アローテを頼む」 猿ぐつわをむしりとると、ギュスターヴは、アローテが牢壁のすきまに隠しておいた2本の剣をとりだした。 ルギドの剣の黒い刀身は、ものすごい切れ味で枷を粉々に砕いた。 「ほら、アッシュ。おまえのレイピアだ」 「ありがとう。そっちの方はおまえが持っていてくれ。僕が持つと、欲しくてたまらなくなりそうだからな」 「ハハ……」 ゼダがギュスターヴの濃緑のローブの裾を引っぱった。 『ギュスサン。オ内儀サマノ様子ガ、ナンダカ、オカシイデス』 「ああ、ルギドのことを聞いちまったからな」 『ルギドサマガ、処刑サレルノデスネ……』 彼は、両耳を白い腹が隠れるほどしおれさせた。 『王宮ノ庭デ、兵士タチガ話シテイルノヲ、聞キマシタ。夜ノウチカラ、広場ニゾクゾクト、人々ガ集マッテイマス。 王宮ノ見張リモ、ソチラニ駆リダサレテ、手薄ニナッタノデ、ヨウヤク、オ助ケニ来ルコトガ、デキタノデス』 「ゼダ、今何時ごろだ?」 『月ノ光ガ薄クナリ、東ノ空ガ明ルクナリ始メマシタ。処刑ハ、日ノ出ノ直後ト言ッテイマシタ。……ドウカ、急イデクダサイ! ルギドサマヲ、ドウカ!』 アシュレイは決然と立ち上がった。 「よしっ。行くぞ!」 |
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