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Chapter 21
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サルデス王国北方の国境近くに、誰も人の住まぬ森がある。 晩秋の深紅の枯れ葉舞う木々の足元に、小さな湖が清い水をたたえ、そのほとりに数十年も昔に木こりたちに打ち捨てられた数軒の丸太小屋が風雨にさらされたままになっていた。 アシュレイたちはスミルナ軍の帆船によって、この地まで運ばれてきた。 人の目も魔族の目も届かぬ場所で、ルギドとアローテの看病に専念するためであった。 ルギドは最初、ほとんど呼吸をしておらず、アシュレイの昼夜を分かたぬ回復魔法の効果をもってしても、仮死と言える日々が続いた。 ようやく安定した状態に入ったあとも、それから1カ月近くは夢と現のはざまを行き来しているらしく、ものも言えず、寝返りを打つこともできない。 そんな状態の彼を献身的に看病したのは、ジルとリグの兄妹だった。 ふたりは、半分腐りかけていた背中の傷を毎日水で洗い、薬草を貼った。目や手足の包帯も丹念に取替え、水を飲み込むことすらできない彼のために、水や動物の血をひたした海綿を根気よくくちびるにあてがった。 その甲斐あってルギドが意識を取り戻し、唇をかすかに動かして「ありがとう」と言ったときは、ふたりともわあわあ涙を流して喜んだ。 順調に回復の兆候を見せるルギドに対して、アローテの具合はもっと悪かった。 ルギドとアシュレイ、そしてジルが寝起きする小屋の隣りに、ギュスターヴとともに住んだ。 アローテの心はこなごなに壊れていた。毎日寝台の上に座って、うつろな表情でどこか遠くを見つめている。ときどき大声で笑い出したり、手のつけられないほど泣き叫んで暴れるのを、ギュスターヴが必死で押さえつける。 男性の彼にはできない彼女の体の世話を買って出てくれたのは、サルデス王女グウェンドーレンだった。幽閉されていた西の塔から数ヶ月ぶりにアシュレイらによって救出されたあと、彼らに同行していたのだ。 今となってはサルデス王家ただひとりの生き残りとなってしまった15歳の美しい王女は、悲しみに耐えながらそれをまぎらわす意味でも、アローテの看病に関わることをみずから望んだ。 ある夜、湖に水を汲みに小屋を出たギュスターヴは、水際でアシュレイがグウェンドーレン王女を抱きしめているのを目撃してしまった。 「ごめんなさい。アシュレイ。わたくし、思わず泣いてしまって」 「いいんです。グウェンドーレン様。……僕にはこうして、あなたのからだを支えていることしかできない。あなたの悲しみを分かち合うどころか、その原因を作ってしまったのは僕たちでもあるのですから」 「いいえ、あなたは悪くありません。悪いのは、憎しみに心を囚われてしまった兄たちです」 「……」 「最初、変わってしまったのは母でした。あの魔族の将軍が和議と称して王宮に入り込んでからほどなく……、兄や家臣をひどくののしり始め、アブドゥールに絶対の信頼を置かれるようになりました。 そして次に、サミュエルお兄さまが……。あの優しい兄が、人を憎む汚れた思いに身をゆだねてしまわれました。 1年前こそ、アシュレイ、あなたに立腹されていたものの、それからのあなたたちの活躍を耳にするにつれて、自分は間違っていた、あなたを呼び戻したいとまでおっしゃっていたのに」 グウェンドーレンはゆっくりとアシュレイの抱擁をほどくと、冷たい水で荒れた、王女らしからぬ手をそっと胸の上にかさねた。 「お母さまと同様、口を開けばあなたの悪口ばかり。あのときの恐ろしい顔は思い出したくもありません。 オルデュースは城中の者が変わってしまったあとも、最後までひとりで抵抗しました。 魔王軍を排するように幾度となく兄に進言し、私が塔に幽閉されるまで、たったひとりの味方でした。 私に万一のことがあったら、アシュレイに怒られると笑って、……なんとかしてこの国の危機をあなたに伝えに行くと言い残して出立しましたが、それからとうとう会うことはありませんでした」 「くっ……」 アシュレイが堪えきれずに食いしばった歯の間から泣き声をもらすのが聞こえた。 「すまない、グウェン。僕は誰も救い出すことができなかった。愛する方々を、かけがえのない友を、サルデスの国民を見殺しにしてしまった」 「いいの、アッシュ」 今度は王女が項垂れる恋人を抱きしめる番だった。 「きっとみんな、天の御国であなたに感謝していらっしゃるわ。邪悪の闇に完全に取り込まれる前に、大きな罪をおかす前にあなたが止めてくださったことを。……だから、もういいの」 「そうか、あのふたりも幼なじみだったんだよなあ」 ギュスターヴは洟をすすると、空の桶をぶらさげたまま、こっそりと小屋に戻った。 彼自身の幼なじみが、心の病に伏している小屋へと。 3ヶ月が経とうとしていた。 国境の森は、時おり舞う雪に凍え、動物も姿を消し、静寂の中に一枚の絵と化していた。 一週間に一度、ユツビ村からの使いが来て、食糧と生活に必要な物資を届けてくれた。スミルナからの軍船はいったん祖国に戻っていった。いつでもアシュレイの求めさえあれば、ゼリク王とともに馳せ参じるとの力強い約束を残して。 魔王軍も今のところ、何の動きも見せていない。 為政者をなくしたサルデスの都が、周辺の村々が、あれからどうなっているのか彼らに知るすべはなかった。 アシュレイは早朝戸外に出て、落葉した木々の黒い幹と雪の織りなす単色の世界に、しばし見入った。 それから、白い息を吐きながら薪のたばをいくつか取り、ギュスターヴとアローテの小屋に、グウェンドーレンとリグの小屋にそれぞれ届け、そして最後に自分たちの小屋に戻って、何本かを暖炉にくべた。 火の粉がさっと舞い、ぱちぱちと薪のはぜる音が勢いを増した。 その音で目を覚ましたのか、ルギドが寝台から上体を起こした。そして、手探りで杖をつかむと、それを頼りにゆっくりと立ち上がる。 その杖は、数日前から歩く練習を始めた彼のために、アシュレイが小刀でとねりこの幹を削って作ったものである。指のない掌全体で包み込んで重心を支えられるように、頂が平たくなっていた。 かたんかたんと不規則な音を立て、ルギドは時間をかけて暖炉のそばの肘掛け椅子にたどり着いた。 「もう朝なのか?」 「ああ。雪がふっていて、まだあたりは暗いけれど」 彼は椅子の背に身を預けると、しばらくじっと身動きせずに、聞こえてくる音だけで回りの様子を確かめようとした。 3ヶ月のあいだに、ルギドの皮膚に刻まれていた傷は、そのほとんどが姿を消していた。 常人ならば決して元には戻らなかったであろう、両脛の粉々に砕かれた骨も、今では歩くのに支障がないまでに繋がっている。 いまだに唯一、黒々とひきつれた傷跡を残す背中を完全に覆い隠すように、銀色の頭髪も、豊かに腰にまで達している。 ただ、視力は奪われたままだ。まぶたの裏に代わりの眼球ができつつあることは確認できるが、目を開くことはできない。 手や足の指も回復というには程遠い。 アシュレイは伸び上がって、ルギドの寝台の隣を見た。 「ジルはまだぐっすり寝ているな」 「今でも夜中に起き上がって、ときどき俺の息を確かめている。多分寝ぼけながら無意識にやっているのだろうが」 ルギドは、深い吐息をついた。 「ジルにもリグにも、……そしてアシュレイ、おまえにも世話をかけた」 「礼を言われるほどのことはしていない」 アシュレイは、目の見えぬ友であることを忘れ、微笑んでみせた。 「それに、振り返ればこの3ヶ月は楽しかったような気さえする。戦いを忘れ、まるで本当の家族のようにひとところに住む。 僕には、家族が寄り添って暮らした思い出がほとんどなかったから。おまえやアローテが苦しんでいるのに楽しかったというのは、いかにも不謹慎なのだが」 「そう感ずる気持ちはわかる」 「それに、ここでの暮らしは僕にとっては、立ち直る良いチャンスだった」 「立ち直る?」 「実際、ここに来たときは、僕はもう二度と剣は持つまい、二度と戦うまいと心の中で固く決心していたんだ」 「そうか……」 「僕は、もう勇者と呼ばれる資格はない。もしあのとき、おまえが畏王になっていなかったら、あのときサミュエル王やオルデュース、サルデスの兵たちを殺していたのは僕だった」 「……」 「僕はあのとき、あの人たちの愚かさを憎んだ。僕が4年間戦ってきたことをすべて否定されたと、腹の底から怒り狂っていた」 アシュレイは、うなだれた。「僕は天国に値しない罪びとだ……」 「だが現実には、奴らを殺したのはおまえではなく、俺だ」 ルギドは、包帯に厚くおおわれた目を暖炉に向けた。 「もし、おまえに罪があるとすれば、それは俺を助けようとしたことだ」 「ルギド」 「おまえはあのとき、俺を見殺しにすべきだった。おまえとゼダはふたりして、俺に大切なものを失う絶望と怒りを思い出させてしまった」 その淡々と静かな口調を聞きながらアシュレイは、ゼダのぼろぼろの翼とまだ暖かい体の感触を思い出して、目を閉じた。 ルギドは口をつぐむと、ふたたび椅子の背にもたれた。 「ルギド、おまえは死ぬつもりだったのか?」 3ヶ月間聞くことのできなかった疑問が、雪に塗りこめられた白い朝、素直に口にのぼる。 「サルデス軍に捕らえられたあと、逃げようとしなかった。もうそのとき死を選んでいたのか?」 「馬鹿を言うな。あのときは、本当に逃げるどころではなかった。テアテラの結界で弱りきっていたところに、氷の守護者を倒すために極限まで魔力を使い果たしていたからな」 「そうだったな」 「だがサルデスの王都に着いて、奴らの拷問を受け始めたとき、俺の心から逃げようという考えはすぐに消えた。これで死ねればいい。もう畏王も俺のからだに降臨することはないと思うと、むしろ安堵を感じたくらいだ」 「やはり……」 「頭がおかしくなっていたのかもしれん。鞭打たれ、指を一本ずつ切り取られていたときも、俺には辛いという思いはなかった。おおぜいの人間を殺した罪の償いをしているのだと思えてうれしかった」 「……」 「だが、サルデスの人間たちは、それでは満足しなかった」 何の表情も読み取れぬまま、魔族は話し続けた。 「俺のからだを打ち据えるほどに、奴らは俺に対する恨みを思い出していきり立った。 俺が何をされてもうめき声を上げないのに憤り、より残虐な拷問を考えついた。 苦痛を増すために、奴らは何でもした。それこそ寝食を忘れて打ち叩いた。俺は……」 彼ははじめて言いよどんだ。浅黒いはずの肌がそのときだけは蒼白に見えた。 「おのれの罪が決して赦されることがないということを思い知らされた。 そして、もっと絶望したのは、俺はどんな拷問を受けようが、決して死ぬことのない体なのだと気づいたときだ。 その頃から、……いや、本当はもっと以前から畏王の意識は俺の意識と雑じり合っていた。だが、もう止めることはできなかった」 アシュレイは心を落ち着けるために、暖炉に手をのばして、しゅんしゅんと沸きだしたポットを取り、ふたつのカップにお茶を注いだ。そしてひとつをルギドの前に、コトリと音を立てて置いた。 「魔将軍アブドゥールは、サルデス兵にまじって堂々と拷問室に出入りしていた。畏王は俺の口を使って、奴に直接命令をくだしていたのだ。俺を処刑する計画を進めよと。 奴の精神支配を王都10万の民に及ぼすために、魔力を分け与えもした。 そのとき、俺の意識の9割は、畏王に取って代わられていた。だが、最後の土壇場で、俺はまだ抵抗していた。畏王が何を企んでいるにせよ、抵抗したままで火刑になれば、たとえこの体でも死ねると思っていた」 彼は自らのことばを否定するように、かすかに首を振った。 「火刑台に登って、何万人もの人間の憎悪をこの身に浴びたとき、俺はわかった。畏王が俺に教えようとしていることを。 憎しみだけを受け続けた者の心がどんな暗黒の深みに沈むものなのかを。身もだえするほどの狂気と怒り。すべてを破壊したいという欲望。 俺と畏王の魂は、そのとき完全にひとつになった。 そして、ゼダの血が俺の頭に降り注ぐのを感じたとき、大切なゼダが俺のもとから永久に去ってしまったことを知ったとき、俺は心から望んだ。 世界が無に帰することを。すべての憎しみと絶望は、この世界とともに消えてなくなるべきなのだと――」 「ルギド……」 ふたりは長い間押し黙った。 雪がしんしんと地面に、木々に、小屋の窓枠に、屋根に降り積もる。 無音の世界に、ときおり暖炉の火のはぜる音と、ジルの寝返りをうつ音だけが響いた。 「畏王になっているとき、意識はあったのか?」 アシュレイがかすれた声で会話をつないだ。 「ああ、恐ろしいほど意識は澄み渡っていた。広場で逃げまどう人間の様子も、ひとりひとりの叫び声まで、すべて覚えている。 だがやはりそれは畏王の意識で、俺はその意識の中で重みをなくし、まるで宙を浮いているように感情もなく意志もなかった。ただ奴のどす黒い狂喜と復讐心をとおして世界を見ているだけだった」 「それなのに、どうしておまえは最後の最後で、ふたたび畏王を封じることができたんだ?」 「言っても、たぶんおまえは信じまい、アシュレイ」 驚いたことに、ルギドは軽い笑い声を洩らした。 「ルギド?」 「いや、おまえしか信じることはできないだろう。……あのとき、俺の意識はふたつに分かれた。そして俺と畏王のあいだに立ちはだかるように、リュートが現れたんだ」 「リ、リュートだって?」 「ギュスターヴが窓から叫び始めたとき、リュートが俺を同じ言葉で叱りつけ、同化していた俺と畏王をむりやり引き剥がした。畏王はそれに跳ね飛ばされるように、この世界に居場所をなくした」 「……」 「まるで、俺の体の中に、3人の心がせめぎあっているような、不思議な感覚だった。その中でリュートの理屈ぬきの楽観主義が、畏王をたじろがせたのだ。 この世はまだ捨てたもんじゃねえ。俺はすべての生きとし生けるものが大好きなんだ、そう声高に叫ぶリュートの声が勝った」 「まさか、そんなことが……」 アシュレイはつぶやいた。 「リュートは消えたわけではなかった。おまえの中に、まだいるんだな」 「ああ、確かにここにいる」 ルギドの目が見えないことを、この瞬間だけアシュレイは感謝した。懐かしい友の姿がありありと浮かび、彼の目に涙が滂沱(ぼうだ)として流れ出た。 それに気づかないのか、気づかぬふりをしているのか、ルギドは続けた。 「ジョカルは言っていた。畏王はおのれの身体をリュートというひとりの人間として造りあげたとき、すべての人間を憎むように、人間を心の底から恨んで裏切るように仕向けたはずだったと」 「ああ」 アシュレイは、袖でぐいと目をぬぐった。 「でも、僕の知っているリュートは、信じられないくらい他人に対する恨みや、悪意のない奴だったよ。過酷な子ども時代をおくったはずなのに、人間が大好きで、人と楽しく過ごすことが好きだった」 「どんなに罪を背負った、歪んだ魂をもって生まれても、憎しみのみを受け続けた人生でも、人を愛し、人に愛されることができる。 リュートはそれを畏王の鼻先に突きつけた。畏王の対極にいる者として」 「そうか、わかったぞ。……リュートは、畏王の天敵だったんだ!」 「ふ……」 「あは、ははは……」 ジルは、眠たげに目をこすりながらシーツを丸めて起き上がり、暖炉の前で愉快そうに笑い合うふたりの男を、いぶかしく見つめた。 「いったい、何がそんなにおかしいの?」 |
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