食べる部分がなくなって、ようやく彼は頭を上げた。床に残っているのは、骨と汚物の入った内臓と、頭の一部だけだ。 その頭は、大きく目を見開いて恨めしそうに彼を見つめている。 顔も、銀色の長い髪も、手も身体も、すべてを赤い血で染めたまま、彼は何かにおびえて膝で後じさった。 『ルギドさま』 さっき、この食物を与えてくれた長身の魔族が部屋に入ってきた。 『ふふ……。よほど空腹でいらしたのですね。無理もありません。まだ身体が変化したばかりでしたから』 そう言いながら、汚らわしそうに足の爪先で人間の頭をころがすと、ひざまずいて彼に微笑みかける。その笑顔を見上げたとたん、紅玉石の色をした瞳から涙がひとすじ滴り落ちた。 『おや……。どうなされました?』 心配げにのぞきこむ眼差しに抗うように、彼は首を何度も横に振った。記憶とともに、今の感情を表現できるだけの言葉も失われてしまった。 御しがたい孤独。不条理への恐怖。忘れてはならぬことを忘れてしまった喪失感。 家臣は、長いローブの袖で包み込むように彼を抱きしめた。 『さあ、湯殿に参りましょう。服を召される前に、お身体を清めなくては』 広間のような湯船の中に彼を立たせ、血とともに、彼を包んでいた繭状のものの薄い粘膜の残りを指先で丁寧に洗い取った。 『元通りの完璧なお身体です、ルギドさま』 されるがままになっている彼の耳に、囁き続ける。 『わが王の御器にふさわしいお身体……。あなた以外のすべての生命は存在する価値などありません。私も含めて、すべて滅びるべきなのです。ただ、あなただけ、あなただけがこの世にあるべき至高の生命……』 その家臣の名はジョカルと言った。彼はその翌日から、ルギドに王太子としての教育を始めた。 『あなたは、この世の支配者となるべきお方』 言葉すらおぼつかない彼に、辛抱強くひとつひとつの起ち居振舞いから教える。歩き方。玉座での座り方。謁見の受け方。王としての話し方。 ジョカルは厳しい教師だった。少しでもいいかげんな行動を取れば、容赦ない叱責が飛ぶ。 『あなたはあらゆる点で、最も秀でた者とならなければなりません』 彼はルギドに、民や部下たちを足台とみなすことを教えた。彼らの命など、ルギド自身の命に比べれば取るに足らないのだと。 ある日、彼らの住む塔の頂上に連れて行かれると、そこから蒸気の立つ赤茶けた地底を見せられた。 『御覧なさい』 大勢の魔族が働いているさまが、まるで虫のように小さく見えた。 『あれ……は?』 『最下級の魔族たちです。無能な者は生涯、あのようにひとかけらの鉱石を探すために、朝から晩まで地べたを這いずり回るしかありません。 そして、その下にさらに愚かな人間たちがいます。人間は、我ら魔族の食糧としてしか生きる価値のない存在。あなたはそれらすべての者の上に君臨するのです』 意味がわからぬままに、こっくりとうなずく。彼の教えは水が地面にしみこむように、ゆっくりと、しかし確かなものとして心にしみこんでいった。 魔王城の地下は広い空洞になっていた。 『ここはいくら壊してもかまいません』 ジョカルは王子の手を取って、ぬめぬめと地下水の光る床の上に立たせた。 『こうやって手のひらに意識を集中させ……、ご自分の内なる力を解放するように念ずるのです。やってみれば、おわかりになります。たぶん、あなたのお身体が、やり方を覚えているはず』 ルギドは目を閉じて、右手のひらをすっと上に向けた。 ほどなく、小さな光の球が空中に浮かんだ。内に激しく燃えさかる炎を宿して。 それは、ふわりと上昇すると、そのまま空気の焼ける匂いと破裂音を残して、消えてしまった。 『お上手です』 ルギドは目を開けると、おびえた眼差しで家臣を見た。『こわい……』 『何がで、ございます?』 『たくさん、殺した……。むかし。ずっと昔……』 『わが王のご記憶が、身体のどこかに残っているのですね』 ジョカルは微笑みながら彼に近づくと、その髪を愛撫した。 『恐れることなど、何もありません。あなたはその魔力で魔王軍を率い、地上の人間社会を打ち滅ぼし、新しい世界を作るのです』 『あたらしい……せかい?』 『そうです。古代ティトス帝国のように、魔族が地上のすべてを支配する世界。 そこに至上の君としてあなたは君臨し、そして……』 彼はそこで、唐突な沈黙をもって話を終わらせた。 魔王城の奥深い一画、ルギドの棲む小宇宙には、時折運ばれてくる「生きた食糧」以外、彼とジョカルしか存在しなかった。 『ルギドさま、もうよろしいですか』 入ってきた臣下に向かって、ルギドは頬杖をつきながら机の上の書物を投げつけた。 『こんなもの、全部わかりきっていることだ。読む価値もない』 『そうでございましたか』 『いつまで俺を子ども扱いする、ジョカル!』 ルギドは苛立ちを抑えようともせず、叫んだ。 『俺はもう何でもできる。毎日同じことの繰り返しは、もううんざりだ』 『たったそれだけのことを学んだだけで、何でもできると驕るところが、子どもだと言うのです』 いきなり、ジョカルは恐ろしいほどの力でルギドの胸倉をつかんで、椅子から引きずりおろした。 『来なさい!』 連れて行かれたところは、書庫だった。天井から床まで、すべての壁という壁に棚がしつらえられ、本がうず高く積み上げられている。 『何万冊あるでしょう。古代ティトス数万年の叡智を集めた本ばかりです。あなたはこれをすべて読んだのですか。読んだ上で、己は何でも知っていると驕るのですかっ』 彼は主を塵のように床の上に投げ捨てた。真珠色の目を血走らせカッと見開く様は、この世のどんなものよりも怖ろしい。 ルギドは青ざめた唇を噛みしめ、目を伏せた。 いつものように空洞に降りた彼に、ジョカルは一本の細身の剣を渡した。 『わが魔王軍に伝わる最強の剣、デーモンブレードでございます。わが王からルギドさまにお渡しするようにと……』 剣を受け取り、まがまがしい紋様の浮かび出る鞘から、するりと抜いた。柄の部分には竜をかたどった彫刻がなされ、刀身は黒い光を放つ。常人ならば、持つだけで生命を吸い取られるほどの邪気をはらんでいる。 『これを、俺に?』 『はい。きっとルギドさまなら使いこなされましょう』 見つめているうちに、ルギドの瞳の奥に紅蓮の炎が激しく、妖しく燃えさかった。まるで、自分以外の誰かの広遠な意思が乗り移ったかのごとく。 『フ……フフ』 『お気に召しましたか』 『……斬りたい』 『それでは人間を幾人か、連れて来させます』 生まれて初めて、ルギドのいる部屋に新しい住人がやってきた。 『これは、ゼダ。翼持つ種族です。今日からルギドさまの身の回りのお世話をいたします』 ジョカルに招じ入れられて入ってきたのは、腕丈にも満たないような飛行族の若者だった。柔らかい灰色の毛に被われた身体。黒く透き通った翼。彼は玉座の前で丁寧に腰を折ると、なめらかなことばで挨拶した。 『ゼダと申します。ルギド王子にお使えすることのできる栄誉、ことばでは言い表すことができません』 新任の従者は話好きな明るい性格だった。ゼダが加わることによって、ルギドは会話することの楽しさを知った。 『こちらは高い山、攻めることはできません』 卓上の大きな石版を使って、ジョカルはよく戦術の講義をした。 『こちらの陣形は、戦力の粒がそろっているときに、もっとも効果を発揮します。ばらつきがあるときは適していません。兵の能力を素早く見極めることが指揮官には大切なのです』 『面倒くさいことをするものだな』 ルギドは盤上の駒をもてあそびながら、気のなさそうに聞いている。 彼の背後では、これも新しく部屋に加わった人間の女奴隷が侍っていた。多くの日を経ても、なおすすり泣きながら、震える手で椅子の背に垂らしたルギドの長い髪をくしけずっている。 ゼダが泡立つ酒の入った杯を、彼のもとに恭しく運んできた。 『ゼダ。おまえが指揮官ならどうする?』 『え、わ、わたくしですか?』 ゼダはつぶらな瞳をくりくりと忙しく動かしながら、考え込んだ。 『一旦こちらに退却して、敵の陣が長く伸びるのを待ったほうがよいのではないでしょうか』 『正解、だな。ジョカル?』 『はい、その通りです』 『でも、俺ならばこうする』 ルギドは持っていた駒を石版の真ん中にポトリと落とし、水かきのついた掌で、ぐしゃりと敵陣全体を押しつぶした。 『俺ひとりで、十分だ』 『ルギドさま』 呆れたように、ジョカルは吐息をついた。『それでは戦略になりません』 『でも、その方が早い』 『早いでしょうが、加減は利きません』 『加減だと?』 ジョカルは、ルギドの手の中の酒盃を指し示して、言った。 『その杯も、ありったけの力をこめて持てば、瞬く間に壊れます。加減した力で長く持つことが、酒を長く楽しむためには重要なのです。戦いも――』 自軍の大将駒をそっと拾い上げると、 『ルギドさまの御力で、すべてを破壊することは容易くできましょう。しかし、それでは支配したことにはならない。敵が降伏するゆとりを与えることは、戦略の第一歩なのです』 『破壊するより、降伏させたのちに支配せよ、ということか?』 ジョカルの口元に奇妙な笑みがのぼった。 『はい……。今はまだ』 荒々しい足音を立てて、ジョカルが空洞の部屋に入ってきた。 『ルギドさま』 低い威圧するような響きの声も、成長した今のルギドにとっては何の脅しにもならない。 『あれほど言ったでしょう。まだ魔王城の外に出ることは早すぎます、まして地上に出てはなりませぬと。どうして、私の言うことをお聞きくださらないのです』 『おまえが嘘つきだからだ!』 答えるルギドの顔に、嫌悪がにじむ。 『もうすぐ戦わせてやると、地上に出て人間どもを思う存分斬らせてやると、そう約束したではないか。いったいいつになったらだ! 俺はここの生活に飽き飽きしている。一日も早く殊勲を立てて父王にお会いしたいと望むことに、何の不都合がある』 『だから、あなたにはその準備がまだできていないと、申し上げているではありませんか』 ジョカルは、彼らしからぬ有様で取り乱し、激昂していた。 『あなたは、あなたの記憶は、まだ完全に消去されていないのです。もし……もし、地上に出て、何かを思い出してしまったら』 『うるさい! 俺を支配者だと言ったのはおまえだろう。なぜ家臣のおまえが俺に逆らう。おまえこそ命令を聞け』 『いまだ支配者の資格を持たぬ者の命令など、聞けません』 『何だ……とっ』 ルギドは逆上しきって、とっさにジョカルの胸に手を押しつけた。巨大な魔力の光球が爆発し、家臣はものも言わず後ろに吹き飛ばされた。 『……』 荒い息が静まったあと、地下の空洞を怖じるような静寂が包み込む。 『ジョカル』 いぶかしくなり近づくと、床に倒れている魔族の目は堅く閉じられ、ローブの胸に黒い血がみるみる染み出していた。 『ジョカル……?』 ルギドはあわてて、彼の上半身を助け起こした。 『嘘……だな?』 こんなことくらいで、命というものは消えてしまうものなのか。 遠い遠い昔そうしたように、今また己は、もっとも大切な者を自らの手で殺してしまったのか。 『ジョカル!』 その絶叫は誰にも聞かれることなく、広い空洞の壁に吸い込まれて消えていった。 まぶたを開いたジョカルは、寝台のそばにうなだれて座っている主君の姿を認めた。 『ルギドさま……』 背後に立っていたゼダが、代わりに小声で答えた。 『ルギドさまは3日間というもの、ここから離れようとなさいません。食事も召し上がらず、横におなりくださいと申し上げても……』 『何も食べたくない……眠ることもできない』 ジョカルから半ばそむけた横顔は、髪も乱れ、やつれきっている。 『おまえが死ぬことを考えたら、俺がこの手で殺してしまったと思ったら、気が狂いそうだった』 『ルギドさま』 『おまえがいなくなったら、俺は生きていけない……』 ルギドは家臣の首にしがみついて、子どものように泣いた。 ようやく床から起き上がれるようになったジョカルは、ルギドがこの頃毎日籠もっているという書庫に向かった。 王子は、二階の狭い回廊に羽根枕をうず高く積み上げて、それに肘をついて無心に本を読んでいる。 『ルギドさま』 彼は目を上げると、微笑みかけた。 『ジョカル。もう起きてもだいじょうぶなのか』 その笑顔を見たとたん、全身の鱗がざわめくのを感じた。数ヶ月前とはまったく違う瞳のきらめき。 知恵と知識を得た者の瞳。支配者のまなざし。 ルギドは片手に本を抱えたまま、はしごを降りてきた。 『おまえが立てた予定は、もうとっくに終わらせたぞ。余った時間で、ここにある本を読んでいた』 『これは……?』 ジョカルは彼の手元に目を走らせて、驚愕した。 『これは、古代ティトス文字の書物ではありませんか。読めるのですか?』 『ああ、なぜか読める』 ルギドは慣れた手つきで、ぱらぱらと頁をめくる。 『魔導士の手になるものだ。ここにおもしろいことが書いてある。古代ティトスには「魔法剣」なるものがあって、魔力を剣に籠めることができたらしい。この方法が知りたい。俺のデーモンブレードなら、可能かもしれんな』 『はい』 ジョカルは膝をついて、両の拳を床に押し当て、頭を低く垂れた。 『なぜ、俺に拝礼する?』 『あなたが、それにふさわしい方になられたからです、ルギドさま』 真夜中、ルギドは寝台から身を起こした。人間の女奴隷が、彼のかたわらで眠ったまま、かすかに身じろぎした。 音を立てないように素足のまま隣の部屋に入ると、自分の玉座に腰を下ろし、深い吐息をついた。 『ルギドさま』 振り返ると、杯を載せた盆を捧げたジョカルが立っていた。 『酒をお持ちしました』 『ああ』 ルギドは片手で、とろりとした毒々しい飲み物を受け取った。 『お眠りになれないのですか?』 『目が覚めてしまった。何かの夢を見ていたらしい』 一気に飲み干した杯を返すと、玉座に背を預ける。 『懐かしい、それでいて怖ろしい……そんな夢だ。でもすぐに忘れてしまった』 そして、なおそばに侍っている忠臣をまっすぐに見つめた。 『ジョカル。おまえは一晩中、俺のために起きているのか』 「そんなことはございません。でも、ルギドさまのご気配は、控えの間にいてもわかるのです』 『まだ、怪我も治りきっていないのに』 『ご心配なさるほどのことではございませぬ』 『いや、これからは俺が声をかけるまでは休んでいろ』 抗しがたい威厳をこめて、ルギドは言った。 『それは、ご命令ですか』 『ティエン・ルギドの、命令だ』 『……わかりました。御心のままに』 ジョカルは胸に手を置き、深々と頭を下げた。 『私は、ルギドさまのご養育を失敗したかもしれません、畏王さま』 暗い謁見の間で、ジョカルは虚無の空間に漂う主の幽体の前にひざまずいていた。 誰も知らないはずの魔王の真の名を呼ぶのは、ジョカルがひとりでいるときだけ許されていることだった。 [ルギド。わが器、わが半身。――いったい何が問題なのだ?] 『いえ、何も。知識においても魔力においても、ルギドさまは成長なされました。支配者の目になられました。畏王さまがご降臨なさる器としてふさわしく……』 [では、何を案ずる] 『ただ、ルギドさまはお優しすぎるのです』 ジョカルは悲しげに微笑む。 『私のような者をまで労わり、慈しみ、怪我にうろたえてくださいました。だからこそ、心配なのです。 優しさと弱さは同じこと。ルギドさまは果たして、全世界を滅ぼすという畏王さまの真の御心を、やがてお悟りになるときが来るでしょうか』 [ジョカルよ。おまえが懸念することは何もない] 畏王の声は、ジョカルの耳に心なしか満足気に響いた。 [ルギドは必ず我とともに歩む。我とともに世界を破壊する。我はそのように、奴を創っている] 『御心のなりますように……』 [明朝、全魔将軍たちに謁見する。その前で、正式にルギドに魔族の王子としての地位を与え、三個師団の指揮官として任命する。そのように全軍に伝えよ] 『はっ』 王の前を退出した後も、ジョカルの胸からはひとつの疑惑が容易に去らなかった。 『畏王さまは、ルギドさまにお優しい心を持ってほしいと、御思いのどこかで願われていたのではないだろうか。畏王さまを父として慕ってくれるようにと……、畏王さまの味わわれた痛みのために泣いてくれるようにと……』 だが、それこそ自らが捨てきれぬ感傷なのだろう。 仮初めにも家臣の分際で主の心を推し量ろうとしたことを、ジョカルは大いに恥じた。 |