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02. ぼとる



 詩乃の話が終わると、
「ああっ。どこが、『いとしい夜叉』の話なんだ。結局ノロケじゃねえかよ!」
 龍二はバタンと、大の字にひっくり返った。
 いろりで火照った体を、畳がひんやりと迎えてくれる。
 田舎育ちの彼にとって、この家は、とてもなつかしい匂いがする。木の匂い、ワラの匂い、火のぱちぱちと燃える匂い。
 目を閉じて、ひくひくと心地よさを堪能していたら、突然甘ったるい匂いが鼻をついた。
「うほほーい。うまそうに焦げとるわい」
 草薙と孝子が、火箸にマシュマロを刺して焼き始めたのだ。
「はい」
 詩乃がお茶のおかわりを、みんなに注いで回る。
 彼女がいろりばたを動くと、かすかなシャンプーの香りがした。
 詩乃の香り。
 それは龍二にとって、何よりもなつかしく、心痛む香りだ。
「そうだ。みんな、頭洗うときは何を使ってる?」
 唐突な問いに、一同はきょとんとした。
「私は、普通のシャンプーとコンディショナーと、トリートメントだけど?」
「右に同じ」
 女たちは口をそろえる。
「僕は、カラーリング用のシャンプーですね」
「……石鹸だ」
「わたしは鋼じゃから、シャンプーなんぞしたことないわい」
「龍二くんは長髪なだけに、かなり気を使っていそうですね」
「ところが、そうでもなかったんだ」
 龍二は起き上がって胡坐をかき、にやりと笑った。
「シャンプーの好きな夜叉の話、聞かせてやろうか」

「目を開けると、位置が全部変わっているんですよ」
 興奮してまくしたてる男のことばに、龍二は呆気に取られた。
「シャンプーとコンディショナーのボトルが?」
「ボディーソープもです!」
 バスルームの壁にしつらえられた棚。そこに順番に並べてあるはずのシャンプーとコンディショナーとボディソープのポンプボトルが、髪を洗い終わって目を開けると、全部入れ替わっているのだという。
 そんなことで大の男がびびって、風呂に入れなくなったと心霊調査事務所に相談に来るというのも、どんなもんだろう。思わずツッコミたくなるが、そこはそれ、商売だ。
 このところ手元不如意で、デート代にも事欠くありさまなのだ。
 にっこりと愛想よくほほえむ。
「それで、お客様は、『ポルターガイスト現象』ではないかとおっしゃるんですね」
「それ以外、考えられます?」
 騒霊現象、ドイツ語でポルターガイストは、建物の中で物体が移動したり、飛んだりする現象である。ときには、大きな音をともなう。
「『ポルターガイスト』は、古くから霊のしわざであるとされていましたが、最近では、ある特定の周波の振動が原因だとも言われています」
「あんた、心霊事務所の人間のくせに、霊を否定するわけ」
 客の男は不満げだ。
「もちろん、否定はしません。ただ、あらゆる可能性を探っておきたいのです」
 久下心霊調査事務所に来る相談で、およそ八割はガセネタなのだ。思い違い、いたずらが圧倒的に多い。それでも事務所を訪れる人が年々増えているのは、不安な時代なんだろうなと、龍二は思う。

 とりあえず、依頼者の与田という男のマンションに、行ってみることにした。
 玄関を入る前に周囲をぐるりと一周し、何も問題がないことを確める。一度なんかは、違法建築によって極端に家の土台が傾いていて、部屋の中のものが移動するというのもあったっけ。
 インターホンを鳴らしたのは、もうとっぷりと日が暮れた後だった。
「どうぞ」
 与田は、事務所へ来たときの勢いはどこへやら、龍二を見てびくびくしているようだった。
 人は自分とは異質なものを、たとえそれが味方であっても、本能的に恐れるものだ。「夜叉追い」になってから、龍二はその孤独を味わうことが、しばしばあった。
 今までいろいろな女性と付き合ってきたが、彼の副業を知られてしまうと、必ずといっていいほど破局が訪れる。
「じゃあ、風呂に入ってみてくださいますか」
「は、はい」
 与田はおずおずと着ているものを脱ぎ始めた。ちらりと下を見ると、ちゃんと海水パンツを履いていた。けっこう準備のいい奴だ。
 与田が浴室に入ると、龍二は扉のすき間から、こっそり中の様子をうかがった。
 風呂椅子に腰をかけると、シャワーを勢いよく出しっぱなしにした。慢性水不足に悩まされている四国の住民からすると、赦しがたい暴挙だ。
 ボディソープで体を洗い終えると、おずおずと龍二のほうを見た。
「恐くて、目をつぶれません」
「だいじょうぶ。ちゃんと見ててあげるから」
 ようやく決心した男は、頭から勢いよくシャワーの湯をかけながら、棚にひょいと手を伸ばす。目はぎゅっとつぶったままだ。
(あっ)
 与田はいきなりコンディショナーに手を伸ばそうとした。順番が違う。
 その瞬間、龍二が見たのは、驚くべき光景だった。
 風呂の壁から、にゅっと女の手が出て、彼の手にシャンプーのボトルを握らせたのだった。
 頭を洗うと、次にコンディショナーのつもりで、ボディソープに手を伸ばした。そのときも、手がコンディショナーのボトルを渡した。
(なるほど、そういうことだったのか)
 頭を洗い終えた与田は、「ああっ」と歓喜と恐怖のいりまじった叫び声を上げた。
「ほら。やっぱりボトルの順番が違ってる。ポルターガイスト現象だと言ったでしょう」
 得意そうに怒鳴る男に、龍二は「あほか」と言いそうになるのを、思わずこらえた。
「確かに、おっしゃるとおり、霊のしわざでした」
「ね、ね」
 依頼者は得意満面だ。
「それでは、除霊に移りますので、しばらく浴室から出ていてくださいますか」
「は、はい」
 もわもわと湯気が立ち込める浴室内に裸足で入ると、龍二は壁を見つめて、だるそうな声で言った。
「なあ、おせっかいな幽霊さんよ。痛い目に会いたくなければ、出て来いよ」

「なんで、あの男の世話なんて焼いてたんだ?」
 夜道を辿りながら、龍二は訊ねた。
 彼のすぐ後ろからは、ふわふわと白いワンピース姿の女の幽霊がついてくる。
 除霊に成功したと告げ、ついでに霊験あらたかなお札だと、浴室の入口に真言を書きつけた護符を貼ると、与田はたいそうほっとした様子で、謝礼をはずんでくれた。
 これで週末のデート費用ができた。
 幽霊は、髪のとても長い若い女だった。
「私も、生きていたときシャンプーとコンディショナーをよく間違えたの」
「間違えると、悲惨なことになるなあ」
「交通事故で死んだんだけど、タイヤで自慢の髪をずたずたにされたの。だから、髪の毛のことが、とても気になって」
「あちこちの風呂を覗いては、髪を洗う奴におせっかいを焼いてたんだな」
「だって、あの男の人ってば、毎日ボトルを間違えるんだもの」
「けどな」
 龍二は立ち止まり、幽霊の頭をぽんぽんと叩いた。もちろん仕草だけで、本当に触れるわけではない。
「そういうことを続けてたら、あんたはいつか、おせっかいな幽霊だけじゃすまなくなる。髪の毛に異常な執着を持つ夜叉になってしまうんだぜ」
「……ごめんなさい」
「わかったら、早いとこ成仏するんだな。行き方がわからなければ、知ってる奴を紹介してやる」
「うん」
 しばらく歩くと、龍二はまた振り向いた。「まだついてくるのかよ」
「だって、あなたの髪の毛、とっても長くてぼさぼさで、洗いがいがありそう」
「げっ。俺の髪にまで、ちょっかい出す気かよ」
「一度でいいから、洗うの手伝わせて。そしたら、成仏するから」
 龍二は肩をすくめた。「ま、それくらいならいいか」
 ふたたび幽霊連れで夜道を歩き始める。
「よく見ると、あなたっていい男ね」
「言っておくが、俺は幽霊とレンアイするつもりはないぞ」
 龍二はすばやく釘をさした。「恋人は、生身がいいに決まってる」
「そうなの」
「知り合いで、幽霊と恋愛してる刑事がいるが、あれは大変だ」
 女の幽霊はそれを聞いて、たいそうがっかりした様子だった。少しかわいそうだが、幽霊に情を移してはいけない。情を移すと、相手も次の世界に行けないし、自分も彼らのほうに取り込まれるのだ。
 アパートに帰ると、龍二はさっそく風呂の支度をした。輪ゴムでくくっていた髪をほどく。もちろん自信があるので、海水パンツなど履かない。
 女幽霊がそばにいるのを感じながら、風呂桶一杯のお湯で、丁寧に体を洗い、ついでに髪も湿らせる。四国人は水の使い方がうまいのだ。
「ああっ」
 彼女の悲鳴で、はっと我に返る。彼がシャンプーだと思ってつかんだボトルは、なんとコンディショナーだった。
「やっぱり、しばらくここにいることにしたわ」
 勝ち誇ったような宣言に、龍二は文字通り頭をかかえた。
 



(二話終 ―― 三話「すずめ」へ続く) 
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