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04. はつこい
「で、桔梗はどうなったんだ」
「吉原に戻ったよ」
草薙は、金色の目をぱちぱちと瞬かせた。
「生きていくことに、すっかり臆病になってしまったんじゃな。自身番に、ふたりを殺しましたと届けたが、やはり相手にしてもらえなんだ。しかたなく、『火焔玉屋』に戻り、頭を下げた。火事騒ぎの隙に、魔が差して逃げ出しましたと」
「逃亡した遊女を、妓楼はあっさり赦したの?」
孝子が問うと、草薙は首を横に振った。
「男衆の、それはそれはひどい拷問が待っておった。だが、そこは統馬がうまく場を治めてのう」
「男衆を、ぼっこぼこにしたのね」
いつのまに子どもたちを寝かしつけたのか、詩乃が戻ってきた。二杯目の急須に鉄瓶のお湯をシュポシュポと注ぐ。「統馬くんは、やさしいから」
その言葉に微量のトゲを感じ、統馬は気まずそうに身じろぎした。
「それから桔梗は遊女として、歳を取ってからは奥の女中頭として、死ぬまで『火焔玉屋』で暮らしたのじゃ」
突然、久下が「あっ」と大きな声を出した。
「僕が幕末に生きていたころ、『火焔玉屋』に行ったことがありました。裏口で手引きをしてくれたお婆さん――あの方が桔梗さんだったのですね」
草薙はこっくりとうなずいた。
「そのエピソードは、『満賢の魔鏡』第二話に出ておるぞ」
「誰に向かって、言ってるんですか」
一同が熱いお茶でほっと一息つくと、孝子が口を開いた。
「じゃあ私もつられて、昔々の話でもしましょうか」
孝子が生まれたのは、太平洋戦争で焦土と化した日本が、ようやく傷から癒えて立ち上がろうとしていたときだった。
曽祖父と祖父が貴族院議員を務めた鷹泉(ようぜん)伯爵家は、戦後の財閥解体と農地解放でほとんどの財産を失い、駒込の屋敷とわずかな土地を残されるにとどまった。
しかし、生来の気性ゆえか、父は家の没落を意に介することもなく、大学教授としての俸給に満足していた。
母は、日々の切り盛りにたいそう苦労したに違いないが、そんな苦労は素振りにも見せない、しっかりした女性だった。
駒込の屋敷の生垣を越えた向こうに、こじんまりとした洋館があり、孝子の大叔母にあたる鷹泉董子(ようぜんとうこ)がひとりで住んでいた。
董子は当時すでに60歳を越えていた。立ち居振る舞いもきりりとした、白髪の美しい人だった。
若い頃に勘当され、赦されて戻るまでは夜叉を追う旅の連続だったという。
女の身で、ひとところに住めぬ日々は、どれほど辛かったか。孝子は一度問うたことがあるが、大叔母は微笑むだけだった。
孝子が統馬と最初に会ったのは、いったいいつだったか。
もの心ついたころ、孝子は董子の手に引かれて歩いていた。
あたり一面に、バラが咲き乱れていたことを覚えている。
「統馬。この子が、私の姪孫(てっそん)の孝子です」
「そうか」
声だけは聞こえるのに、その姿は見えない。あいまいで不思議な記憶だった。
二度目は、五歳のとき。
夕闇のせまる頃、董子の館で、習い覚えた足踏みオルガンを弾いていた。
ふと話し声が聞こえて指を止めると、董子は部屋の片隅で、誰かと話していた。
窓が開き、沈丁花の香りが濃く漂っていた。孝子がそっと近寄っていくと、大叔母の背中越しに、一瞬だけ彼と目が合った。
早春なのに、白シャツとズボンだけの簡素な服。窓を背に立つ彼の顔は、暗くかげり、前髪の間から覗く双眸は、黒々と底がない。
まるで、おまえには興味ないと言わんばかりに、彼は視線を董子に戻した。
「おまえの力が要る。今すぐ、いっしょに来てくれ」
「わかりました」
董子はショールをふわりと揺らして振り向くと、孝子の前にひざまずいた。
「孝子さん。またしばらく留守にします。お母さまにそう伝えておいて」
「……」
息が詰まって返事ができなかった。それほどに、そのときの大叔母は幸せそうに見えたのだ。
それからも、統馬はたびたび董子を旅に連れ出したが、董子が年老いていくにつれ、その回数は目に見えて減っていった。
だが統馬自身は、まったく歳を取らなかった。最初に見たときとまったく同じく、少年と青年の境界を、軽やかに綱渡りしているようだった。
孝子が十三になったとき、臥せっていた董子を見舞いに訪れた統馬に、孝子は挑むように言った。
「統馬さま。あなたは吸血鬼なのでしょう」
彼は珍しく、度肝を抜かれたような表情をした。
「何を言っている。この娘は」
董子は、寝台の上でころころと笑った。
「今、巷で評判の映画のことですよ。クリストファー・リー演ずる『吸血鬼ドラキュラ』をご存じありませんか」
「……知らん」
「だから、たまには洋画くらい見ろと言っておるのに」
甲高い声は、刀袋から顔を出した白狐の草薙だ。
「吸血鬼は、何百年経っても歳を取らないのですって。そして、いつも夜になると現われる。ね、統馬さまと同じ」
孝子は統馬を驚かせたことに興奮するあまり、次々とことばを連ねる。
「女性の生き血を吸って命を保ち、にんにくが嫌いで、昼間は棺おけの中で眠り、十字架を恐れ、胸に杭を打たれると灰になって……」
「孝子、もうおやめなさい」
董子はにこにこしながら、たしなめた。「統馬が困っているわよ」
「うそだわ。全然困ってなんかおられないくせに」
本当は、もっと困らせてやりたいのだ。いつもチラとしか自分のことを見てくれない彼への腹いせに。
董子はそのまま、床上げすることもかなわず、この世を去った。
最後の夜、彼女は孝子を枕元に呼んだ。
「孝子。統馬のことをお願いします。これからは、あなたがあの人を助けてあげて」
苦しい息の下で頼むと、弱々しく微笑んだ。「悲しまないで。私はいずれ、あなたのもとに帰ってきますよ」
統馬は董子の臨終にも立ち会わず、葬儀にも参列しなかった。だが喪が明ける頃になって、前触れなしに孝子の部屋に現われた。
「統馬……さま」
彼の姿を見つけたとき、孝子は全身が痺れるのを感じた。
会いたかった。会いたかった。
黒いレースの裾をひるがえして、もつれる足を運び、ぴたと止まった。
「私に近づいても大丈夫です。料理には、もうずっとにんにくを入れていません。銀も絶対に身につけません」
統馬は顔をそむけながら、うっすらと笑った。「まだそんなことを言っているのか」
「だって、ちっとも来てくださらないんだもの」
孝子はボロボロ涙を流しながら、統馬の腕に飛び込み、すがりついた。
血を吸われてもいい、肉を喰われてもいい、望むところだ。
それが彼とともに永遠を分かち合うことならば。
「来なくては、だめです。だって孝子は董子叔母さまに、あなたのことをお助けするようにと頼まれているんですから」
「董子は、そんなことを言ったのか」
「私が大叔母さまの代わりになります。いっしょに来てくれとおっしゃってください」
統馬は首を振った。
「孝子。おまえには、夜叉と戦えるだけの霊力がない」
「勉強します。どんなつらい修行でも耐えますから」
「それでも、無理だ」
聞こえるか聞こえないかの声で言うと、彼は彼女の手を引き離した。
「これからもときどき、様子を見に来る。董子とそう約束した」
後じさりしながら、言う。「だが、もう俺の姿は二度とおまえの目には触れることはない」
我に返ったときには、風のように統馬は部屋からかき消えていた。
孝子は心の一部をもぎとられたような喪失感を抱いた。
(統馬さまは、もう会ってくださらないと言った。私には大叔母さまのような霊力がないから。夜叉を調伏する力などないから)
泣き明かす夜が続いたある日、ついに孝子は決心した。
学校から帰るとすぐに、董子の館に行き、書斎にこもる。
そこには、真言陀羅尼(しんごんだらに)や陰陽道、古今東西の呪術に関する本が何百冊も集められていた。
孝子は寝食を忘れて、それらの本を読みふけった。
暗記するまで真言を唱え、結界の描き方を学んだ。
スポーツに興じることもなく、映画や劇を見に行くことも、友だちと遊ぶこともない。両親は、常軌を逸した娘の行動を、ひどく案じた。
努力の甲斐あってか、やがて館の一隅に小さな黒い物体が見えるようになった。
それは、日ごとに大きくなり、ついには部屋の片隅をすべて占領してしまうようになった。
(霊力を得たから、ついに私にも夜叉が見えるようになったのだわ)
有頂天になった孝子はある日、調伏を試みることにした。
昼間から黒いカーテンを引き、蝋燭を灯し、曼荼羅(まんだら)を床に描き、覚えたばかりの真言を唱える。
「オン・バン・ウン・タラク・キリク・アク・ソワカ」
閉めきっているはずの部屋に、どこからか生臭い風が吹きつけ、灯を消した。
片隅の黒い影は、びちゃびちゃという音を立てながら、うごめいている。
「なぜ、真言が効かないの……?」
にわかな恐怖に心を鷲づかみにされた孝子は、あわてて部屋を飛び出そうと扉のノブをつかんだ。
だが黒い影は、それよりも早く立ちふさがり、扉に映る孝子の影に同化し、ニッと笑った。
「ひいっ」
床に尻餅をついた少女を、影は頭から丸ごとかじろうとでもするように、巨大な口を開けた。
そのとき、窓ガラスがばりばりと割れ、統馬が飛び込んできた。
「オン・バザラヤキシャ・ウン」
最強の霊力をこめられた言葉は、まるで雷(いかずち)のように黒い影を刺し貫き、霊剣の一閃によって粉々にされた。
「この阿呆!」
孝子を見下ろす統馬の顔は怒りで赤く染まっている。
「何を考えている。素人が身にあまる武器を振り回せば、おのれをも傷つけることを知らないのか」
孝子は放心したまま、へなへなと床に伏した。
「ごめんなさい……私……」
「孝子どの」
刀の鍔から白狐に変化した草薙が、彼女の肩に飛び移り、尻尾で頬の涙を、ごしごしと拭き取ってくれる。「恐かったのう」
その柔らかさにこらえきれなくなった孝子は、両手で顔を覆い、わっと泣き始めた。
震える華奢な体を、やがて力強く暖かい腕が包んだ。
「孝子。俺は、董子におまえのことを頼まれている。こんなところで死なせるわけにはいかないんだ」
統馬の不機嫌な声が、軒から落ちる雨だれのように心地よい。
その声を通して伝わってくるのだ。統馬がどれほど、董子を失って寂しく思っているのか。
孝子の思いを受け止めることさえつらく、それゆえに彼女を遠ざけようとしていたことが。
それがわかったとき孝子は、大叔母と自分の二代にわたる恋が報われたような気がした。
「それにしても董子どのは、双方に相手を頼むと言い遺していったのじゃな」
草薙が、からからと笑った。「このふたりはどちらも、からっきし頼りなげじゃからのう」
「統馬さま」
孝子は涙をぬぐって、居住まいを正した。
「私には霊力がないことが、よくわかりました。でも、大叔母の遺言を守りたいのです。どうすれば、あなたをお助けできますか」
統馬はじっと、少女を見つめた。その瞳は、はるかな過去と同時に、時を越えた未来までも見晴るかしているようだった。
「日本の中枢を動かせる人間になってくれ」
静かな声が、彼の口から漏れた。
「夜叉を追うために、俺はどこにでも潜りこまねばならん。議会や政府、経済界、警察、刑務所、学校――。強い政治力を持ってそれらを動かせる存在が必要だ。孝子。おまえが、その存在になってくれ」
孝子はひるんだ。そんな大それた役が私に務まるだろうか。
しかし次の瞬間、心は決まっていた。
「わかりました」
孝子は、強い決意を乗せた眼差しでうなずいた。
「十年お待ち下さい。必ずそうなってみせます」
「ふっふっふ、それで」
龍二は四つんばいになって、よだれを垂らさんばかりに孝子の前ににじりよった。
「統馬とは、それからどうなった?」
「なーんにも。私は約束どおり、総務省に入省して必死で働いたわ。キャリアを積み、今の調査室を開いて、夜叉追いを影から助けるために」
孝子はふくよかな頬をぷっと膨らました。「その間、統馬は思い出したようにしか会いに来てくれませんでしたよ」
「ちぇっ。みんな肝心な点になると、口が堅いな。せっかく統馬の四百年にわたるハーレム疑惑を証明できると思ったのに」
統馬は立ち上がると、龍二の馬のしっぽのような後ろ髪をぐいと力まかせに引っぱった。
「いてて」
「くだらないことを言ってないで、もう寝ろ。俺は牛や鶏の世話で朝が早いんだ」
「そういえば、いつのまにか、こんな時間だったんですね」
久下もあわてて立ち上がる。
「でも、まだ久下さんの話も、肝心の統馬の話も聞いてないぜ」
「続きは明日の夜ということにしましょう。孝子さんも龍二くんも、もう一晩泊まっていけるんでしょう」
「もちろんよ」
「それじゃ、客間にふとんを敷きますね」
詩乃が手早く湯のみやコップを片付けながら、言った。
「それくらい自分でしますよ。それより、東京のおいしいパンを買ってきたの」
「うわあ。うれしい。じゃあ明日の朝はパンとコーヒーにしましょうね」
「龍二は、わたしたちといっしょに来い」
草薙は、ちょちょいと尻尾を振った。「まだ聞き足りないようじゃから、夜通し話してやるわい。おまえの知りたそうな話を」
「あはっ。そりゃ楽しみだ」
夜叉追いたちの夜話会はひとまずお開きとなり、それぞれの自室に引き取った。
だが、彼らが再びいろりばたに集まるまでには、またいろいろと椿事が起こることになる。
(四話終 ―― 五話「こくいん」へ続く)
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