「満賢の魔鏡」 序の巻(1)                              top | home




 「久下心霊調査事務所」

 この派手でおどろおどろしい手書きの看板の前で、いったん立ち止まり、「果たしてここに入ってだいじょうぶか」と思案しない人はいない。
 本当の悩みを持った人だけが、この威圧感に耐えて覚悟を決め、ドアをノックする。そういう意味では、訪れる人々をふるいにかける役目を、この看板は果たしているのだ。
 もちろん、なんの逡巡もなく、ノックもせず、平気で扉をくぐる人々もいる。それはほぼ100%、この事務所の関係者であると言ってよい。
 ある休日、扉を開けた男もそのひとりだ。
 馬のしっぽのように髪をうしろでしばり、眠そうな目をした二十代半ばの若い男。
 名を、矢萩龍二やはぎりゅうじ。大手鉄鋼メーカーの研究開発部門に勤めながら、この事務所に所属している夜叉追いのひとりである。
 「夜叉追い」とは、読んで字のごとく、夜叉を追い、捕らえ、調伏ちょうぶくするという仕事を生業なりわいとしている集団だ。このことからしても、この「久下心霊調査事務所」がいかに一般の人々からかけ離れた場所であるかがわかるだろう。
 彼は事務所の中に入るなり、顔をしかめた。「しまった。来るんじゃなかった」という後悔の表情だ。
 事務所のソファには、二十歳ほどの男が長々と寝そべっていた。
 名は、矢上統馬やがみとうま。やはりこの事務所に所属する夜叉追い。彼はこの男が大の苦手なのだ。
 事務所に他の人間の気配がないことを確かめて、そっと出て行こうとすると、
「用があったから来たのだろう」
 いきなり、相手が声を出した。さっきまで泥のように寝入っていたはずなのに、さすがに人間ばなれした五感を持っている。実際に彼には人間でなかった過去があるわけなのだが、そのあたりの経緯については、別の巻に譲ろう。
 統馬はすぐさま起き上がると、鋭利な視線をよこした。
「ずいぶん長いあいだ、ここに顔を出さなかったな。二ヶ月近くか」
「ああ、ちょっと忙しくてな。ええと、久下くげさんは?」
「出かけている」
草薙くさなぎは?」
「久下といっしょだ」
「じゃあ」
 と尋ねかけて、くっと言葉を飲み込んだ。
詩乃しのは、夕餉の支度で家に戻っている」
 統馬は、龍二のこわばった顔に気づいて言った。「呼んでほしいのか」
「いや」
 龍二は即座に首を振った。
 詩乃は、一年半前に統馬と結婚した女性だ。そして龍二にとっては、おのれの歪んだ愛ゆえに身も心も傷つけたことがある女性でもあった。
「いや。さすがに今日の用事だけは、詩乃ちゃんには聞かせたくない」
 龍二は覚悟を決めて、統馬の真向かいにどっかと座り、彼を見つめた。
「統馬。あんたに相談したいことがある」
「ほかの者でなく、俺でいいのか?」
「ああ、考えたら、あんたが一番、相談役には適任なのかもしれない。ただひとり、鏡の力を骨の髄まで味わったことのある奴だからな」
「鏡?」
「これを見てほしい」
 龍二は、持っていたカバンの中から、紫の袱紗ふくさに包まれたものを取り出した。
 中から出てきたのは、円形をした銅鏡だった。
 銅鏡とは、古代中国に起源を持つ銅製の鏡である。姿を写すという実用の目的以外に、宗教的な祭祀用具として用いられ、日本では三種の神器の一として信仰の対象ともなった。
 龍二が示したのは、直径が十五センチほどのやや小振りの鏡だった。テーブルの上で鏡面を伏せると、細かな装飾のある背面が現れた。
 緑青が浮き出た円盤の中央には「にゅう」と呼ばれる小さな突起があり、その周りに文様がほどこされている。
 よく見ていくと、文様の合間に四つの意味不明の文字があり、さらにその周囲をぐるりと取り囲むように、篆書てんしょという古書体で銘文が彫られている。
 統馬は鏡を手に取ると、その銘文に見入った。
「何が書いてあるか、あんた読めるか?」
「ああ」
 無表情にうなずく。「『此処に入りて、人、夜叉となるを自ら選ぶ』、だ」
「夜叉となることを自分から選ぶ、か」
 龍二は、口の中で呟いた。「まさにそのとおりだ」
 統馬は、鏡を裏返してなおも調べようとした。
「おい、待て」
 龍二はあわてた調子で言った。
「ひとつ注意しておく。鏡をながめるだけならいい。だが、間違っても絶対に鏡の『中を』のぞきこむな。吸い込まれたくなかったらな」
 それを聞いた統馬の表情が、険しく変化した。
「まさか、これは――」
 龍二は、うなずいた。
「そう、満賢の魔鏡だ」


 満賢は、夜叉追いたちの最強の敵「夜叉八将」のひとりだった。
 副将の地位にあった狡猾な夜叉だ。魔鏡という法具の使い手で、以前、統馬は彼の罠にはまって、かつて滅びた自分の村の写し絵の中に閉じ込められる、という経験をしたことがある。
 しかし、その満賢は四年半前に、統馬の手によってすでに滅ぼされている。
「なぜ今頃、これがおまえのもとに?」
「このあいだ、久しぶりに愛媛の実家に帰省したんだ。押入れを整理していたら、その中にこいつが入っていた。だが家族の誰ひとり、おふくろでさえ、こんな鏡は見た覚えがないという」
 龍二は記憶を呼び起こそうというように、額のあたりを親指でコツコツ叩いている。
「たぶん、これを渡されたのは、俺があんたの兄の誠太郎に憑かれて体を乗っ取られていたときなんだろう。満賢はおまえとの戦いに際して、何重にも罠を仕掛けていやがったからな。そのひとつが、たまたま使われずに残っていた。――だが、今になってこの鏡が現れたのは、決して偶然なんかじゃないという気もする」
 そして、いかにも悔しげに唇を噛む。
「満賢の呪いは、その死後も俺たちの隙をうかがっていた。そして、もっとも油断しているときを狙って発動したんだ。俺は、まんまとそれに引っかかってしまった」
 その口調から、統馬は彼の言おうとしていることを察した。
「龍二。おまえは、もう鏡を覗いたのか」
「ああ。――覗いた」
「この中に入ってきたというんだな」
「ああ」
 ふたりは向かい合いながら、テーブルの上に置かれた鏡をふたたび見つめる。
「頭ではわかっていたよ。満賢の魔鏡の中では、自分の願うとおりに自在に歴史を動かすことができる。自分が一番変えたいと願う過去に遡り、人生をやり直すことができるって。けど」
 龍二は深い溜め息をついた。
「実際に自分がその立場に立ってみてわかった。すべてが面白いくらい自分の思い通りになる。我を忘れて夢中になったよ。自分が進むべき道がおのずと拓けていくんだからな。そのことは、あんたが一番よく知ってるだろう」
 統馬は、さながら石になったように返事もしない。
「ちゃんと順を追って話そう。俺はこれを押入れから見つけたとき、うっかりと覗き込んでしまった。いや、鏡に魅入られたと言ったほうが正確かもしれない。そのまま、畳の上に突っ伏すようにして二時間は倒れていたらしい。晩飯だと呼ばれて、親父に蹴られても、起きなかったそうだ」
 龍二はソファの背に体を預けて、目を閉じた。
「鏡の中で、俺は三ヶ月前の過去に遡っていた。四月にあんたといっしょにH県に出張したときだ。あのときのことを覚えているか」
 やはり、統馬は押し黙っている。
「ふたりで、ある女に憑いた夜叉を祓ったよな。ただの下級夜叉だと思っていたら、意外とけっこう上位の夜叉で、肝を冷やした。俺は、あの港の暗い倉庫の中にもう一度立っていた。
(あれ、不思議だな。またここに来たのか)
……そんな感覚だった。
あんたの後ろに立って、援護のための結界を張るのが、俺の役目だった。だが、鏡の中の俺には、そのときひとつの考えが浮かんだ。

 コイツサエ イナケレバ。

 まるで、体の中にちょうどいい寸法の箱があって、その中にすとんとはまり込むように、その考えはぴったりと馴染んだ。ああ、俺は本当はこれを望んでいたのだと。どす黒い喜びが湧き上がって、全身を満たした。ふと気づくと、額が妙にむずがゆい。と思ったら、額の皮膚をメリメリと突き破って、角が飛び出してきた。口からは、牙も伸びてきた」
 龍二は薄目を開けて、暗い笑いをこぼした。
「あんたは、背後から俺に襲われるなどとは、はなから考えていなかったんだろうな。それだけ俺を信頼してくれてたということか。あっけない最期だったよ。人間というのは、こうも脆いものだったんだ。
『あんたはずっと夜叉のままでいるべきだった。そうすれば、力を失い、惨めに死ぬこともなかったのに』
俺はあんたの死体を見下ろしながら、そう言って大笑いしてやったよ」
 そこまで聞くと、統馬はぎりと奥歯を噛み、そばにあった霊剣・天叢雲の柄を手でさぐった。
「落ち着けよ。今ここにいる俺はもう夜叉じゃない」
 そう言ったときの龍二の笑顔には、もはや何の邪気もなかった。
「だからこそ、この事務所に来たんだ。そうだろ?」
「……なるほど」
 統馬はまだ探るように相手から目を離さずに、ゆっくりと全身から力を抜いた。
「それで、どうなった」
「言っても殴らないでくれよ」
 龍二は苦い丸薬を口に含んだような顔で、続けた。
「あんたが敵の夜叉に殺されたという作り話を、久下さんも草薙も疑わなかった。俺は何食わぬ顔をして、葬儀を手伝った。盛大な葬式でな。高校の同級生だったって奴らがたくさん来てた」
 統馬は、ずっと沈黙している。自分が殺されたなどという話を聞いて、気持のよい者はいない。
「詩乃ちゃんは、あんたを亡くして本当に悲しんでいたよ」
 詩乃の名を聞くと、いっそう不機嫌な表情に変わる。
「毎日ぼう然として、生きる気力も失ったようだった。もちろん俺はあらゆる手を尽くして彼女を慰めた。毒のように甘いことばを囁き、心を少しずつマヒさせて、優しく愛撫し、そして――」
「もういい」
 統馬はついに、堪忍袋の緒を切らしてソファから立ち上がった。詩乃に関することになると、この男の辞書には忍耐という文字はない。
「もう、いい。結論だけを言え」
 龍二は、ほうっと吐息をつきながら肩を丸めた。
「結論か。まあ、要するに、すき焼きの匂いで俺は目を覚ましたわけだ」
「なんだと?」
「すき焼き。愛媛の伊予牛はけっこう美味いんだぜ。俺が座敷で眠りこけてると思った家族は、さっさと隣の部屋で、夕飯のすき焼きを始めちまったわけだ。俺は鏡の中でその肉の匂いをかいで、正気を取り戻した」
「……」
 統馬は脱力したらしく、ゆっくりと腰を下ろした。
「呆れちまうくらい、現金な話さ。鏡の中で、俺は夜叉の力を使って思う存分おのれの欲望を満たしながら、頭のどこかで思っていた。これはどこかが間違ってるかも、ってな」
 妖力を使って自分のものにしても、いつもどこか悲しい表情をしていた詩乃。彼女が笑うためなら、統馬に生きていてほしいと心から思った。
 もちろん、そんなことは口が裂けても、この男の前で言うつもりはないが。
「そう考え始めたとき、すき焼きの匂いがしてきた。そのとき、やっと気づいたんだ。これは本当の世界じゃない。この世界は間違っている。現実は別にある。俺はそこに戻らねば。戻りたいと」
 肩をすくめると、龍二は長い話を結んだ。
「目を開けると、俺は畳の上に寝転んでいて、……そばに、この魔鏡がころがっていたというわけさ」
 



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