第一話 闇に潜むもの (1)
top | home さびしい……。 いとしい……。 にくい……。 いつから聞こえるようになったのか。 からだの内側から湧き出す、この遠い潮騒のような叫びは。 「何の用だ。弓月」 彼はいきなり、振り返りもせずに訊ねた。 詩乃はびくりと立ち止まる。この学校のものではない黒い制服の背中は、終礼後の廊下の喧騒を堰きとめて、近寄る者を完全に拒絶している。 「あ、あの矢上くん」 できるだけ快活な声を上げて。 「修学旅行の申込みを出してほしいって、担任の先生が。今度の月曜で締め切りなの」 「修学旅行?」 ようやく矢上統馬の一重で切れ上がった目が、詩乃のほうをちらりと見た。 「十月に京都・奈良に行くの。あ、ただ私たちはみんな1年のときから積み立てをしていたんだけど、矢上くんは転校してきたばかりだから、このプリントに書いてあるとおりに差額を払いこんでもらわないといけないの。その支払いは七月末まででよくって……」 「行かない」 「え?」 「俺は行かない。十月はここには多分いない」 「そんな。こないだ転校してきたばかりなのに?」 「とにかく、そういうことだから」 にべもない拒絶に、詩乃の胸に堪え切れない痛みが広がった。 「あ、待って!」 「何だ」 「もし……、おうちの事情があるのなら、PTAのほうで旅費の補助が出してもらえることになってるんだよ」 「余計なおせっかいだ」 抑揚のない声がひときわ、重さと冷たさを増した。 「それが委員長の仕事というものか。俺は行かないと言っている」 「ご、ごめんなさい。嫌な思いさせたのならあやまる!」 ぴょこんと頭を下げると、ちょうどそのとき助け舟のように、廊下の向こうから同級生たちの声がした。 「詩乃〜。来て、来て!」 「大変なの。はやくぅ」 ほっとした心地でそちらに大きな返事をしようとすると、 「おまえの名は、『しの』というのか?」 にわかに色をなした気配。 驚いて振り向くと、凛とした冬夜のごとき双眸がまっすぐに彼女にそそがれていた。 しかし、それもわずかな間。 「すまん。なんでもない」 彼はすぐに無表情に戻って、体をこわばらせている詩乃を残し立ち去った。 校門を出たところで、携帯を取り出す。 「俺だ」 しばしの沈黙。 「それはまだわからぬ。もう少し探ってみる。だが、事態はこの町全体に及んでいるような気がする。根拠はない。なんとなくだ。 ……わかった」 初夏らしからぬ冷風が、鮮やかな青葉を揺らして吹きすぎる。影をつなぎとめられたように、統馬はしばしその色に見入った。 「しの……」 おまえまで、俺を裏切るか、信野。 軽いため息を吐き、彼は手に持っていた丈の長い袋を肩に背負いなおした。 詩乃が薄暗い家に帰ると真っ先にすることは、居間のテレビをつけることだ。あふれだす音と光が闇を追い払ってくれるから。 それからどっとソファに座り込んで、小さな手足を伸ばし、大きなあくびをした。 今日もいろいろあった。 クラスメイトが急に貧血で倒れ、保健室まで運んであげ、彼女の代わりの掃除当番も引き受けた。それからお決まりの、職員室での雑務。矢上が修学旅行に不参加との報告にも、担任教師は気のなさそうに「ふーん」と答えただけだった。 矢上統馬は、不思議な気配を漂わす転校生だった。人を怖じさせるオーラとでも言うのか。 たぐいまれなその容貌で、学校中の話題をさらったのはつかのま。誰も彼のそばに寄ることのできる者はいなかった。 2週間経った今でも、クラスで誰かとしゃべっているのを見たことがない。部活に入っている様子もない。こんな調子では、班ごとに行動する修学旅行も苦痛なだけなのだろう。 詩乃は委員長として、そんな彼を見るたびに気をもんでいた。 早くクラスに溶け込まないと、夏休みが来てしまう。 このところ、高校に来なくなる生徒が急に増えている。非行。イジメに端を発する登校拒否。怠学。詩乃のクラスにも、もう2人いる。 詩乃は、携帯をスカートのポケットから取り出すと、キーを押した。 「あ、朋美。ごめん、忙しかった? うん。朋美さ、矢上くんのこと、みんなでよく話してたでしょ? だから何か彼のこと知らないかと思って。 う、うん。用事で今日少ししゃべったんだけど……。なんだか彼、不思議な人よねえ……。 あ、そうなんだ。そうだよね。……そりゃそうだよね。 変なこと相談してごめん。……じゃあ、また明日」 携帯を置いて、しばらくぼんやりと過ごしていると、窓の外からせかすような夕闇が忍び入る。 彼女は制服を着替え、台所に立った。スーパーで買ってきたばかりの食材を手際よく並べ、やがて、ことこととリズミカルな音が部屋に満ちた。 夕食のしたくが整うと、テレビの画面をぼんやり眺めながらテーブルに頬杖をつき、ときどき携帯に手を伸ばした。矢上統馬についての情報を求めるメールを級友に打って返信を待つ。次のメールを打っては、また頬杖をつく。 そういえば、数Uの宿題があったんだ。ちゃんと間違わないようにやっていかないと、またみんなが当てにして、写しに来るもの。 でも、疲れた……。 1時間。2時間。 いつのまにか突っ伏していた詩乃は、玄関の待ちわびていた人の気配に跳ね起きた。 「おかえり、お母さん」 「詩乃ちゃん、ただいま。あー、お母さん今日食べてきちゃった」 「えーっ。また? 食べてくるんだったら、連絡入れてって言ってるじゃん」 「ごめん、急に得意先の接待に行ってくれって命令だったのよ。ほんとにごめんねぇ」 居間に戻り、テーブルの上に並んでいた大小3人分の茶碗を見下ろした。 「お父さん、今晩も遅いのかな」 「さあ、そうなんじゃない」 「また、誰も食べないのに作りすぎちゃったよ……」 「お母さん、詩乃ちゃんみたいな賢くていい娘をもって、ほんと助かってるわ」 大げさに抱きついてくる母親のきつい化粧と酒のにおいが、空腹に耐えかねた胃を悪寒で満たす。 「わかった、わかった。お世辞はいいからお風呂に入ってきて。私急いで食べて片付けちゃうから」 「よろしくね」 手をひらひらさせて2階に上がってしまった母の後姿に、 「まったく、どっちが子どもかわかりゃしない」 誰にも聞かれず、半分語尾の消えたことばを口の中でころがして、詩乃は微笑みながらひとりで食卓についた。 夕焼けに染まる誰もいない教室の中でひとり、詩乃は日誌のチェックを行っていた。 いつものように、日直がサボってほとんど何も書いていない紙面を、丁寧な文字できちっと埋めていく。 カタリ。 どこかの教室で誰かが物を落としたのだろうか。それとも創立三十年の市立T高校の、古い校舎のきしみだろうか。 こうしていると、1ヶ月前に男子生徒が屋上から飛び降りたことを思い出して、みぞおちがきゅんと縮まる思いがした。 1年生。面識はない。でも何かできなかったのだろうか。 誰かが死ぬ前にひとこと声をかけていたら。 入学したばかりで寂しかったのだろうか。そのことを考えるといたたまれなくなる。 さびしい。 いとしい。 にくい。 こうしてひとりで座っていると、空気がたわみ、何かが聞こえてくるような錯覚におちいることがある。 誰かが必死に訴えかけてくる声が。 突然、講壇に近い方のドアががらがらと開いた。 「詩乃、すぐに来てっ」 「どうしたの?」 三人の女生徒が駆け込んできた。ひとりはきのうも真っ先に電話した、一番仲のよい朋美だ。 「それが、なんか変なの。体育館の倉庫で物音がする」 「え?」 「中に何かいるみたいな気配がしてる」 「開けてみた?」 「鍵がかかってるんだもん」 「もしかすると、イジメとかで誰か閉じ込められてるのかもしれないよ」 三人はもじもじと、不安げに顔を見合わせる。 「詩乃、いっしょに行って確かめてくれない」 「わかった、職員室の先生にもついてきてもらおう」 せわしく日誌を閉じて立ち上がると、ひとりが制した。 「あ。職員室には私が行ってくるから、詩乃は先に行ってて」 体育館の裏手は死角になっていて、野球部が後片付けをしているグラウンドからの照明も届かない。塀の外にはどぶ川が流れ、周辺はふだんから人通りの少ない住宅地だ。 「もしもし、誰かそこにいるの?」 用具入れの鉄の扉をどんどんと叩いたが、返事はない。 「何も聞こえないよ」 「さっきは聞こえたんだよ」 隙間からのぞいてみようとした。ふたりは、詩乃のうしろに隠れるように、気味悪げに見つめている。 「鍵借りてきたよ。先生はすぐ来るって」 ばたばたと駆けてきた級友が、南京錠を開けてかんぬきをはずすと、がらがらと甲高い音を立てて扉をスライドさせた。 中は暗く、何も見えない。 「詩乃、行って」 3人は、当然詩乃が先立つものとばかりに、動こうとしない。 「だれか、いる……?」 しかたなく、そう呼びかけながら中に一歩踏み出したとたん、背中にどんという衝撃が走り、バランスを崩してつんのめった。 床に倒れこんだ詩乃のうしろで、鉄の悲鳴。そして鍵のかちりとかかる音。 そして、楽しそうな女生徒たちの笑い声。 「かーんたんにひっかかるんだねェ」 「朋美? どうしたの、いったい。理恵? ユキ? 」 「ばっかじゃねえ? まだわかんないの?」 「楽しい肝試しごっこだよ。その倉庫、幽霊が出るって噂、知らない?」 「知らないよねェ。どのグループからもハブられてるから」 「2年D組の委員長として、自分の身をもってちゃんと確かめて、みんなを安心させてほしいわけよ」 「一晩オバケといっしょで、ちびらないでね〜」 狂気のような哄笑。 何が起きているのか、わからない。 「……どうして……、どうして?」 外界とを無情に隔てる扉にしがみつきながら、詩乃はかすれた声で叫んだ。 友だちなのに。 「あんた、うざいんだよっ。みんなで仲良くしようよなんて、その優等生ヅラ!」 「宿題写させてあげるって男に色目使いやがって、コンタン見え見えなんだよ」 「挙句に毎日うざいメールよこして。クラス中の女子が迷惑してんのがわかんねえのか!」 「さ、鍵を返して帰ろ。わかってると思うけど、先生は来ないからね」 含み笑いと遠ざかる足音。 詩乃は、ドアによりかかりながら崩れ落ちた。 友だちなのに。 いいえ、 友だちだと思ってたのは、 私だけだった。 私はただ、委員長に祭り上げられて、毎日ひとりでクラスの雑用を引き受けて。 みんなの世話を焼いているつもりで、厄介事ばかり押し付けられて。 みんなと仲良くしているつもりが、誰からも必要とされなくて。 わなわなと全身を震わしながらも立ち上がろうとしたその拍子に、スカートのポケットに入っていた固いものが太腿に触った。 携帯。 やった。神さま。カバンに入れておかなくてよかった。 手探りでキーを押すと、暗がりに小さな四角の救いの窓が輝く。 これで助けを呼べる。 ほっとしたのもつかのま、ふと指が止まった。 誰を。 携帯には、クラス全員分の名簿が入っている。 でも、彼らからの着信はない。毎晩メールを打ち続けても、返事はほとんどない。 ずっと影で笑われていたんだ、みんなから。 誰に電話しても助けにきてなんかくれない。今だってみんなで笑っているに決まってる。 そうだ、お父さんとお母さんは。 ううん、ふたりとも夜遅くまで、家に帰ってなんかこない。 どうせ、それぞれの浮気相手と過ごしているのだから。 先生は。警察は。 いやだ。こんなみじめな私をみんなに知られたくない。 詩乃は両手でこめかみのあたりをかきむしり、悲鳴をもらした。 「誰かああぁっ。誰か助けてぇ!」 私には、助けを呼べる人が誰もいない。 誰も。 さびしい。 いとしい。 にくい。 体のどこかに 何かが穴を開ける。 突然、どこかでガタリという音がした。 背中のうしろ。体育倉庫の奥。誰もいないはずなのに。 何かがすぐそばにいた。腐りかけた、おぞましいものの気配がする。 恐怖のあまり狂いかけた遠近感。 突然するすると開き始めた鉄の扉が、眼の前なのにとても遠くに感じる。 膝で地面を擦るようにして外に飛び出て、真っ先に手に触れた暖かさにしがみついた。 顔を上げると涙でにじんだ視界の中、糸のように細い月を背に、矢上統馬の黒い瞳が静かに彼女を見下ろしていた。 その右手から、粉々に砕けた南京錠のかけらが、音もなく地面に落ちた。 next | top | home Copyright (c) 2004 BUTAPENN. |