第十話  命恋うるもの(4)                   back |  top | home




 庁舎を飛び出した久下を、ふたたび漆黒の夜が包んだ。月はすでに西の空低く、うっすらと銀に縁どられた雲の後ろに隠れている。
 国会議事堂の屋根に目を凝らしても、半遮羅と宝賢の姿は見えなかった。
 だが、前庭に駆け寄ったとき、詩乃と龍二の強ばった顔をひとめ見て、戦況を知ることができた。
「久下さん……」
 詩乃は涙でぐしょぐしょになった顔で久下を見上げると、ぷっつりと緊張の糸が切れたかのように崩れこんだ。
「詩乃さん!」
 久下は、あわてて彼女を抱きかかえ、ゆっくりと芝生の上に座らせると、詰問した。「ふたりは! どこなんです」
「議事堂の向こう側に降りた。たった今、戦いの場所を移したところだ」
 押し殺した声で、龍二が答えた。
「でも、もう……ダメかもしれない」
「なんですって」
「半遮羅は完全に押されてる。繰り出す剣のことごとくが通じない。敵が強すぎる」
「……どんな様子ですか、統馬は」
「あきらめてはいないと思う。でも、限界は……とっくに超えてるはずだ」
 龍二は泣くのをこらえるように、蒼白に震える唇をきゅっと結んだ。
「では、僕たちもあきらめてはなりません」
 幾多の死地をくぐり抜けてきた久下は、若者たちのように容易には目の前の状況に屈しなかった。
「行きましょう。ともに戦うことはできなくとも、僕たちには最後まで見届ける義務があるのですから」


 日枝(ひえ)神社に祀られているのは、古くは江戸郷の守護神・山王神、江戸時代には徳川歴朝の産神とされ、今も東都鎮護の社と呼ばれている。
 国会議事堂の真裏に位置し、高層ビルに囲まれた高台に社殿はある。
 都を埋めつくすアスファルトとコンクリートの覆いのただ中で、鎮守の森の放つ静かな生気と、諸霊の念に浸された場所。その社殿前の広い境内に、ふたりの夜叉は相対していた。
 闇に慣れた目でも、遠くから両者を見分けることは困難だったろう。なぜなら、一方の夜叉はその白緑の髪を、今や自らの血で、相手と同じ紅色に染めていたからだ。
 生半可な治癒力では追いつかないほど、その傷は大きく、深かった。胸から腹にかけて数箇所を斬られ、左の太ももにも、身体を支えるに支障のあるほどの傷を負っている。その脚のけいれんを押さえ込みながら、半遮羅は抜き身の剣をだらりと下げて、空気を求めてあえいでいた。
 勝負を分けるほどの致命的な一撃というものを、受けた覚えはない。しかし、宝賢は半遮羅の全身の力を、巧妙に削ぐ戦法に出ていた。
 渡り合うたびに、相手にも傷を負わせるが、こちらはその倍も深手を受けている。それは例えるならば、猛禽が爪の下の小動物を、少しずつ突つき殺すような、そんないたぶり方。
 横たわる壁は、決定的だった。
「勝てぬかもしれんな」
 あきらめでも絶望でもなく、ただ淡々と事実を認める口調で半遮羅はつぶやいた。
 これほどまでに一方的に追いつめられているのには、それなりの理由がある。
 彼の唱える金剛夜叉明王の真言が、宝賢にはまったく効かないのだ。そして宝賢自らも、真言を唱えない。もし真言陀羅尼の法力をまったく寄せつけないとすれば、宝賢はすでに、天の加護を受けずにおのれひとりに依って立つ、神仏に近い存在になっているのかもしれない。そうなれば、もう打つ手はない。
(おまえとあろうものが、もう敗北宣言か。ヤキが回ったのう)
 と、からかう草薙の念話からも、やはり極度の衰弱が隠せない。今の半遮羅には、宝賢の斬り込みを避けて流す余裕がない。真っ向から刀で受け止めるために、天叢雲の刀背(みね)には深々とした傷痕がいくつも残っていた。
(おまえが負けてどうなる。この国は、宝賢の手により滅ぼされてしまうのじゃぞ)
「いちどきに冥土の住人が増えて、閻魔天が腰を抜かすだろうな」
(その中には、詩乃どのもおられような)
 詩乃の名を聞いたとたん、半遮羅の顔に苦痛がよぎった。
 敗けを認めてしまえば、楽になる。だが守りたい者たちの顔が浮かぶとき、それは石にかじりついてでも、してはならない選択だった。
(すまぬな。わたしが不甲斐ないばかりに)
 刀の目釘が緩んでいるのか、草薙が話すごとに鍔がカタカタと鳴る。
「おまえこそ、妙に殊勝な物言いだな」
(わたしが影打ちなどでなければ、こんな苦しい戦いはせずともすんだのに。矢上家の滅亡は、元はといえばわたしの至らなさが最大の原因だったかもしれぬ。いや、刀の鍔のくせに、あることないことベラベラしゃべるわたしが、一番問題ありじゃ)
「くくっ」
 半遮羅は楽しげに、白色の瞳を細めた。
「おまえのお喋りをさんざん聞かされた百五十年、悪くはなかったぞ」
(言うことが早々と、辞世じみておるな)
「そろそろ行くか。待たせても悪い」
 半遮羅が息を整える間、宝賢は刀を鞘に戻していた。絶対の自信の現われか。
「まだ諦めておらぬのか」
 宝賢は、喉を鳴らして笑った。
「そこまでして苦痛をおして、なぜ戦う。おまえには、それほどまでの生きる価値などないだろうに」
「ひとつ聞きたいことがある」
 半遮羅は脚の痛みを押して、すっくと仁王立ちになった。
「答えられることであれば」
「俺を斃して、毘沙門天の力をすべて手に入れたあとは、何とする」
 驚いたことに宝賢はしばし、じっと思案しているような素振りを見せた。
「そうさな。まずは配下の夜叉を全土に遣わし、国中に戦乱を起こす。それが終われば異国にも攻め入ろう。もう狩り場の掟にしばられることはないゆえ」
「人間をこの世からすべて滅ぼし尽くすつもりなのか」
「木の実をかじる害虫はつぶさねばならんだろう?」
「それが毘沙門天の心に反するとしてもか」
「御心に反すること、してはいない。ただ、あの方には迷いがあるのだ。わたしがそれを、きっぱりと捨ててさしあげるまでのこと」
「満賢の言ったとおりだったな。毘沙門天を裏切ったのは、最初からおまえだった」
「そうではない。天界も、とうの昔にわかっているのだ。人間は害悪だ、早晩滅ぼさねばならぬと。ただ、公にそれを口に出せぬだけ。心中、彼らは無私の剣を求めていた。俺はその剣となることを買って出た。
御仏はさぞ喜ばれたことだろう。そうでなければ、なぜ俺はここに立っていられるのだ? 人間を滅ぼすという俺の企みがわかっていながら、御仏は人間を救おうとも導こうともせず、なぜ手をこまねいて見ておられるのだ?」
 半遮羅は深く長く息を吸った。
「もうひとつだけ聞かせてくれ。誠太郎を操り、あそこまで策を弄して、俺を八番目の将として選んだのはなぜだ?」
「はて。よくは覚えておらぬ。ただ似ていたのだろうな。数百年におよぶ矢上の血筋の中で、俺の子に一番似ていたのがおまえだったよ。俺がみずからの手でくびり殺した、俺の長子にな」
 宝賢は、父が息子をいたわるときの優しい笑顔を見せる。
「愛しいものこそ、早く殺さねばならぬ。取り返しのつかぬ罪業に身を染める前に、醜悪な芽をつみとらねば。だから、俺はおまえを選んだ。俺を助けて人の世を滅ぼすという重要な役目をおまえに与え、俺の手で殺してやるという、最善の道を与えてやったのだよ」
「宝賢」
 怒りとはおよそ切り離された、むなしく冷え冷えと静かなものを胸に抱きながら、半遮羅は答えた。
「それならば、俺はおまえを止めねばならぬ」
「やってみるがよい」
 宝賢は鞘を払った。
 刀身を右側に立てた八双の構えは、矢上家代々に受け継がれた流儀。兄の誠太郎も手合わせのとき、いつもこの構えを取っていた。
「その二人が結託して、矢上を潰したのだから皮肉だな」
 半遮羅は敢えて真逆の方向に、地ずりに構える。
 じりじりと間合いを詰めようとする半遮羅に対して、宝賢はまったく動じない。
 折りしも、沈もうとする月の最後の光が雲間より射し込む。その朧な光が境内の木々に、薄い影を投げかけた。その影に同化するようにして、半遮羅が低く疾走した。
 次の瞬間、宝賢の懐に飛び込み、斜めに擦り上げる。しかし待ち受けていた宝賢は、その刃をかわして、突く。
 切先をかろうじて避け、半遮羅は後ろに跳んだ。間髪を入れず上段に振り上げ、斬り下ろすが、宝賢も手首を返して薙ぎ払う。
 二体の夜叉の影は、あたかも海岸の岩に砕ける波のように、寄せては引き、引いては押し、からまり、もつれ合った。
 日枝神社の境内をようやく探し当てて駆けつけた久下、詩乃、龍二の三人は、息をすることも忘れてその戦いに見入った。
「統馬くん……」
 呼びかけたい衝動を、詩乃はかろうじて抑えた。邪魔になってはいけない。一瞬でも彼の気を逸らせてはならない。口に当てた拳を噛みしめて、ぼろぼろと涙をこぼしながら、ただひたすら堪(こら)える。
 悠久の時を越えた戦いを前に、人間には為すすべない。ただ愛する者のどんな苦境も、目を閉じずに見守ることが唯一、詩乃に許されたこと。
 一時間、二時間と経っても刀の打ち合わさる音は止まない。影の乱舞は永遠に続くかに思われた。
 だが、膠着した戦いの均衡が破れるのは、ささいな切っ掛けがあればよい。
 夜明けを待ちかねたカワセミの、甲高く鳴きたてる音に集中力を乱されたのか。明け始めた東の空からにじみ出した、あいまいな光に視界を惑わされたか。極限の疲労に達し、全身にあふれでる汗が手の握りを甘くしたのか。それとも、毛の先ほどの焦りか。
 踏み込んで打ち下ろした半遮羅の斬撃を、宝賢は自らの刀で円弧を描くように巻き込み、全身の体重をかけてのしかかった。
 境内の敷石に剣先を打ちつけそうになり、そうはさせまいと引き戻す白の夜叉の動きを読んだかのように、紅の夜叉は瞬時に突き放した。
 反動で浮き上がった刀の腹を、次の瞬間宝賢の刀は横から叩きつけるように当てた。
 晴天に雷が落ちたかと思われるような鋭い音が、境内に鳴り響く。
 それは、半遮羅の持つ天叢雲が、ぽっきりと折れた音だった。まるで霧が立ち昇るように、あたりに血と汗のしぶきが散った。それはまるで、刀の流す涙に見えた。
 衝撃をこらえきれず、片膝を地面についた半遮羅に、最後の打突が襲いかかった。


 矢のように放たれた曙光に、その残酷な光景はあまりにも鮮やかに映し出された。
 宝賢の刃は、半遮羅の喉笛をやすやすと刺し貫き、その切先をうなじまで届かせていた。


 


                   
next | top | home
Copyright (c) 2004-2006 BUTAPENN.