第一話 闇に潜むもの (6)                   back |  top | home




 窓の外で垂直に降り注ぐ日光が、どこをどう反射したか、しみの浮き出た天井だけをゆらゆらと照らし出している。
 統馬は布団の中からずっとその様を見上げていた。
 トントン。
 古いアパートの扉のはめこみのすりガラスは、軽いノックにさえミシミシと揺れた。
 大儀そうに起き上がり、開けてやる。
「おはよう! と言っても、もうお昼過ぎてるけど」
 大きなビニール袋を両手に抱えた詩乃が、廊下でにっこり笑っていた。
「怪我の具合はどう?」
「……何しに来た?」
「おかゆ作ってあげようと思って」
 詩乃はかまわず、すたすたと上がりこんだ。
 暗い六畳ひと間の中央には、煮しめたような色をした薄い布団が敷いてある。あとは何もない。
「矢上くんちには、鍋ひとつないってナギちゃんが言うから、ちゃんと一式持ってきたわよ」
 入り口わきの台所は、確かに埃がかぶっていた。前の住民が残していったと思われるおそろしく汚れたガスレンジが隅にあるだけ。
「ナギちゃん?」
「わたしのことじゃ」
 流し台に置かれたビニール袋の中から小さな白狐が、ぬっと首を出した。
「草薙ではいかにも年寄りくさいと言うので、詩乃どのに改名してもらった。これからはおまえもナギちゃんと呼ぶがいいぞ」
「貴様……いつのまにか姿が見えぬと思ったら」
 統馬は歯噛みをして、睨みつける。
「いったい、何のつもりだ」
「ギャルとおしゃべりするのは、若返るぞ。なあ、詩乃どの」
「うん、夜が明けるまでおしゃべりして、楽しかった。ナギちゃんの瞬間芸も見せてもらったよ。ほら」
 詩乃は白狐を抱き上げると、くるりと自分の首に巻きつけた。
「ギンギツネのえりまき。今の季節はちょっと暑いけどね。きゃはは」
「……」
 統馬は、呆然とことばを失っている。
「それからこれ。今日の朝刊にきのうのことが書いてあるよ」
 広げて差し出した地方欄には、確かに小さく、
『T市路上で、暴走族けんか 12人負傷』
 という見出しが載っている。
「不思議だね。暴走族同士の縄張り争いってことになってるみたい。矢上くんのことは誰も警察に言ってないのかな」
 彼がその記事に見入っているあいだに、詩乃は手早く米の水加減をし、ひとり用の土鍋を火にかける。
「食事っていつも、大根を丸ごとナマでかじるだけなんですって? そんなの身体にいいわけないわ。食べ盛りなんだからもっと精のつくものを食べないと」
「何でもいいから、もう帰れ。迷惑だ」
「帰らない! だって、矢上くんがこんな目に会ったのは私のせいなんだもの」
 詩乃はきっと振り返る。
「私が夜叉に憑かれて、操られて、……あなたをあんな危険な場所に連れ出してしまったんだもの」
「俺はそのことを最初から知っていた。知ったうえでおまえを利用したんだ」
「それでも、夜叉を祓って、私を救ってくれたことには変わりない」
「……勝手にしろ」
 そう口の中でつぶやくと統馬は顔をそむけ、布団の上にどっかと腰をおろした。
 やがて、狭い部屋の中には粥の煮える音がことことと響くだけになった。
「新しい包帯を買ってきた。取り替えるわ」
「必要ない。怪我はなおった」
「そんなはずない。ゆうべはあれほど血が出てたのに」
 布団の上ににじりより、彼の着ているくたびれた浴衣の襟に、背中からおそるおそる手をかけた。統馬は何も言わない。
 左肩に巻いてあったさらしをほどいて、詩乃は驚愕した。さらしを染めている血はもうすっかり乾き、統馬の身体には血の固まりの下に新しい皮膚さえのぞいているではないか。
 ゆうべ、このさらしを巻くときも同じ驚きに襲われた。
 寺の境内では、遠目とは言え肩が変形するほどの大怪我を負ったのが見えたのだ。だが、意識を取り戻した統馬のわきを抱えるようにして、歩いてこのアパートの部屋にたどり着き、脱がせる必要がないほどぼろぼろにちぎれていた学生服を取り払ったとき、信じられないことに肩は元通りになっていた。血さえもほとんど止まりかけていたのだ。
 こんなに早く回復するということがあるのだろうか。それとも大怪我をしたように見えたのは、目の錯覚?
「男の肌がそんなにめずらしいか」
「あ、ご、ごめん」
 我に返った詩乃があわてて手を離すと、統馬は元通りに浴衣を着て、そしてかすかに声を和らげた。
「……すまん。無礼な口をきいた。おまえには、ずいぶん世話をかけたのに」
「ううん」
 詩乃はすりきれた畳の上にぺたんと座った。
「ナギちゃんにいろいろ聞いた。矢上くんは、ずっと子どものころからこんな戦いをしているんだって」
「俺の一族は平安時代から続いていた「夜叉追い」の家系。それがその末裔としての俺に与えられた使命だ」
「これからまた次の夜叉を追って、ほかの土地へ行ってしまうの……?」
 統馬は首を振る。
「婆多祁哩はまだこのあたりにひそんでいる。夜叉は一度「狩り場」と定めた土地から、容易には去らない」
「あいつ、まだ死んでいないの!」
「まだだ。怪我が癒えるまでは大人しくなるだろうが。
ヤツの配下が、この町にたくさん残っている。また性懲りもなく、ここを狙ってくるだろう」
「じゃあ、うちの高校にもまだその影響が出るのね。イジメや非行という形で」
「そうだろうな」
「……それじゃ、矢上くんは転校したり、しないね」
 統馬は一瞬面食らった顔をしたが、小さくうなずいた。
「ああ、まだ校内には調べたいところもあるしな」
「よかった……」
 そう呟いてしまった自分に気づき、はっと口を押さえる。
「ほら、わたしの言ったとおりじゃろう!」
 それまで大人しくしていた草薙が、甲高い声で叫んだ。
「統馬は、どこにも行きはせぬ。詩乃どののことを憎からず想っておるからってな」
 詩乃の頬が、みるみるピンク色に染まった。
「あ、あ、お粥がふきこぼれちゃう。ちょっと見てくるね」
 ぱたぱたと彼女が流し台に向かった隙に、統馬は白狐を睨みつけると、ぐいとその首をつかんで引き寄せた。
『どういうつもりだ。なぜあいつにつきまとう』
 あいだに交わされているのは、念話だ。
『憎からず想っておるのは本当じゃろう。「しの」……いい名前じゃからな』
『たわけたことを』
『彼女も、まんざらではないようだ。こうしてなにくれと世話を焼いてくれるではないか』
『あいつはただ、責任を感じているだけだ。強いと思っていた自分が夜叉に憑かれたことを恥じ、俺にその償いをして、自尊心を満たしたいだけだ』
『それもあるじゃろう。だがそれ以上の気持ちをあの娘御は持っておるぞ。その証拠におまえの心を読んだ。――「矢上くん、苦しそう」とな』
『……考えすぎだ』
『詩乃どのは、稀有な霊力を秘めているとわたしは見た。菩薩の心に阿修羅を隠し持っておる。だからこそ夜叉に憑かれたのじゃろうな。そしてこれからも、いつ狙われるやもしれぬ。
ゆうべ、詩乃どのの家に行き、その理由がわかったのだ。普通、年頃の娘があの時刻に帰ったなら、親はどれほど心配し、咎め、理由を問いただすじゃろう。
だが、詩乃どのの両親は今朝顔を見ても何も言わなんだ。何時に帰ってきたかも知らず、娘に何の関心も愛情もないようじゃった』
『……』
『可哀そうな子なのじゃよ。明るい表情からはわからぬが、死ぬほどの悲しい目に会うておる。だからこそ、おまえの心と通じ合ったのではないか』
『……万が一そうだとしても、俺の正体が知れるまでの話だ』
『なるほど、そうかもしれんが。……だが、そのときまででいい。おまえにあの娘のそばにいてやってほしいのだ。こうして御仏の不思議な縁で、我らの終わりなき戦いに巻き込んでしまったのじゃからな』
「二人でいても、だんまり、なのね」
 詩乃は、盆に土鍋と香の物を入れた小皿を乗せて戻ってきた。
「さあ、熱いから気をつけて食べてね」
 藍色の茶碗に粥をよそって、箸とともに差し出す。
 受け取るときに、指がふれあった。
 統馬が長いあいだ拒んでいた、人のぬくもりが伝わってくる。
「味は、どう?」
「ああ……。美味い」
 詩乃はそれを聞いて、心から満ち足りた様子で微笑んだ。思わず見惚れてしまう、美しい微笑み。
「弓月」
「なに?」
 ことりと空の茶碗を置く。
「修学旅行の申込みは、月曜までだったな」
「ええ」
「俺の分は、まだ間に合うか?」
「え? や、矢上くんも行くの?」
「予定が変わった。この町は夜叉に狙われ続ける。俺のここでの仕事は当分終わりそうにない。それに」
 草薙のほうをちらりと見ながら、付け加えた。
「怖がらせると思い、おまえにまだ言ってなかったことがある」
「な、な、何よ」
「一度夜叉に憑かれた人間は、ふたたび夜叉に狙われやすくなる。匂いがつくと言うのか……そんな感じだ」
「え―っ!」
 詩乃はおかわりを入れようとした茶碗を、畳の上に取り落とした。
「それじゃ、私はまた憑かれちゃうの……?」
「だから、これからしばらくの間、草薙をおまえのもとに置く」
「ナギちゃんを……?」
「こいつなら夜叉除けの結界を張れるし、何かあれば俺を呼ぶこともできる。
ただ、今度行く京都は、古来より夜叉の巣窟のようなところだ。十やそこらの夜叉に取り囲まれ、下手をすれば草薙の結界でも間に合わないということになりかねん」
「ひえ……」
「だから統馬のヤツ、詩乃どのの専属のボディガードになって、四六時中そばで守りたいって言っておるのじゃよ」
 草薙は尻尾をぱたぱた振りながら、口をはさんだ。
「京都らぶらぶ紀行・「恋の炎は大文字」スペシャルじゃ!」
 統馬は、土鍋の中に草薙をぽいと放り込んで、蓋を閉めた。
「あっちいぃぃっ!」
「今の戯れ言は忘れろ。とにかく、そういうことだから」
「う、うん。それじゃ先生に連絡しとく」
 詩乃は、落ちた茶碗を洗いに台所に立った。
 耳たぶが熱くほてっている。彼女に対する統馬のまなざしが、一瞬それほどまでに優しかった。
 でもそれは本当に彼女に向けられたものだろうか。
 あの戦いの場で幾度か「しの」と呼ばれたとき、奇妙な違和感を体のどこかで感じていた。自分ではない。彼は別の人のことを呼んでいるのだと。
 きゅっと胸が苦しくなる。いたたまれなくなる。彼の視線が今、自分の背中の向こうに誰かを見ているかもしれないと思うと、消えてしまいたくなる。


 でもまた、こうも思う。
 それでも、いい。
 別の人のかわりでも、いい。誰かに必要とされていれば。
 いや、誰かではない。矢上統馬のそばにさえいられれば。
 夜叉との戦いの中でしか「しの」と呼ばれないのなら、何度でも彼といっしょに戦場におもむく。


 決意して、錆びた蛇口から勢いよく水を出した。
 体の内側にちろちろと燃え始めたその火が、果たして彼女を光に導くのか、闇に導くのか。
 今の詩乃には、まだわからないことであった。
   



                                   第1話 終



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