第ニ話 光を拒むもの(3)
back | top | home 梅雨明けの青空からは、突き刺すような強い日光。 吸い込むと肺が痛みを覚えるほど熱せられた空気。水に反射し不思議な響きを帯びて届く、プールでの水泳部の掛け声。 統馬は、昼休みにもかかわらず人通りの絶えた中庭に寝ころびながら、全身であたりの気配をさぐっていた。 校内に潜んでいた夜叉は二体とも祓った。それにも関わらず、T高校を蔽う妖気の霧は晴れない。 この学校の中に確かに存在する禍々しいもの。それが何であるか、どこから来るものか、いまだに探り出せないでいる。 そんな彼を邪魔するように、詩乃と草薙がそばで賑やかにおしゃべりに興じていた。 「廊下に数字とともに、詩乃どのの名前が書いてあったのは、何だったのだ?」 「あれは、期末テストの順位よ。各学年の上位十人は、職員室前に貼り出されるの」 「それでは、詩乃どのは学年十位以内ということか。すごいな。そこの、エービーシーもまともに書けぬ阿呆とは大違いじゃな」 阿呆と呼ばれて、不機嫌に寝返りを打つ。 「矢上くんは、テストはどうだった?」 「……いいわけがない。国語以外は全部白紙で出したからな」 「え? そ、それじゃ追試受けたの?」 「どうせ、高校を卒業する気などない。夜叉追いは、真言陀羅尼(しんごんだらに)の文字さえ読めれば、それで十分だ」 「そうなんだ……」 詩乃は拍子抜けしたようにつぶやく。 彼のことばを聞くと、毎晩遅くまで勉強して、期末テストの成績に一喜一憂している自分が馬鹿らしく思えてくる。 「自分の進む道が、前もって誰かに決められている人生って不幸だとずっと思ってきたけど……、もしかするとそれほど強いことはないのかもしれないな」 草薙はそれを聞いて、「そんなものか」と、つぶらな瞳をばちくりした。 「わたしの生み出された昔は何の疑いもなく、百姓の子は百姓、貴族の子は貴族と決められておったからなあ」 「現代の若者のほうが、きっと大変だと思うわ。今の日本は何でも自由に職業を選べるようで、実は何も選べない」 「詩乃どのの将来の夢は何なのじゃ?」 「東京の大学に行ってひとり暮らししたいなあって、それだけよ。まだ何も決めてない」 統馬はふたりの会話を耳の端にしながら、瞼の裏に映る千変万化の万華鏡の向こうにある風景にぼんやりと目をこらしていた。 統馬。その名を継ぐということは、たとえお前ひとりになっても、死ぬまで夜叉と戦うということぞ。 よいな。一族すべてが滅びても、お前だけは――。 「夜叉はいつまで、追い続ければいなくなるの?」 「え?」 まぶしげに目を開けると、詩乃の澄んだまなざしにぶつかる。 「矢上くんが生きているあいだに、夜叉を全部調伏するということはないの?」 「そんなことは、絶対にありえない」 統馬はふたたび目を閉じた。 「夜叉八将は、あと何人残ってるの?」 「……うるさい。俺につきまとうな。少しは静かに昼寝させろ」 「ふん、だ。授業中だって、いつも寝てるくせに」 詩乃はかっとなって立ち上がり、校舎に向かってすたすた歩き出した。 少し心が通じ合ったかと思えば、また拒絶される。統馬の回りには茨の垣が張り巡らされているようだ。近づくと、心がぼろぼろになりそう。 唇を噛みしめている詩乃に、草薙が申し訳なさそうに語りかける。 「夜叉八将のことは、彼奴にとって一番触れられたくない話題なのじゃ。許してくれ」 「うん……」 「今までに倒したのは三人。残っている夜叉八将は、婆多祁哩(ばたきり)を除くとあと三人。大将の宝賢、残りは満賢と毘灑迦(びしゃか)という」 「あれ、おかしいよ。四人残っているのなら、倒したのも四人じゃないの?」 「ああ、そうじゃな。そういうことじゃ。わたしも老人性痴呆症にかかったかな」 「ナギちゃん、平安時代から生きてるんだもんね」 詩乃はくすくす笑って、草薙のふわりとした尻尾をいとおしげに撫でた。 五時限目が終わったとき、ばたばたと誰かが駆けてくる音がした。 統馬はけだるげに上半身を起こした。結局授業をさぼって、そのまま中庭で寝ていたのだった。 「矢上くん!」 それは、半泣きになった詩乃だった。 「私のカバンが、ないの!」 「なんだと?」 「五時間目、体育はプールだったの。教室にカバンを置いて、戻ってきたら、席に置いてあったはずなのに……どこを捜してもないの」 詩乃は途方に暮れながら、おろおろと拳を揉む。 「どうしよう。靴みたいに、誰かにまた捨てられたとしたら……。カバンにはナギちゃんを結びつけたままだったのに」 「だいじょうぶだ。こいつに捜させる」 統馬は落ち着いた声で答えながら、手元の袋から刀を取り出した。 「天叢雲が?」 「こいつと草薙は一対の剣。互いに共鳴し合うはずだ」 柄を強く握り、ぐいとかざす。 やがて詩乃の耳にも、金属のこすれ合わさるようなかすかな音が聞こえてきた。 「こっちだ」 ふたりは学生食堂の建物をぐるりと迂回し、校舎の裏の狭い通路のような空き地を走った。 剣に導かれた場所は、ドラム缶や廃材などが打ち捨てられた、生徒もめったに出入りしない場所だった。 「あっ」 奥の方から煙が出ているのを見て小さく叫んだ詩乃は、あわてて駆け寄った。 煙はレンガ造りの犬小屋のような施設のずんぐりした煙突状の先から出ていた。それは、数年前まで焼却炉として使われていたものだった。 錆びついた鉄の扉をギギと開け、あわてて中にもぐりこもうとする。 「危ないっ」 統馬は彼女の腕を引っぱり横にはねのけると、かわりに自分が頭を突っ込んだ。 ほどなく学生カバンをつかんで、戻ってくる。 「ナギちゃん!」 表面の革が熱く燻され、ところどころ黒く変色したカバンの上では、焦げたゴミにまみれて白狐がわざとらしく咳きこんでいた。 「けほけほ。ひどい目に会ったわい」 「嘘をつくな。貴様の正体はもともと鋼。煙や火など平気だろうが」 悪態をつく統馬からカバンをひったくると、詩乃は叫んだ。 「ひどい……、誰がこんなことしたの?」 「いや、顔はよくわからぬ。女生徒のようだったが」 草薙の白い毛並みから燃えかすを丁寧に取り除いていた詩乃の手が、ぴたりと止まった。 それは、布の切れ端だった。久しく使われていない焼却炉の内部には火が燃えうつるものが何もない。カバンを盗んだ人間はたまたま手近にあったぼろ切れを積み上げ、マッチか何かで火をつけたのだろう。 その燃え残りの端布の小花模様を見た彼女は、みるみる表情をひきつらせた。 「まさか……あの人たちが……」 それだけ言い残すと、詩乃は統馬の手にカバンごと草薙を預け、スカートの裾をひるがえして走りだした。 「弓月!」 「なんと、犯人がわかってしまったか」 「草薙、誰かを知っているのか」 「プール授業で見学者だったと見える女生徒ふたりが、こっそり教室からカバンを持ち出したのじゃ。作り物のふりをせねばならんから、目は動かせなかったが、着ている体操服のゼッケンだけは見えた。 ゼッケンには『嶋田』と『山根』と書いてあった」 「……ふたりとも、同じクラスの女子だ」 「統馬、追いかけろ。詩乃どのはよほどショックを受けたと見える。血相を変えていた。何をするかわからんぞ」 休み時間でざわめく教室の扉をがらりと開けると、詩乃は教室の隅にいるふたりの女子生徒のところに歩み寄り、いきなりひとりの頬を平手で叩いた。 「きゃああっ」 「どうして、どうしてなの? そんなに私が嫌いなら私を傷つければいいでしょう!」 逃げ出そうとするもうひとりのブラウスをつかんで、また平手で打つ。 「ナギちゃんは、やっとできた私の大切な友だちなのに……。火をつけるなんて、酷すぎる! あんたたちは人間じゃない。どうしてそんなことができるのっ」 教室にいた生徒たちはその場に凍りついたように、固唾をのんで見つめている。 「みんな、そうよ。ひとりを寄ってたかっていじめるのが、そんなに面白い? いじめられてる人間が毎日どんな思いで学校に来てるか、考えたことがあるの? 月曜の朝が来るのがどんなに恐ろしいか。教室に入るときの一歩一歩がどんなに痛くてたまらないか、考えたことある?」 「弓月!」 統馬が、教室に飛び込んできた。 「みんな死んじゃえ! みんな、みんな夜叉に食われちゃえばいい!」 「落ち着け!」 背中から羽交い絞めにする。だが狂乱した詩乃は、なお彼の腕の中で獣のように暴れ続ける。 「いやあぁ、離してえ! こいつら、殺してやる!」 「弓月!」 統馬はとっさに彼女の首筋に手を添え、自分の胸に引き寄せた。 そして、その上に屈みこみ、――強く唇を重ねた。 あっけにとられるクラスメートたちの視線を浴びながら。 詩乃は次第にもがくのをやめ、息をふさがれたまま意識を手放した。 どこかで、誰かが、まくしたてる声が聞こえた。 「だから、おまえは昔から考えなしだと言うんじゃ。詩乃どのを遠くから見守ると決めたのに、あれじゃあますます、おまえたち二人は回りから孤立してしまうじゃろうが!」 「ん……、ここは……?」 「気がついたようじゃ」 目を開けると、詩乃は寝ていたのは、保健室のベッドの上だった。 ゆっくりと頭をめぐらし、かたわらのベッドに腰かけている統馬を見つける。気絶する前のキスを突然思い出して、「うわっ」と悲鳴を上げる。 「ほら見ろ、統馬。「うわっ」だぞ、「うわっ」。詩乃どのに完全に嫌われたな。この痴漢」 仏頂面をしている彼の頭の上に乗って、草薙が可愛い後足でげしげしと蹴飛ばしている。 「うるさい、あれはこいつの邪気を祓うために、仕方なくしたことだ」 「邪気を祓う方法は他にもいくらでもあったろう。どさくさにまぎれて公衆の面前で、自らの欲望にもとづく邪まな不純行為をするとは。詩乃どのにあやまれ。ぬかずけ。土下座しろ」 「では言うが、元はといえば、草薙、おまえが咳き込む芝居なぞしたから、こいつはおまえが傷ついたと思い込んだんだ。そんなときこの女はいつも、どうしようもなく我を忘れて見境をなくして……」 「あ、あの……」 詩乃は小さい声を出した。 「いいの、あのとき止めてもらわなかったら、私何をしていたか、何を言ったかわからない。あれで、よかったの。……ありがとう、矢上くん」 統馬と白狐は、驚いたように彼女をじっと見た。 詩乃は上半身を起こし、ベッドの上で居住まいを正す。 「私、やっとわかった。みんなの前で泣きながら、自分の怒りを爆発させながら、ああそうだ、って心の中で思っていたの。 自分がずっと目をそらせていたこと。私はイジメが恐くて恐くてたまらない弱い人間なのに、強いふりをして、反対に人をいたわるふりをして、ずっと逃げていた。 自殺した高崎くんと自分も同じだということを認めたくなかった。私はあんなに弱くない。私はあんなに惨めじゃない。同情される側じゃなくて、同情する側の人間なんだって。 あの人たちなんかに可哀そうだと思われたくない。人と自分を比べて、安心して、相手を見下げて。 心の中はずっと、そんな醜い気持ちでいっぱいだった。 でも本当はどこかで、いつも何かが叫んでいたの。――「さびしい、いとしい、憎い」って」 目から、幾筋もの涙が滴り落ちる。 「矢上くんの言ったとおりだった。私が夜叉に憑かれたのは、自分をごまかして生きていた弱さのせいなんだね」 彼女はベッドから足を下ろして、ふらふらと立ち上がった。 「ごめんね。ふたりとも心配かけて。私、教室に戻ってさっきのふたりに謝ってくる。ほっぺた叩いちゃったりしてごめんなさいって」 統馬は、手をつかんで引き止めた。 「もうとっくに授業は終わっている。担任たちが校長室で待ってる。おまえが目を覚ましたら、来て事情を説明するようにと」 「わかった。じゃあ、校長室に行ってくるね」 「……俺も行こうか?」 詩乃は首を横に振った。 「ひとりでだいじょうぶ。ちゃんと先生に事情を説明してくる。 ――私はずっと、クラス中からイジメを受けています。先生、助けてくださいって……ちゃんと言えると思う」 「弓月」 統馬の顔には、どこか戸惑うような表情が浮かんでいた。 優しく暖かい気持ちが心からあふれてくるのに自分でも戸惑っている、そんな表情。 「こら、いつまで手をにぎっとる!」 草薙がふたりのあいだに立ちふさがって、わめいた。 「痴漢め、これからおまえは詩乃どのには一切触れさせぬ。今日からわたしが、『詩乃どのの貞操を守る会』会長じゃ」 「ふふっ」 詩乃は穏やかな笑みをたたえていた。 「ナギちゃんも、ありがとう。じゃあ、行って来るね」 ふたりに見送られて、晴れがましい気分で保健室を出る。 詩乃は胸を張って、廊下を歩き始めた。 こわい。 いくら説明しても、先生はきっとわかってくれない。イジメはきっと、これからもなくならない。 でも私は強くなる。 私のどんな醜さも弱さも、すべてを受け止めてくれる人がいる喜びを初めて知ったから。 私はもう、ひとりではない。 第2話 終 next | top | home Copyright (c) 2004 BUTAPENN. |