第三話  天に叛くもの(2)                   back |  top | home




 アスファルトの地面からは噴き出すような熱が襲ってきた。風は夕立を予感させる湿気をはらみ、午後の青空は陰鬱な雲に取って替わられようとしている。
 統馬と詩乃は、久下の事務所からさらに二駅先で下車すると、S市の山の手、高台の閑静な住宅街に足を踏み入れていた。
「うわ、古めかしい家」
 詩乃がそう叫んだのは、周辺でもひときわ目だつ、鮮やかな青の切妻屋根。尖った六角屋根つきの出窓。戦時中空襲で焼き払われたこの一帯としては珍しい、年月を経た洋館だった。
 持ってきたメモと門柱の住所表示を照らし合わせる。
「ここだ」
「なんか……、それらしいよね」
 10段ほどの階段を昇ってインターホンを鳴らすと、重々しいドアが開き、中から白髪交じりの初老の男が出迎えた。
「あの、「久下心霊調査事務所」の者ですが。土屋さんのご依頼を受けて来ました。よろしくお願いします」
 ちっとも口を開こうとしない統馬の代わりにすらすらと挨拶をしてしまう。つくづく詩乃は、自分のでしゃばりな性格を呪った。
「私が、ご連絡をさしあげた土屋信継です」
 男はそう言って頭を下げた。顔色が悪く、目の下に隈が出来ている。健康を害しているか心労のせいなのだろうか。
 詩乃は、所長の久下に渡された書類の内容を思い出していた。
 「全賃協」の古館の送ってきた資料によれば、心霊現象を調査してほしいとの依頼は、この土屋信継からのものだった。
 問題のこの家には2年前まで、母のミツ江と、電機メーカーに勤める独身の信継がともに暮らしていた。
 ミツ江が病のため世を去ったあと、相続人である土屋家の三姉妹、静子・麻紀子・朝恵と末子の信継は、相続税と遺産分割のためこの豪邸を処分することに決め、信継は近くのマンションに引っ越した。
だが未曾有の不況下、土地だけで数億もし、加えて文化財級の厄介な上物がある物件は売るに売れず、やむなく売却先を見つけるまでのあいだ維持費だけでもと、破格の家賃で貸し出すことにした。
 めったに見られない瀟洒な洋館が安値で借りられるとあって、借り手はすぐに現われた。
 しかし、問題はそれからだった。なんと、この半年で3組の借り手が、次々と起こる不気味な現象におびえ、ここを逃げ出していったのだ。


 土屋は、ふたりを玄関ホールに招じ入れた。
「うわあ」
 壁龕(へきがん)に飾られたギリシャ風の彫刻。階段の柱の細かい装飾。高い天井の濃茶の格子縁などを、詩乃は感嘆して見回す。
「素敵なお宅ですね」
「ありがとうございます」
 男はぎこちなく微笑む。
「私と母が住んでいた頃は、心霊現象など一度も起こらなかったのに、いったいどうしてこんなことになったのかわかりません」
「代々、ずっとここにお住まいだったのですか」
「いいえ、大正時代に紡績会社の社長邸宅として建てられたものを、戦後うちの父が買い取ったのです。三人の姉が嫁いで、父も亡くなったあと、十年以上ここで私が母とふたりで暮らしていました」
「いったい、心霊現象というのはどういうものですか」
「借りられた方の話によると、夜中に家具を動かすような甲高い音や、誰かのすすり泣きが聞こえたそうです。それに、今までなかったシミが壁に突然現われたり……。何回か塗りなおしましたが、それでもダメなのです」
「そのシミは、どこの部屋に?」
「2階です。ご覧になりますか」
 横であくびを始めた統馬のほうをちらちら見やりながら、詩乃は思わず「はい」とうなずいて、土屋氏のあとを追って階段を昇りはじめた。
 2階の廊下は長く、壁際にコーヒーカーテンを吊るした窓がいくつも並んでいる。アールヌーヴォー調の古めかしい窓だと思ってよく見れば、アルミサッシだった。
「賃貸しするときに、あちこち手を加えました。窓も壁紙もイギリスからの特注品で」
 詩乃の問いに、信継はひとつひとつ指差しながら、やや得意そうに説明してくれた。
 扉は片側に並んで4つ。突き当たりにもうひとつ。
 その突き当たりのドアを、先立っていた家主が押す。
 20畳ほどの板張りの間。大きな出窓が正面にあって、天気がよければ部屋全体が陽光にあふれているだろう。
 しかし、詩乃は思わず背筋がぞっとするのを感じた。隣室との境の壁に、人の形をしたシミがくっきりと浮き出ていたからである。
「ここは、母が使っていた部屋です」
 信継の声を聞きながら、あらためて見ると、痩せた老婆が立ってこちらを向いているようにも思える。
「あの、お母さまがお亡くなりになったのは……」
「2年前。83歳のときです。肝臓のガンで、入院先の病院で亡くなりました」
 彼は、わずかに唇をゆがめた。「この心霊騒ぎを起こしているのは、母の霊だということですか?」
「い、い、いいえ。そんなまだ」
 そのとき突然、ずっと存在を忘れられていた統馬が口を開いた。
「他の部屋も見せていただいて、いいでしょうか」
「はい、どうぞ。お気のすむまでご覧ください」
 土屋氏を部屋に残し、統馬は詩乃の腕を引っぱるようにして廊下に出た。
「ほかの部屋から、なにか怪しい気配がするの?」
「別に」
 隣の部屋に入ると、気のなさそうにあたりをぐるりと見回して、また次の扉に向かう。
「ただ、こうやってあちこち見て回るふりをしておけば、熱心に調査していると思われるからな」
「矢上くんて案外、詐欺師だね」
 詩乃はあきれた顔で、彼を見つめた。
「じゃあ、この家には怪しいところは全然ないわけ?」
「おまえはどうなんだ、弓月? さっきの部屋ではずいぶん怯えていたようだったが」
「この家に入ったときから、なんとなく息苦しさを感じてるの。特に今の部屋のシミを見たときは、背筋が凍りそうになったよ」
「くっ」と、 統馬は抑えた笑い声を上げた。
「感心した。たいした霊感だな」
 揶揄するような口調に、思わず詩乃もムキになって言い返す。
「だってこないだ私、道を歩いてて一瞬黒い影を見たのよ。学校の屋上で高崎くんの霊に憑いていたのと同じもの。ナギちゃんがそばにいるから、その霊力で私にも夜叉が見えるようになったみたい。矢上くんに連絡する前に、すぐ見失っちゃったけど」
「おまえに姿を見られるような間抜けな夜叉なら、放っておいても害はない」
「失礼ねっ。久下さんだって、私はかなりの霊感がありそうって言ってくれたもん」
 ざっと家中を見て回り、さきほどの部屋に戻ると同時に、土屋氏が言った。
「いかがでしたか」
「は、はい。他の部屋には異常はありませんでした」
「思ったとおり、この部屋だけに何かが取り憑いているのでしょう。それでは早速お願いします」
「お願いしますって?」
「え、今から除霊の祈祷をしてくださるのでしょう。電話でそうお約束して、来ていただいたのですよ」
「あ、そうですね」
「先生、ぜひひとつ念入りにお願いします」
 詩乃は「えええっ」と叫んでしまった。
 土屋信継はなんと、統馬ではなく彼女に向かって深々と頭を下げていたのである。


「あのっ、ち、違います!」
「私は出て行ったほうがいいでしょうか」
「そうではなくて、つまり……。や、矢上くん」
 振り向くと、統馬の顔に悪魔のような笑みが浮かんでいた。
「どうぞ。せ・ん・せ・い」
 明らかに、さっき自分に霊感があると言い張った詩乃を、からかっているのだ。
「ひ、ひどい、意地悪っ。いくらなんでも私にできるわけないでしょ」
『詩乃どの』
 背中のリュックから、草薙が念話で話しかけてきた。
『わたしがお手伝いしよう。言うとおりに繰り返すのじゃ。統馬にも何か考えがあってのことじゃろう』
「なーんにも考えてないみたいだけどね……。わかった。ナギちゃんが手伝ってくれるなら」
 詩乃は、「こほん」と咳払いをすると、
「それでは、土屋さん、私が真言を唱え終わるまで、部屋の外でお待ちください。除霊中は、霊の状態がとても不安定になりますので、大変危険です」
 まるでインチキ霊媒師よろしく、おごそかに言う。
「わ、わかりました」
 彼が出て行ったあと、部屋の真ん中に立ち、統馬がやっていたことを思い出しながら指を組むと、草薙から言うべきことを教わった。
『オン バザラギニ ハラチハタヤ ソワカ』
「オン バザラギニ ハ、ハ、ハラチハタヤ ソワカ」
 汗をしたたらせ、必死に口写しで真言を唱えるが、もちろん、こんなことばに霊力が働くはずもなく、部屋にはまったく何の変化も現われなかった。
 およそ15分。統馬もいつのまにかいなくなってしまうし、草薙も誰も聞いていないのがわかって、途中で飽きてしまったのか、
『え〜ろ〜い〜む、えっさい〜む』
 などと、およそバチ当たりなことを言い始める。
 やがて力尽きた詩乃の声が途絶えると、外で待っていた土屋氏と統馬が部屋に戻ってきた。
「いかがでしたか」
 との土屋氏の問いに、
「ええ、あの、一応やるだけのことはやったのですが、特に反応はなかったと言うか……」
「心霊現象はすべて真夜中に現われています。やはり夜でないと、除霊は無理ということでしょうか」
「はい、まあ、そうかもしれません」
 なんとかごまかせたと安心しかけた詩乃に、さらなる衝撃が待ち受けていた。
「ではお約束どおり、今晩この部屋に泊り込んでくださるのですね」
「えええっっ。そ、そんな! そんなこと急に言われても無理です」
「そんなことと、おっしゃられても」
 土屋氏はいぶかしげに答えた。
「最初から、そういうお話になっていたはずですが。おかしいですね、古館さんを通して伝わっていなかったのかな」
 統馬が、そっと吐息をついた。
「あの灰色頭のやつ、厄介な仕事だから俺たちに回してきたのか」


 



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