第八話  うつつに惑うもの(4)                   back |  top | home




 すぐに山から降りてきた統馬を見て、村の見張りの者はびっくりしたようだった。
「兄上は、どこにいる?」
 有無を言わせぬほどの勢いに、たじたじとしながら、
「た、確か先ほどは、屋敷の裏手におられたと存じます」
 果たして、その者が言ったとおりであった。誠太郎は屋敷の隅で、冬の備えのために薪を割っていた。
 それは、かつて当主を継ぐのはこの者をおいてはと言われた男の、あまりにも寂しい姿だった。
 矢上一族を滅亡に導いた誠太郎を、会えば即座に斬り捨てたいほどに憎んでいた統馬だったが、今こうしてふたたび顔を見ると、何を感じればよいのか、さっぱりわからなくなっていた。幼い頃からともに暮らしてきた血を分けた兄弟であることも、また否定のしようのない事実だったのである。
「どうした、翔次郎。修行に行ったのではなかったのか」
 相変わらず穏やかな微笑みを浮かべて自分を見る誠太郎に、統馬は大きく息を吐くと、言った。
「頼みがある。今から少しの間、俺につきあってくれないか」


 統馬は誠太郎を従えて、母屋から離れへと廊下を渡った。
 そして彼らには見えないが、その後ろからぴったりと、詩乃と草薙、そして龍二がついていく。
「いったい、何をしようとしてるの、矢上くんは。歴史を変えるなんて」
「わからぬ。ことによると、誠太郎と腹を割って話し合おうと考えているのやもな」
「それにしても、誠太郎と統馬を並んで見比べると、やっぱり兄のほうが人柄良さそうで、当主の器に見えるよなあ」
 ひそひそと三人で囁き合っているうちに、統馬は一室の引き戸を開けた。正面に曼荼羅の掛け軸と法灯が見える。
「入ってくれ」
「ここは、……当主以外の者には立ち入りが禁じられている部屋だ」
 誠太郎は、進み入ることを拒んだ。
「そんなことは、どうでもいい。入ってくれ」
 その気迫に押されて、しぶしぶ兄も続いて中に入った。引き戸がふたたび閉められる前にと、あわてて現代からの闖入者たちも身体をすべりこませた。
 板の間の下座を選んで座る兄の背後に、統馬は立った。いつまでも、その背中を見つめている。
「まさか!」
 龍二がはっとして叫ぶ。「統馬のやつ、誠太郎をここで殺そうっていうんじゃないだろうな」
「なんですって?」
「すべての不幸の元凶は、この誠太郎だ。こいつさえ亡き者にすれば、歴史は確実に変わる」
「そんな……」
「統馬よ」
 草薙も祈るようにつぶやく。
「憎しみに飲み込まれるな……」
 彼ら三人が危惧していたとおり、その瞬間、統馬の心に生まれていたのは静かな殺意だった。
 四百年前、この部屋の曼荼羅が風にちぎれ、父の誠之介が無残な屍を柱にはりつけられていたことを、ありありと思い出したからだ。
(実の父や母をあんな惨い目に会わせて、同族を皆殺しにした兄上の罪を、御仏は赦せというのか)
 ふつふつと怒りが湧き上がってくる。あの悲劇を起こさせないために、誠太郎は殺さなければならない。
 しかし、とも思う。
(ここにいる兄は、まだ罪をおかしていない。まだ体内にその萌芽を隠し持っているだけなのだ)
 統馬はぎゅっと拳を握りしめた。水と土と陽光を与えなければ苗は枯れるように、誠太郎にその悪事に至る時を与えなければいい。
 歴史さえ変われば、誠太郎を憎まずにすむ。信野とふたりで矢上家を裏切った事実を変えてしまえばいい。
 心を定めると統馬は、当主の座るべき上座ではなく、誠太郎のすぐそばに胡坐をかいた。
「兄上。矢上家の総領の座を今、この時から兄上に譲る」


 誠太郎は唖然とした面持ちで、とんでもないことを言い出した弟を見た。
「正気か?」
「本心から、言っている」
「父上のおことばに逆らうつもりか」
「そんなつもりはない。父上は俺に統馬の名を譲った。俺は当主としての判断で、それを兄上に譲る。何も間違ったことはしていない」
「だが、ご神体は俺ではなく、おまえを選んだのだぞ」
 飽くまで、自分に霊力が消えていることを隠し通したいという、誠太郎の頑ななまでの意志を感じ、統馬は怒りが凪ぐのを感じていた。
 かつては、兄がそう言うたびに嫌味のように感じられて心中穏やかでなかった統馬だが、今真実を知ってしまうと、そのことばの裏に隠された兄の哀しさがわかるような気がする。
 霊力をなくし、子どものときから約束されていた総領の座を失い、夜叉追いとしても将来を見出せぬ苛立ちに、誠太郎は日々さいなまれていたのではなかっただろうか。
 そして、優秀な兄を心の中で疎みつつ、弱音を吐くことを拒んでいた統馬の態度が一番、兄を追い詰めていたのではないだろうか。
「俺は神仏の選びなど信じぬ」
「信じぬと?」
「神仏の選びと信じ、ふさわしい者になろうと努力するから、人はそのつとめにふさわしくなるのだ。俺にはとても、そうはなれそうもない。夜が明ける前に起き出して、毎日護国法を唱えるのはもう疲れた。昔のように勝手気ままをやっていたい」
 統馬は両手を床につけて、頭を垂れた。
「兄上、お願いする。……そろそろ、代わってくれ」
 しかし、誠太郎はまだ疑心暗鬼に囚われ、激しく心を揺らしているようだった。
「だが、俺には……」
「俺の頼みを断れば、兄上も当主の命に逆らうことになるぞ」
 うっすらと、からかうような笑みを浮かべる。
「そうだとしたら、俺も兄上も、矢上の総領としては適格ではない。それならいっそのこと、総領の制度など、つぶしてしまえばいいな」
「何!」
「総領の代わりに評定衆を作って、何人かの者で話し合って一族の将来を決める。やがては一族の中から全員で選んだ人間が、代表となって上に立つことにする。議会制民主主義というものだ」
「ミンシュシュギ……何を言ってるんだ、おまえは?」
「ああ、そうだ。これは明治になってからの言葉だった」
 兄は生まれて初めて、弟を畏怖の目で見た。
「そんなものは絵空事だ。今の世を見てみろ。四国を見てみろ。優れた大将が治める国が生き残る。弱く小さいものが真っ先につぶれていく」
「だが、いくら優れた支配者が上に立っても、自分の子孫にのみ権力を伝えようとするうちに、血はよどんで腐敗する。どんな無能な者が上に立とうと仕組みの変わらない社会を、俺たちは作るべきなんだ」
「おまえの言っていることは、道理がめちゃくちゃだ」
「阿呆のたわごとだと思ってくれていい。俺がどうしても総領でいなければいけないのなら、兄上には、評定衆の筆頭になって矢上郷を治めていただく。そうすれば俺は安心して、何処へなりと行ける。兄上がそうしろと言うのなら、夜叉追いの旅に出て、もうこの村には帰ってこなくてもいい」
 自分の汗が、まるで涙と見まごうばかりに顔を伝う。
「お願いだ。俺は矢上郷を俺の代で滅ぼさせたくない……」
 誠太郎はなお、まじまじと統馬を見ていたが、やがてふっと表情を緩めた。
「驚いたよ、統馬」
「兄上」
「悔しいがおまえはいつのまにか、俺よりずっと総領にふさわしい器になったようだ。
評定衆のこと、面白いやりかただと思う。たぶん父上には反対されるだろうが、やってみろ。俺が味方をしてやる」
 統馬は、すんでのところで床に崩れこむところだった。
 誠太郎がさきほどまで背負っていた、悲しい影が消え去っている。その笑顔の裏にひそんでいた邪念も潰えただろうか。矢上郷が滅びるという運命は変わったのか。
 いや、まだひとつ、すべきことが残っている。これで完全ではない。
「兄上。信野のことだが」
 部屋を出て行こうとする誠太郎に呼びかけた。兄の背中がぴくっと強張る。
「信野とは、兄上が祝言をあげてくれ。信野はずっと兄上だけを見てきた女だ。きっとその方が、お互いの為になる」
 やがて、誠太郎の背中が小刻みに震え始めた。
「ふふ、……あははは」
「兄上?」
「だから、おまえはお人よしの阿呆だというのだ」
 誠太郎は、笑顔に疲れた色をにじませて振り返った。
「信野が幼い頃から、本当は誰のことを見ていたのか、おまえにはまだわからぬのか」


 よほど安堵したのだろう。少しふらつきながら廊下に出た統馬のあとに、詩乃と草薙と龍二が続く。
「統馬があれほどしゃべるヤツだったとは、驚いたぜ」
 龍二が感慨深げにつぶやくと、詩乃も、
「よかったぁ。憎み合ってきたお兄さんと和解できるなんて、統馬くん嬉しいだろうね」
 涙を拭いながら、答える。
「でも、草薙。誠太郎はほんとにあれで納得したのかな。実はやっぱりまだ根に持ってるんじゃないのか?」
「それは、わからぬが」
 と草薙は前置きして、続ける。
「霊力のない誠太郎にいくら総領を譲ると言っても、できない相談じゃ。だが、評定衆の筆頭という仕事なら、誠太郎はまことに適任。実質的には、この矢上郷のリーダーとなるポストじゃ。
統馬は、うまいことを考えおった。誠太郎のプライドを傷つけずに和解をもちかけたのじゃ。戦いのとき以外はいつも寝ぼけてるようなヤツじゃが、いざとなると頭が切れるのかもしれんのう」
「この世界の歴史は、これで変わったのか?」
「はて、……まだ、わたしにも定かでない」
「でも、そうなると、困ったことになるんだよなあ」
「え、どういうことなの?」
 龍二は立ち止まって、頭をグシャグシャと掻いた。
「この世界が、もし俺たちの世界の直接の過去であるなら、過去が変わったことで現在も変わってしまう恐れがあるんだ。
統馬が半遮羅にならず、戦国時代の戦(いくさ)に夜叉の将として何も影響を与えなかったとしたら、戦国の勢力図は変わってしまう。もしかすると秀吉は天下を取らず、徳川も関が原の戦いで勝利せず、江戸幕府は二百六十年続くほど強固にはならなかったかもしれない。そうすると、現代までの歴史がすべて変わってしまう。
もうひとつ言うと、統馬が夜叉にならなかったのなら、四百年生きることもなかったわけだから、統馬と俺たちは会っていないことになる」
「あ……」
 詩乃は両手で口をおさえた。
「統馬くんと私たちが……会っていない?」
「そして、当然俺たちは統馬といっしょにここへ来ることもできなかったという、タイムパラドックスが生じるんだ」
「そんな」
 急に恐怖に駆られた詩乃は、あわてて走り出し、統馬を追いかけた。
「矢上くん」
 しかし、統馬に振り返る気配はない。
「ねえ、矢上くん!」
「返事くらいしろよ、統馬!」
 龍二も加わって、耳元で大声で呼ぶが、何の反応もなかった。
「詩乃どの。龍二。やめなさい」
 草薙が悄然とした声で、ふたりを止めた。
「統馬は……、もはや聞こえていないのじゃ」
「ええっ」
「あまりにも深くこの世界に没入してしまい、わたしたちの声も気配も何も感じておらん。
そして、わたしたちの存在そのものも……この世界から消えかけておるのじゃ」
 


                     
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