はらはらと色づいた木の葉が、工場の庭から風に乗って、積んであったダンボール箱にふわりと着地する。まるで秋が寄こした便りのようだ。 「瀬峰(せほう)主任」 工場長のダミ声に、搬入された部品の点検をしていたゼファーは振り返った。 「今日も、何人かに残業をしてもらわねばならん」 「また、なのか」 渋い表情で視線を返すゼファーに、 「このままの生産ペースでは、どう見積もっても、約束した納期に間に合わんのだ」 工場長は汗を拭き拭き、言い訳を続ける。 「E工程の機械をもう一台増やしてもらえれば、なんとかなるんだがなあ。会社の状況じゃそうもいかんし」 ゼファーが働く工場では今、近年ブームになっているデジタル家電に特化した部品の生産を伸ばしている。注文が増え、その分従業員たちも残業が多くなる。だが熾烈な値引き競争の中で、その割に利益は上がらず、相変わらず苦しい経営が続いていた。 特に、新しい工程に導入した工作機械の数が足りないため、その時間あたりの生産量がネックになって、製品が思うように仕上がらないのだ。 「悪いとは思ってるよ。おまえにも乳飲み子を抱えた奥さんがいるんだしなあ」 工場長は煙草を取り出すと、箱の上にすとんと巨体を落とした。 「おまえの娘……なんて名前だったっけ」 「雪羽(ゆきは)、だ」 「もう十ヶ月になるんだったかな。子どもが大きくなるのは早いもんだ」 煙をくゆらす上司の隣に座り、ゼファーは言った。 「工場長。ひとつ、提案がある」 「なんだ?」 「E工程の前に、ひとつ検査作業をはさめないか」 作業着の胸のポケットに入っていた、くしゃくしゃの書類を取り出す。 「これによると、最終検査で、全体で約2%の不良品が出ている。そのほとんどがE工程の前の工程で出たミスだ。つまり、2%の不良品がE工程の機械を通っていることになる。その前に検査ではねれば、機械の作業時間をムダにしなくて済む。うちの工場は今、E工程の生産量が全体の生産量を決めているんだ」 「しかし、そんな検査に割く場所も人員もないぞ」 「場所は、作業場を少し動かしてそのあたりに作る。必要な人員は至急、各部署から何人かを集めて訓練させる。どうせE工程のあとのラインは手待ち時間が長い。それくらいの融通は利くはずだ」 「2%の不良品か……。少し前までは、1%台だった。工員の士気が落ちてるんじゃないのか」 「残業が増えて、みんな疲れてる。こっちの身にもなってみろ」 「それはそうだが……。特に研磨工程の不良が多いな。水橋、矢野、村上か。3人とも女性だから、残業続きはきついかもしれんな」 丸めた書類でぽんぽんと肩を叩く。 「とにかく、納期内にノルマを果たしてもらわねばならん。一円でも少なくコストを抑え、一円でも多く利益を上げる。会社の存続がかかってるんだぞ」 「俺に関心があるのは、従業員全員の給料が上がることだけだ。――残業なしにな。そのためなら、何でもする」 「わかった、その提案を試してみよう。おまえが音頭を取ってくれ。そのほうが、みんな進んで動くからな」 「ああ」 「それにしても」 不思議そうにゼファーを見つめる。ふたりには、父と息子と言ってもいいほどの年齢の開きがあった。 「学校にもろくに行ってないはずなのに、どこでそんな生産理論の知識を得たんだ?」 「魔王軍全体の陣形を見極め、弱いところに兵を投入して勝利に導く。それが何百年もの間の、俺の仕事だったからな」 それを聞いて怪訝な顔をしている工場長に、ゼファーは笑った。 「病気から来るいつもの妄想だ。気にするな」 「どうでもいいけど、おまえと話してると、俺はおまえの上司だという気がしない。そっちの方が偉そうだ。もうちっとその言葉使いは、なんとかならんのか」 「それでは、改めよう。……これでよろしいでしょうか、工場長」 「やめてくれ」 工場長は、ぶるぶると震えてみせた。 「おまえにそんな言葉を使われると、かえって怖い」 昼休み。交替で取る休憩時間に、ゼファーはひとりの女性と、工場近くの喫茶店で向き合っていた。 「あ、あの、主任……」 その女性、水橋ひとみはおずおずと切り出した。 「お話は、おっしゃらなくてもわかってます。わたしの仕事にミスが多いことでしょう?」 運ばれてきたコーヒーを前に、泣きそうにうなだれる。 「村上さんも矢野さんも、懸命にフォローしてくれるんですけど、でも、どうしても集中できなくて。すみません。……わたし、リストラですか?」 ゼファーは微笑んで、首を横に振った。 「ときにはそんなこともある。人間は石でできたゴーレムではないのだからな」 「ごーれむ?」 「いや、もののたとえだ」 と咳払いする。 「仕事に身が入らないのは、何か心配ごとがあるのではないか」 「ええ……。でも」 「話してみろ。遠慮はいらん。兵卒の様子に気を配るのは、指揮官の仕事だ」 「わたし、……結婚したい恋人がいるんです。でも」 みるみるうちに、目尻に涙がたまる。 「彼のお父さんは小さな会社を経営してらして、今、資金繰りにとても困っているって。それで会社の専務である彼も、毎日金策に走り回って……。わたしもできるだけのことはしたんだけど、もう貸してあげられる貯金もなくなってしまったんです」 ゼファーは天井を見上げて、吐息をついた。 「どこも、金の話か」 「今週20万そろえないと、不渡りが出てしまうんです。でも、わたしもどこにも頼るところがなくて……。お給料の前借りを社長さんに頼んだら、親の葬式か家族の病気でないと、前借りはできない規則だと言われちゃって。わたしは小さい頃に親をなくしてひとりぼっちだし、高校を卒業してから5年間ずっとお世話になった社長さんに、嘘をつくこともできません」 ゼファーは、しゃくりあげている女子工員を優しいまなざしでじっと見つめた。彼女にはどこか、佐和に似たところがある。控えめで、ひたむきで、不器用だけれども何に対しても一所懸命の女性。 「20万あれば、いいんだな」 ひとみは、「えっ」と声を上げた。 「そんな……。ウソ。だめ。主任にご迷惑をかけるわけには」 「なんとかしてみる。明日まで一日待ってくれ」 「あ……、主任」 支払いをすませ先に喫茶店を出ると、外で待ち構えていたらしい小さな猫が、ミャアとすり寄ってきた。 『シュニン。ニャにか悩みがあるというお顔をしておられます』 『わかるか。ヴァルデミール』 ふさふさの黒い毛糸玉のような身体を拾い上げ、魔族のことばで語りかける。彼はゼファーが精霊の国アラメキアにいた頃の、従者の若者だった。 『明日までに、20万という金を工面せねばならなくなった』 『20万! 塩鮭がニャん切れ買えるお金でしょう!』 『アラメキアと違い、この世界のすべては金で動く。だが、今の俺にはそれを動かす力がないのだ』 『どこか金の余っているところから盗んでくる……というのは、お許しくださいませんよね』 『無論だ』 『どうしたら、いいでしょう』 曇っていたヴァルデミールの顔が、ぱっと輝いた。 『そうだ! 落ちているコインを拾うという案はどうです? わたくし、自動販売機の前で百円拾ったことがあります。猫仲間に呼びかけて、町中のコインを拾って集めれば……』 『三年計画くらいで、頑張ってくれ』 ゼファーは、苦笑しながら答えた。 「20万円?」 夕餉の食卓で、佐和は驚いたように言った。 あれからいろいろ考えた挙句、結局何も良い案が浮かばずに、ゼファーは家に帰ってきたのだった。 「いったい、何に使うのですか」 「女に……」 「女の方に貢ぐのですか?」 「ば、馬鹿っ。何を言ってる」 ゼファーは大慌てで否定した。「工場の女性従業員が、恋人の借金のことで困っているのだ。だから……」 「冗談です」 くすくすと、佐和は笑った。 「ちょっと、雪羽を見ていてくれますか」 佐和は幼い娘を夫の腕に抱き取らせて、隣の部屋に行った。 雪の日に生まれたわが子。舞い落ちる雪のひとひらにも似た母親譲りの白い肌。父親そっくりの漆黒の瞳で、じっと見上げる。まるで、この世のすべての真理を知っているかのような眼差し。 「雪羽」 大切なその名を呼びながら、ゼファーはそっとその柔らかい頬に自分の頬を押し当てた。その傍らで、黒い猫が塩鮭をかじりながら、幸福そうに寝そべっている。 「ごめんなさい、ゼファーさん。15万円しかありませんでした」 佐和は白い封筒に入った紙幣を数えながら、戻ってきた。 「後でもよければ、銀行に行って、また少しお金を下ろせるのですけれど。とりあえず今はこれで足りるでしょうか」 「どうしたんだ、この金は」 「私のへそくりです」 「へそくり?」 「雪羽が大きくなったときのためにと思って、少しずつ貯めていたんです。だから、このお金は雪羽が貸してくれたと思って、大事に使ってくださいね」 「佐和」 ゼファーは娘を抱いたまま、もう片方の腕を、妻のか細い背中に回した。 「おまえは本当に、アラメキアの最高位の魔女のようだな。いつも俺を驚かせる魔法を使う」 「魔法だなんて、大げさです」 「第一、魔法でもなければ、これほど美味いおにぎりを作れるはずがない」 彼は、妻の額に口づけを落とす。 「ありがとう、佐和」 「こんなにたくさん……」 うるんだ目で、水橋ひとみはゼファーを見上げた。 「これで、足りるのか」 「はい、わたしも幾らか、友だちに借りてきたから。彼、とっても喜ぶと思います。ありがとうございました」 彼女は何度もお辞儀をしながら、工場の庭を一目散に駆けていった。さっそく、恋人に連絡を取るのだろう。 ゼファーはその後姿に微笑みながらも、何故か心の隅に巣食う不安をぬぐいきれなかった。 その日の夜、工場を出た彼のもとに、暗がりからひとりの若い男が近づいてきた。長い黒髪をした浅黒い肌の男。 『ヴァルデミール。どうだった?』 『はい、お言いつけのとおり、例の女性が男と待ち合わせて金を渡すところを見張っていました。それから後は、男のほうをずっとつけて行って、ある店に入るのを見届けました』 ゼファーの腕をくいくい引っぱり、先導する。『こっちです、シュニン』 ヴァルデミールが連れていったところは、一目でいかがわしいとわかる歓楽街のど真ん中だった。 雑居ビルの階段を上がると、高級バーらしき店の豪奢な布張りのドアの中から、数人の男女の笑い声が響いてきた。 『とんでもニャい奴ですよ、あの男は!』 憤慨した様子で、ヴァルデミールがつぶやく。 『すぐに借金を払いに行くかと思えば、こんな店に入ったんですよ。畏れ多くもシュニンのしもべをダマすニャんて、赦せません!』 扉を押し開けた瞬間、「バカな女だよ」という声が聞こえた。 「もうこれで、かれこれ百万だぜ。少しは変だと思わないのかね」 「おつむがちょいと弱いんだろう。あんな下町のボロ工場で、油にまみれて文句も言わず、あくせく働いてる女だからな」 「この調子じゃ、まだまだ巻き上げられるんでねーの?」 あとから続いて店に入った従者の目には、ゼファーの背中から黒い炎が吹き上がるように見えた。 「貴様ら――」 突然降ってきた声に、ソファに座って酒を飲んでいた4人の男女ははっと振り返る。 「そこの真ん中の奴が、水橋が恋人と呼んでいた男だな」 その静かな声には、人を恐怖の沼に突き落とすような凄まじい響きがこめられていた。 「今その懐にある金は、多くの汗がしみこんだもの。貴様ごときが触る資格はない」 「な、なんだ、おまえは。いきなり」 「こいつと初めからグルでなかった者は、今すぐこの店を出ろ。巻き添えにされたくなければ」 いっしょに座っていた女と、店のバーテンがあわてて飛び出して行った。 「アラメキアの魔王ゼファーの名にかけて、貴様を赦しはしない」 その声に呼応するかのように、そばにいた黒髪の男が身を屈め、そしてたちまちのうちに異形の獣と化した。 「うわああぁぁっ!」 「すみません、主任。きのうは勝手に休んでしまって」 一日有休を取り、あくる日から出勤してきた水橋ひとみは、意外なほど明るい表情をしていた。 「お借りした15万円、お返しします」 「ほう、いったい、どうしたんだ」 何も知らぬふりを装って、たずねる。 「おとといの夜、うちに電話がかかってきました。警察から、詐欺容疑で男を逮捕したので、事情聴取に来てほしいと言われて。そこで、彼が前科のある、結婚詐欺の常習犯であることもわかりました」 「そうだったのか」 「本当のことを知ったときは、さすがにショックで落ち込んで……。悔しくって。でもなんだか、それでよかったのだと思えてきました。自分でも不思議だけど、今はきっぱりふっきれたみたいです」 口とは裏腹に、まだ悲しみの陰を目元に引きずってはいたけれど。 「それよりもっと不思議なのは、あいつったら、ぼろぼろに殴られて半狂乱になって、「自首させてくれ」と警察に駆け込んできたそうです。誰にやられたかと刑事が聞いても、「魔王が、怪物が」と、わけのわからないことを口走るだけなんですって」 ひとみは、子どものような微笑を浮かべた。 「わたし、それを聞いたとき、なんだか瀬峰主任の顔を思い浮かべちゃいました。主任が助けてくださったという気がして」 「さあ、俺は何も知らないな」 「すみません、変なことを言って。でも本当にありがとうございました。何もかも、主任が親切にお金を貸してくださったおかげです」 「礼なら、俺ではなく、家内と娘に言ってくれ」 「まあ、雪羽ちゃんにも? ふふ、お二人によろしくお伝えください」 彼女はくるりと振り向くと、工場の庭を元気な足取りで歩き始めた。 「残念だなあ。主任に奥さんがいらっしゃらなかったら、好きになっちゃったかもしれません」 「……え?」 呆気にとられた顔をしたゼファーがひとり、落ち葉の降り敷く中に取り残された。 このエピソードは、お京さんからいただいたメールの中に、「一昔前を思い出す工場で働く瀬峰君と、それを支える佐和はじめ周りの人々の情景のお話も待ってるニャ」という一文があったことで、思いつきました。こういう細やかなリクエストが、アイディアの枯れた作者(笑)のどれだけ助けになることでしょうか。本当にありがとうございました! 背景素材: Angelic |