「ゼファーさまだ」 「《精霊の騎士》さまだ」 通りのあちこちで、喜びのささやきが交わされる。 白銀の馬にまたがって凱旋の先頭に立つは、白と紫紺の戦衣をまとった若き勇者。 アラメキアに恒久の平和を約束する者。 ささやきは沸き立つ泉となり、歓呼の声となって、都中に響き渡る。 「アラメキア、ばんざい。ゼファーさま、ばんざい!」 宮殿の壮麗な門をくぐり、下馬したゼファーは、謁見の広間への通路に置かれた銀の鏡に、目を留めた。 そこに写る自分の姿。精霊の女王の加護を受けた身体に、汚れや染みなどあろうはずがない。 そんなはずはないのに。 何かを握りつぶすように拳を固めると、彼は絨毯を踏みしめて歩き出した。 「近衛隊長どのが帰還いたしました」 侍従長の声に、ユスティナは「そうですか」と素っ気なく答えた。 内心は、動揺している。 己を制しているつもりでも、ことあるごとに思い出してしまうのだ。出陣まぎわの、予期しない抱擁。唇の上を通り過ぎていった性急な嵐を。 紫の髪に王冠をいただき、権威の王杓を右手に持ち、白い裳裾を広げ、なにごともなかったような顔をして、彼女は女王の座に着いた。 ファンファーレが響き、謁見の広間の扉が儀仗兵によって開け放たれ、彼が入ってきた。 羽根のついた兜を脱ぎ、その顔貌があらわになると、垂れ幕の端をめくって覗いていた侍女たちの中から、抑えそこねた吐息が漏れた。 太陽の髪と月夜の瞳を持つ騎士は、片膝をつき、女王に拝礼した。 「近衛隊長ゼファー、ただいま戦地グルバティスより戻りました」 「大儀でした」 ユスティナは、つとめて平静な声を出した。 「して、かの地の様子は」 「魔族側が散発的に反攻を試みていましたが、今は平和を取り戻しました」 「ふたたび蜂起する恐れはないのですか」 「もともと魔族には長となる者もおりません。当分は何も起こりますまい」 「苦労をかけました。さぞかし疲れたでしょう。軍装を解き、ゆっくり休むとよい」 騎士は顔を上げ、玉座の女王をまっすぐに見つめた。 「陛下。まだお耳に入れたいことがございます」 「明日ゆっくりと聞きます。今は下がりなさい」 それを聞いたゼファーはわずかに目を細めたが、何も言わず頭を下げた。 夜、礼拝堂から寝室への回廊を渡るとき、女王は片隅の人影に気づいた。 「……ゼファー?」 ひざまずいていた影は立ち上がって、暗がりから現われた。松明の灯りの中に立つ姿は、まばゆく輝き、金色に煙るようだ。 「こんな時間にいったいどうしたのです」 「陛下は、わたしのことを避けておられる」 ゼファーは自分の手に、憂いに翳る視線を落とす。 「陛下の御目にも、きっと映っているのでしょうね。わたしの全身には、拭いようのない血がこびりついている。大勢の魔族を斬って浴びた血が」 「……」 ユスティナは息を呑み、とっさに返事ができなかった。 「そこまでしなければ、魔族からあの弱い種族を守ることはできなかった。でも、……なぜなのです?」 彼女に向けた顔は、にわかな怒りに彩られた。 「なぜそこまで人間に肩入れなさるのです? わたしたち精霊は、何者にも与せず中立を保つのが、世々の掟ではなかったのですか」 「人間は、ようやく興ったばかりの新しい種族。今はわたくしたちの手で守らねば、いともたやすく滅びてしまいます」 「それが自然の摂理であるならば、滅びるべきでしょう」 「ですが、アラメキアを担っていくのは彼らなのです。未来のためにも、人間を滅ぼしてはなりません」 アラメキアの未来と、そして、《もうひとつの世界》の未来のために。 「あなたの頭にあるのは、アラメキアのことばかりなのですね」 精霊の騎士はうなだれ、そして引きつるような笑い声を漏らした。 「あなたが愛するアラメキアのために、わたしは大勢の魔族をこの手で殺した。そして、あなたは血で穢れたわたしを疎み、いっそう遠ざけておしまいになる」 「そうではない、ゼファー」 そうではない。 わたくしは自分が怖いのです。そなたに溺れそうになる自分自身が。そなたへの愛ゆえに判断を狂わせ、精霊の女王の取るべき道を見誤ってしまうことが。 唇をわななかせる彼女のもとにゼファーは近づき、その真珠色の顔をそっと手で撫でた。戦場で血濡れの剣を振るって来た大きな手で。 そしてゆっくりと幼子に言い聞かせるように、ささやく。 「もし、わたしがアラメキアを滅ぼしたら、あなたはわたしのものになってくださいますか?」 「え?」 ゼファーの口元に、あきらめの笑みが浮かんだ。 「いえ、戯れを申しただけです。おゆるしください」 彼は数歩下がると、身をひるがえし、木立の間に姿を消した。 ユスティナは、その場に立ち尽くしたまま動くことができなかった。 なぜなら、見てしまったのだ。 ゼファーの透き通った紫の瞳の中に、かすかな魔の色が忍び込んでいることを。 そして、やがて彼が憎悪と憤怒に身を焦がし、魔王へと変容する日が来ることを。 皮肉にも、代々の精霊の女王が受け継いできた霊力は、もっとも愛する者の恐るべき堕落を、避けえぬ未来として告げていた。 背景素材: ふるるか |