「まったく、よく降る雨だな」 ユーラスは、教室の窓枠に片肘をつき、藍色の眉をひそめて、雲の垂れ込めた空を見上げた。 軒先から、ぽとりぽとりとひっきりなしに、しずくが落ちてくる。 もう三日も降り続いている。そう言えば、彼の治めていたナブラ領の地は、たびたびの旱魃のために、作物の不作が続いていた。 この雨をアラメキアに運べたら。 「今ごろ、民はどうしているだろう。王子たちは、国をうまく治めているだろうか」 王は突然、ずきんとする胸の痛みに襲われた。 『おまえは、おのれの治める国を捨ててきたのか。それで、民が喜ぶのか。飢えが満たされるのか』 魔王ゼファーの激しい叱責のことばが、耳の奥にこびりついている。 国を捨てたのではない。民のことを忘れたことはない。 地球からアラメキアへの転移が叶うのは、早くて七年後。それまでに魔王を倒して凱旋すればよいのだ。そう思って自分を慰めてはいるが、結局それでは何にもならないような気がしてきた。 もっと大きな収穫を持って帰らなくては。ナブラ領、ひいてはアラメキア全体の民が幸福に暮らすことができるような知識をこの地球で得て、大事業をなしとげることが、自分の使命なのではないか。 「天城くぅん」 甘ったるい声を出して、「川越美空」という名前のひとりの少女が小さなノートを持って近づいてきた。 「プロフ帳、書いてくんない?」 このところ、クラスの中で、『プロフ帳』なるものが流行っているらしい。 軍隊の兵卒名簿に少し似ている。ただし、名前や住所のほかに、『星座』や『チャームポイント』などという、訳の分らない項目まで埋めるようになっている。 「この情報は、何に用いるのだ?」 「え? ただ集めてるんだよ」 美空は、桜色の頬にえくぼを浮かべて、にっこりと笑った。「もうこれで、二冊目。もう少しで終わるから、三冊目を買ってもらうんだ」 (こうして見ると、なかなかに愛(う)いものだな) 自分の曾孫にも相当する九歳の少女に向かって、ユーラスはしみじみと目を細めた。 同級生たちはあまりにも幼稚で、学校に通い始めた頃は同じ教室の中にいることさえ苦痛だった。だが不思議なことに、日が経つにつれ次第に会話が噛み合うようになり、学校にいる時間を楽しむことすらできるようになった。 それと呼応して、少し前まではクラスの中でも浮いた存在だった自分が、いつのまにか『トモダチ』として扱われ、特に女子生徒たちに、しきりと笑いかけられるようになっている。 「ね、続き書いてよ」 「あ、ああ」 ユーラスは、次の項目にとりかかった。 『特技』とある。ユーラスはためらわずに、『戦』と書いた。本当は『戦略』と書きたかったが、『略』という漢字は、四年生ではまだ習っていない。 「戦争の戦?」 「そうだ」 「もしかして、定規戦とか、消しピンのこと?」 「そうではなく、地形を調べ、兵法に鑑み、軍をどのように配置するかをだな」 ため息をついた。「……説明がむずかしい」 それでも満足げにノートを胸にかきいだくと、美空は「ありがとう」と、特別に心をこめた口調で言った。 「天城くんのプロフもらったの、美空が第一号。みんなに自慢できるよ」 「そうか。ならば、よかった」 「あ、それから」 少女は急に眉をひそめると、そっとユーラスに耳打ちした。 「三木さんも、『プロフ書いて』って言って来ると思うけど、絶っっ対に書かないでね」 背筋にぞわりとするものを感じた。 どうやら彼は、もっと別の種類の戦いに巻き込まれてしまったらしい。 雨粒がひっきりなしに、トタン屋根を打つ。ヴァルデミールは、夜の工場の調理台で、ひとりで人参を切っていた。 「こう、こう、そんでもって、こうニャんだよね」 ぶつぶつ呟きながら、人参をくるくる回して、包丁を入れる。 今朝もずっと、調理担当者たちの手の動きを見ていた。人参の細い部分と太い部分、それぞれ何回くらい人参を回して、何回包丁を入れるか。 目に焼きつくほど何時間も、観察を続けた。 「何してんの」 社長の相模理子が、すごみのある声を出しながら入ってきた。 「うわっ。すごい数の人参」 「あっ、あの、これ全部、わたくしが練習用に買った人参ですから」 あわてて、弁解する。 「へえ……。けっこう、形がそろってるじゃない」 理子は人参を手に取って、意外そうな顔をした。「何年もやってるベテランにひけを取らないくらい」 「そりゃもう」 ヴァルデミールは、なで肩を思い切りそびやかした。「毎日練習してますから。おかげで、人参ばかり食べて、馬にニャったような気分です」 「ニャんのために、こんなに練習してるの?」 ヴァルデミールのことばが移ってしまったのに、彼女は全然気づいていない。 「まず自分が完璧にできニャいと、人には教えられませんから」 「ふうん。誰に教えるの?」 「鼻毛まで白髪のおじいさんです。回転数とかセンサーの自動計測値を決めるには、実際のデータが要るのだ、と威張って命令するんです。そのくせ、ニャかニャか回転シャフトがうまく加工できなくて、失敗ばかりニャんですよね」 「あんたの言うことって、ときどきさっぱりわからないわ」 理子は、ふくよかな二の腕をぽりぽりと掻いた。 「とりあえず、少しは休憩したら? うちの夕食の残りを持ってきてやった」 「え、わ、わたくしにですか?」 女社長は、少し顔を赤らめた。「ああ、不本意だけどね。お父さんに言われたから」 隣の休憩室のテーブルには、大きな塗りの弁当箱が置いてあった。 「うわあ、すごい」 蓋を開いたヴァルデミールは、彩りよく詰められた惣菜に、顔を輝かせた。とても残り物とは思えない。 「ああ、いい匂い。鯖のみそ煮だ。わたくし、塩鮭の次に大好物ニャんです。うわ、おにぎりにはかつお節が入ってる!」 ヴァルデミールは幸せそうに、喉を鳴らした。「相模屋のお弁当も美味しいですが、やはり弁当は手作りが一番ですね」 理子は向かいのソファに腰を下ろし、自分よりも十歳も若い青年が無心に弁当をかきこんでいるのを、しげしげと見つめている。 「あんたって、ほんとに不思議だ」 「どこが、ですか?」 「すましてれば、きっとすごい美男子なのに、どうして美男子に見えないのかしらね」 「それって、ほめられてるのでしょうか、けニャされてるのでしょうか?」 「ははは」 女社長は立ち上がり、隅の給湯器で急須にお湯を入れた。 「はい。お茶も飲まずに急いで食べると、喉をつめるよ」 「あ、わたくし猫舌ですので、うーんとぬるく……」 あわてて立ち上がろうとしたヴァルデミールの足と、湯呑みを運んできた理子の足が交差した。 ふたりはバランスを崩して、ソファに倒れこんだ。お茶はこぼれ、休憩室のカーペットに吸い込まれてゆく。 そして気がつけば、ヴァルデミールの上に理子が覆いかぶさる形で、ソファに横たわっていた。 何のはずみか、互いの唇を重ねたまま。 「ひいっ」 「ひゃあっ」 彼らは自分の置かれた状況を把握すると、二匹のトビウオよりも速く跳ね起きた。 理子は頬をトマトのように赤く染め、泣きそうな顔でばたばたと走り去ってしまった。 ヴァルデミールは、呆然と立ち尽くしたまま、その後姿を見送る。 「……そんニャ、馬鹿ニャ」 体が熱い。理子のやわらかな胸や腹、そして唇に触れた部分が熱を帯びている。そして痺れている。 「うわーん」 ヴァルデミールは、頭を抱えてその場にしゃがみこんだ。 「シュニンー、姫さまぁ。わたくし、汚れてしまいました」 靴を履いて立ち上がるとき、ゼファーは努めて明るく言った。 「じゃあ、行ってくる」 「はい、いってらっしゃい」 「いってらっしゃぁい」 食卓から走ってきた雪羽は、父の首にむしゃぶりついて、ごはん粒のおまけつきのキスをしてくれた。 だがドアを後ろ手に閉めたとたん、彼の笑顔は凍りついたように、厳しい表情に替わる。 『坂井エレクトロニクス』は、最大の正念場を迎えている。 なんとかして、倒産を食い止めたいという思いは消えてはいない。だが、打つ手はすべて打ってしまった。もうできることはない。 もし彼にできることがあるとすれば、製造現場の責任者として、一秒でも長くラインを動かしていること。そして工員たちが不安を感じないように、自信をもってふるまうこと。 ゼファーは工場に着くと、いつもの朝と同様、社長室と事務室のある二階への外付けの階段を駆け上がった。 しかし、中にいた事務の女性の顔をひとめ見たとたん、もうすでに、そのときが来てしまったということを感じ取った。 「瀬峰主任」 「社長は、どこだ」 「朝一番で、銀行に行っておられます」 事務員は、真っ赤に泣き腫らした目をして、訴えた。 「明後日が期日の180万円の小切手が、どうしても手当てできません」 「……」 不渡りが出る。 工場長が、ぽかんと呆けたような顔でゼファーの後ろから入ってきた。会話の最後の部分だけを聞いて、事情を察したらしい。 「小切手の不渡りは、六ヶ月以内に二度目を出さなければ大丈夫だと聞いた」 階段を降りながら、ゼファーは押し殺した声で言った。 「銀行の約定ではそうだが、実情は違う」 うめくように、工場長は答えた。 「一度目の不渡り情報はすぐに漏れて、あっという間に広がる。そういう情報専門の会社もあるらしい。そうなると、信用はガタ落ち。取引先がいっせいに押しかけてきて、倒産は回避できなくなる」 「そうか」 ゼファーは立ち止まった。 「このこと、みんなにはまだ内緒にしてくれ」 「……言えと言われても、とても言えんよ」 力なく答えた工場長は、今にも倒れそうにフラフラと表に向かって歩き出した。 「ちくしょうっ」 ゼファーは、工場の壁に拳を叩きつけた。 社員たちを絶対に路頭に迷わせないと誓ったのに。俺はとうとう何もできなかったのか。 元を正せば、ゼファーが提携先のリンガイ・グループのやり方に異を唱えなければ、こんなことにはならなかった。 会社は存続し、少なくとも工員の三分の二は働き続けることができたのだ。 俺が、この世に存在しなければよかったのか。地球に来ずに、アラメキアで魔王の体のまま滅びてしまえば、よかったのか。 その日の夜、ゼファーは工場の真ん中に立ち、ぼんやりと工作機械の部品を磨いていた。 他の工員たちは無理矢理に定時に帰した。 何かは感づいているのだろう。みな一様に心配そうな顔をしていたが、口に出して質問してくる者はいなかった。 社長は結局、一度も姿を見せなかった。今なお最後の金策に走り回っているのだろうか。 入口で、コトリと音がした。もしや社長かと思って振り向くと、そこに立っていたのは水橋ひとみだった。 「主任」 暗い工場に不似合いなほど朗らかな声を上げながら近づいてきた彼女は、一枚の封筒を両手で差し出した。 「これを使ってください」 「どうしたんだ。この金」 封筒の思いがけない厚みを確かめ、ゼファーはすぐに手を離して彼女を見た。明るい声とは裏腹に、水橋は蒼白で思いつめたような顔をしていたのだ。 「借りたんです」 「いったい誰から?」 水橋ひとみは、天涯孤独の身の上だ。それに、つい最近、結婚詐欺に会い、貯めていた金のすべてを奪われてしまっている。 尋常な金であるはずはなかった。 「水橋、いったい誰から借りた」 口をつぐんでいたが、彼の詰問に、覚悟を決めたように答えた。 「支度金として、もらいました」 「何の?」 地球の事情に疎いゼファーも、うすうす察していた。水橋は自分の体を他の男に任せる商売に就こうとしているのだ。 「何でもいいじゃないですか。これさえあれば、会社はつぶれなくてすむんですよね」 彼女は、強いて笑顔を浮かべようと試みていた。 「それだったら、わたし嬉しいです。わたしなんかが役に立てるったら、これくらい――」 ゼファーは水橋の手をぐいと引っ張った。 「痛いっ」 「水橋、今から俺を連れて行け!」 彼女の目には見えていないが、ゼファーの体から黒い炎が立ち昇っている。 「え、ど、どこへ?」 「この金をおまえに渡した奴のところへだ。たたき返してやる!」 一時間後、ゼファーは、泣きじゃくる水橋ひとみを連れて繁華街を歩いていた。 たった今、いかにもいかがわしい一軒の店に入り、彼女を雇おうとしていた店主に金を突き返したところだった。 屈強な男たちが二、三人取り囲んで、行く手をはばもうとしたが、ゼファーが睨みつけると怖気をふるったように、すごすごと退散した。 「もう泣くな」 「……だって」 「おまえの気持はありがたい。だが、おまえを売った金で会社が持ち直したとしても、俺も含めて誰ひとりとして喜ばん」 吐き捨てるように言ってから、ゼファーは思い直して語気をゆるめた。「それに、これぽっちの金額じゃ、うちの工場を立て直すには全然足りないぞ」 「ごめんなさい」 彼女は、二、三回しゃくりあげた。 「こないだ詐欺に遭ったとき、相手に渡すお金をなんとか工面しようとして、あの店の存在を知ったんです。わたしったら、このお金で工場が救われるなんて、早とちりして……」 「いいから、涙をふけ。家まで送ってってやる」 ふたりは、五階建ての古いワンルームマンションに着いた。 暗く、人けのない玄関ホールに入り、エレベータを一階まで降ろすと、ゼファーは水橋の肩をぽんと叩いて、微笑んだ。 「じゃあな。今夜は何も考えずにゆっくり寝ろ」 「主任」 水橋は、上目遣いでゼファーを見上げた。 「わたし、主任のために何ができますか?」 「え?」 「今朝見たみたいな主任の苦しそうな顔、わたし、もう二度と見たくないです」 その訴えるような眼差しに、ゼファーはことばを返せなかった。 「わたし、主任のことが好きです」 水橋ひとみは、彼の腰に抱きついた。 「工場がつぶれたら、わたしたちバラバラになっちゃう。いっしょに働けなくなっちゃう。わたし、主任と離れたくない。いつまでも、そばにいたい」 「水橋……」 「お願い、放さないで」 渾身の力で抱きついてくる彼女に、ゼファーはしばらく立ち尽くしたままだった。 やがて水橋の背中に腕を回すと、降りてきたエレベータにいっしょに乗り込む。 五階のボタンを押した。 「ありがとう」 ゼファーは、彼女の体をそっと包むように抱きしめた。 「おまえの言うことは、よくわかった。その気持を、俺は全霊をかけて受け止める」 「主任」 「だがな」 ゼファーは、彼女の髪の毛を撫でた。 「俺は、ひとりの女性を愛すると決めた。その誓いを破るつもりはない」 五階に着き、ドアが開いた。もう一度、一階のボタンを押す。 「おまえを喜ばせてやりたいと思う。だが、それは同時に、俺の妻を悲しませることだ。わかるな、水橋」 「はい……」 「平気で妻を裏切れるような男なら、おまえに想ってもらう資格など初めからない。そうだろう?」 「はい」 水橋は、ゼファーの胸の中でこっくりとうなずいた。「私も主任がそんな人だとは、絶対に思いません」 一階に着く。もう一度、五階へ。 「すまない」 「いいえ」 「それに、俺はまだあきらめていない」 ゼファーはエレベータの低い天井を見上げて言った。「往生際が悪いとは思うが、最後の最後の瞬間に行き着くまでは、会社が生き延びることに賭けたいのだ」 みたび、一階へ。 「主任がそう言うならば、あたしもそちらに賭けます」 「それでは、賭けにならんな」 ゼファーは楽しそうに含み笑った。 エレベータが止まり、ドアが開いた。 「どうする。もう一度、上に上がるか」 「いいえ」 水橋ひとみは、きっぱりとした声で、自分から体をほどいた。 「ここで、お別れします」 しとしとと音もなく降る雨に濡れて、ゼファーは歩き続けた。 道端の紫陽花が、ぼんやりと雨ににじんでいる。時折り花首が傾ぎ、一瞬だけ暗さの中に、鮮やかな青が浮かび出るのだ。 目を上げると、我が家の窓に明かりが灯っていた。 ゼファーはさまざまな感情を振り捨てるように、大きく深呼吸をしてから階段を上がった。 扉を開けると、妻と娘が彼を迎えた。 「父上ぇ」 雪羽が、誇らしげに報告した。 「見て見て。おにぎりで作った、魔王城!」 娘のことばどおり、皿の上に円錐形に積み上げられた少し小さめのおにぎりは、アラメキアの居城にそびえていた塔のようだった。 「母上がいっぱいおにぎり作って、雪羽がいっぱい乗っけたの」 「全部にちゃんと鮭が入っていますよ」 説明しながら佐和は、ゼファーの脱いだレインコートを受け取った。 夫の服からは、かすかに女性の香水の香りがした。 一瞬、心臓がどくんと跳ねたが、すぐに思い直して、にっこり微笑んだ。 きっと何か理由があるのだろう。夫はそんなことのできるほど器用な人ではないし、そんなことのできるほど愛を知らない人でもない。 「絶対に父上に見せるんだって、雪羽も今まで食べないで待っていたんです」 佐和は何ごともなかったかのように、話を続けた。 「この子の提案なんです。今朝の父上はとても悲しそうだったから、元気が出るようにって」 「……雪羽が?」 ゼファーは思わず、愛娘の顔を見た。 「この子の前では、いくら上手に気持を隠しても、無駄ですね」 佐和と雪羽をかわるがわる見ているうちに、家に持ち込まぬように捨ててきたはずのものが、満ち潮のようにひたひたと、ゼファーの喉にせりあがってきた。 外では、紫陽花の花が風に揺れて、重たいしずくをポトリと落とした。 背景素材: ふるるか |