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冷たい水




 夏休み最初のプール開放日は、シャワーから吹き出す水がまだ冷たかった。
 子どもたちは歓声をあげながら入口の水だまりで足踏みして、光の屑をまき散らす。
 薄日を反射してキラキラ光る25メートルプールを見ていると、ふとナブラの海が思い出された。精霊の加護により荒れることも汚れることもなく、貧しい国民に大きな恵みをもたらしてくれた紫紺の海。
「陛下ととともに、サリカ湾から眺めたナブラの海を思い出しますわ」
 突然寄り添うように隣に立ったショートカットの少女に、ユーラスはぎくりと体を強ばらせた。
「き、妃」
「今は、5年3組37番、天城麻奈ですわ。遠縁の天城悠里くん」
 マヌエラは、いたずらっぽい笑みを浮かべて彼を見る。「そんなにびくびくなさらなくても、ただのクラスメートとしてお接しくださいませ」
 と簡単に言うが、ハイそうですかというわけにはいかないのだ。
 彼女を三番目の正妃として召し、その挙句さっさと王宮を飛び出して地球に来てしまった。そんな非道な夫を彼女は恨まぬどころか、同じ子どもの姿となって追いかけて来たのだった。
 男がこれほど負い目を感ずる状況というのも、あまりないだろう。
「そ、それにしても、この恰好はなんだ」
「あら、おかしいですか」
 マヌエラが着ていたのは、普通のスクール水着ではなく、まるで大正時代の白黒写真に出てくるような、半袖、五分丈ズボンのシマウマ水着だったのだ。
「手に入れるのに苦労しましたわ。だって、陛下以外の殿方に素肌をさらすわけにはまいりませんもの」
「よく、先生が許したな」
「肌が弱いので直射日光に当たれないと涙を浮かべたら、イチコロでしたわ」
 もともとがナブラ随一の美女。たとえ10歳の子どもになっても、その色気は隠しようがない。
「そこまでして、自由参加のプール開放日に来る必要はないだろう」
「だって、こういう場所は、陛下にとって浮気の虫の宝庫ですもの」
「悠里くん」
 向こうから走ってくるのは、川越美空以下、数人の同級生たちだ。
「よかった、来てくれたんだね。みんなで五分おきに電話した甲斐があったよ」
「さ、ひとりとばっかり話してないで、いっしょに泳ご」
 ぐいと手を引っぱられる。美空たちと麻奈のあいだに、目に見えぬ雷光が走った。
 そのときユーラスの背中に、暑さが理由ではない冷たい汗が伝った。


 タンスの鏡を見ながら、溜め息が出た。
 朝だというのに、首筋からもう汗がにじみ出てくる。この国の梅雨明けの猛暑は、洞窟や地下を根城としていた魔王にとって、かなり厳しい。
「佐和。結んでくれないか」
「はい」
 二本しか持っていないネクタイの一本を選ぶと、台所で洗い物をしていた妻が、ていねいに手を拭って、やってきた。
「今日は、スーツなんですね」
「ああ、取引先に行くことになっている」
 きゅっと衣擦れの音を立てて、ネクタイが巻かれる。首を締めつける感覚が、人間の王たちに鎖で捕らえられたときのことを思い出させて、ゼファーは苦手だった。
 洗面所に長い時間こもっていた娘が、ととっと駆けてきた。この頃、雪羽は自分の髪を自分で結いたがる。まだ完璧とは言えないが、最初はスチールたわしのようにぐちゃぐちゃだった髪型が、次第にまとまるようになってきた。
「幼稚園の用意はしなくていいのか?」
 父親の身支度を不思議そうに見ている娘に、わかりきった質問を投げかけると、
「だって、今日から夏休みだもん!」
 うれしそうに胸をいっぱいにふくらませて、そう叫ぶ。
「そうか。いいな、雪羽には夏休みがあって」
「父上のカイシャには、休みないの?」
「幼稚園の休みに比べたら、ほんの微々たるものだ」
「じゃあ、魔王のときは、休みあった?」
 無邪気な問いに、ゼファーは一瞬ぽかんとした。
「ああ」
 彼は遠くを見るような目をして、微笑んだ。「休むなど、考えたこともなかったよ」


 坂井エレクトロニクスの工場の階段に座って待っていた春山は、近づいてくるゼファーを見て立ち上がり、にやりと笑った。
「本当にあんたは不思議な人だ。そういう服を着て現われると、しがない町工場の製造主任なんかじゃなく、まるで大財閥の御曹司に見える」
「ネクタイを二本しか持っていない御曹司などあるか」
 からかわれたと思って、ゼファーは顔をしかめた。「さあ、さっさと行くぞ」
 ふたりは蝉の声に追いたてられるように、街路樹の影を選びながら歩き始めた。
「今日行くところは、カワキタ工業という社員15人ほどの町工場だ」
 タオルで汗を拭いながら、春山が説明する。
「マシニング加工や溶接を得意とする工場だ。だがこの頃、車やオートバイ部品の受注が目に見えて減り、この数ヶ月は、いつ潰れてもおかしくない状況だ」
「そこと、うちの会社が提携する意味はあるのか」
「うちが比較的弱い工程をそこに回すことで、受注できる機械が増える。設備投資を最小限に抑え、互いの得意分野を生かす。これは中小零細の町工場が生き残る、最善の方法だ」
「リンガイも、確か同じようなことを言っていたな」
「奴らといっしょにするな。目的が違う」
 春山は、苦笑まじりに答えた。彼は数年前まで、リンガイグループの一員だったのだ。
「俺は、提携先の社員をひとりだってリストラなどさせない。すばらしい技術を持っている会社を救いたいんだ。今のままでは、日本という国は、みすみす大きな宝をドブに捨てることになる」
「ああ。わかっている」
 ゼファーはうなずいた。「おまえには大きな荷物を背負わせてしまったな」
 営業の春山は連日、炎天下の中を、あちこちの製造業者を訪ねて歩き回っている。
 たとえ一台の機械でもいいから注文してほしいと頼みこむ。相手の細かい要求に応じたオーダー製造の実績を積むことが、坂井エレクトロニクスのような小工場の取るべき道だというのが、彼の信念だ。
 だが、どんな注文でも確実に受けるためには、旋盤、研磨、溶接、塗装といった、製造のあらゆる工程をこなす必要がある。ひとつの工場では無理だ。そのためには地域の町工場のネットワークを作るべきだと、春山は主張している。
 だが、毎日を生き延びることだけで必死な中小企業オーナーに未来を語ることは、生半可な覚悟でできる仕事ではなかった。
 春山の顔は、この数ヶ月で消炭を塗りつけたように真っ黒に日焼けしている。歩き回っているうちに、シャツが絞れるくらいぼとぼとになるので、会社に戻って着替えることも珍しくないらしい。
 春山は、入る気もない量販店のドアマットをわざと踏んで、中から漂い出てくる冷気に身をひたしながら、持参の水をぐびぐびと飲む。
「いや、あんたには感謝してるよ。昔たくさんの会社に対して犯した罪を、こうしてつぐなわせてもらっている」
「そうか」
「一度捨てた人生を、また取り戻したようなものだ」
 唇をぐっと拭うと、春山はまた強烈な太陽の下へと歩き出した。


 カワキタ工業の川北社長は、小柄で、度の強い眼鏡をかけた初老の男だった。
「また、あんたか」
 春山の顔を見て口の中でボツリとつぶやくと、また元通り、テーブルの部品の上にかがみこむ。
「今日は、うちの製造主任の瀬峰を連れてきました。わたしの話だけでは信用できないなら、この人と話してみてください」
「誰と話しても、同じことだよ」
 ゼファーは、春山の後ろで、静まり返った工場の内部をぐるりと見渡していた。
「いい工場だな。整頓がゆきとどいている。機械も、動線をみきわめた配置になっている」
 川北社長は顔を上げ、片目を眇めると、ぶっきらぼうに答えた。「当たり前だ」
「だが、なぜ昼間から誰もいないんだ?」
「このところ、週三日の時短操業が続いてる」
「ですから、そういう状態ならなおさら、うちの工場と提携してもらえませんか」
 春山がすばやく畳み掛ける。
「おたくの得意とするウォータージェットや溶接を引き受けてもらえれば、うちから仕事を回すことができます」
「どうせ、体よく利用され、安く買い叩かれるだけだろう。お断りだ」
「そんなつもりはありません。互いの得意分野を生かして協力することが、これからの製造工場には必要なんです」
「じゃあ訊くが、あんたたちはどれだけの定期的な注文を約束してくれるんだね。納期までの原材料費や光熱費は誰が面倒を見てくれるんだ」
「それはまだ、これからの話になります」
「ほら、設計図さえ描けていない。そんな甘い話に乗って傷口を広げるのは、もうお断りなんだ」
 社長は吐き捨てるように言った。「もういい。放っておいてくれ。新しいことに手をつける気はない。うちの工場は、このまま自然消滅で終わらせるんだ」
「川北社長!」
 なおも激しく迫ろうとする春山にゼファーは目で合図し、代わりに静かな口調で続けた。
「社長。俺たちを信じてもらうわけにはいかないか」
「……無理だ」
「わかった。邪魔をしたな」
 一礼して踵を返したゼファーを、春山はあわてて追いかける。
「主任、もうあきらめてしまうのか」
「……」
「奥さんが泣きながら話してくれた。あの社長は、数ヶ月前、腹心だと信じていた社員に金を持ち逃げされた。それ以来、やる気を失い、誰も信じることができなくなってしまっているんだ」
 ゼファーはひとつの機械の前で足を止めた。
 しばらくじっと見つめていたが、おもむろに上着を脱ぎ、ネクタイの先をシャツのポケットにねじこんだ。
 そして、そばにあったウエスを取り上げて、機械を丁寧に拭い始めた。
「おい、何をしているッ」
 社長はすぐに立ち上がり、サンダルをぱたぱたさせて駆け寄ってきた。「うちの機械に触るな!」
「古い油で汚れているので、拭いている。いい機械なのにもったいない」
「そんなことをしてもらう筋合いはない。もうその機械を動かすことはないんだ。離れろ」
 しかし、ゼファーはなおも手を休めることなく、拭い続けた。
「俺の率いていた軍隊に、鞍みがきの奴隷というのがいた」
 誰に聞かせるでもなく、話し始める。
「軍隊の中では最低の位だ。鞍みがきの奴隷と言えば、戦いにはまったく役に立たぬ無能な者の象徴だった」
 その漆黒の瞳は、遠い彼方の世界を、憧憬と痛みをもって見つめていた。
「一度だけ、ひとりの鞍みがきの奴隷が、部下を通して進言をしてきたことがある。『馬が疲れきっている、休ませてほしい』と。だが俺は、その言葉を信じなかった。無視して行軍を命じた。今になって思えば、あの奴隷は馬の状態や戦列のことが、きっと誰よりもわかっていたのだろう。彼のいうことに耳を傾けていれば、あるいは俺の軍は、あれほどたやすく滅びることはなかったかもしれぬ」
 川北社長と春山は、狐につままれたような顔で聞いている。
「この世界に来て、俺は坂井社長に拾われて製造主任となった。だが、実際は何の知識も技術も持たず、できることは機械を磨くことだけだった。だがその中で少しずつ、機械のこと、工場全体のことがわかるようになっていった」
 ゼファーの背中は、暗い工場の中で、ほの明るい光輪に包まれて見えた。
「さげすんでいた鞍みがきの奴隷と同じことを、俺は今も続けている。そのことを誇りに思っている」
 ゼファーは振り向くと、「社長」と呼びかけた。
「人を信じるのは、むずかしいことだ。だが、俺は本心から、おまえの工場が滅びてほしくないと願っている。もう一度考え直してくれないか」


 帰り道のアスファルトは燃える炉のようで、ゼファーと春山は、ひりつく肌を我慢して歩いた。
「俺は焦りすぎていたのかもしれない」
 春山がポツリとつぶやいた。「こういう仕事は、一朝一夕ではできない。わかっていたはずなのに」
「人の心は、そうたやすくは変わらないぞ」
「だが、時間をかけて手遅れになるのが、一番怖い。今の製造不況は底無しだから」
「我慢の日々が続くことになるな」
 春山の携帯が突然鳴り出し、ふたりは立ち止まった。
 携帯を耳に当てた春山の顔色が変わった。「それは、本当か!」
「悪い知らせか?」
 眉をひそめるゼファーに、春山は奇妙な笑みを返した。
「昔の同僚からだ。リンガイ・インターナショナルが今日、会社更生法の適用を申請した」
「なんだと?」
「つぶれたんだ。ハハ、あの会社が」
 春山は興奮して両の拳を打ち合わせると、まるで獣のように低いうなり声をあげて、飛ぶように歩き始めた。
「大変なことになる。リンガイと提携していた部品メーカーに連鎖倒産の嵐が吹き荒れるぞ」
 炎熱に白く照らされた街が、帰途を急ぐふたりの男の目に、妙に寒々として見えた。
「よかったな。主任」
「え?」
「坂井エレクトロニクスが、リンガイとの提携を蹴ったことさ。もし提携していれば、今ごろ共倒れだ」
「そうか」
 ゼファーはとまどったように答えて、唇を結んだ。
 会社が苦境に立つたびに、何度リンガイと手を結んでおけばよかったと後悔したことだろう。
 あのときの決断は間違ってはいなかった。そう思うことで、今さら何が変わるわけでもないが、それでも心に、ひとかけらの慰めを得た思いがする。
 工場に戻ったとたん、坂井社長が、二階の事務室からバタバタと外階段を駆け下りてきた。
「今、カワキタ工業の社長から電話があった!」
 喜びのあまり裏返った声で、社長は叫んだ。「うちとの協力の話、お引き受けしますと!」
 春山とゼファーは、信じられないように顔を見合わせた。
「今日は、次々と驚くことが起こる一日だ」
 女性事務員の高瀬が入口でにこにこしながら、コップの乗ったお盆をささげ持っていた。
「お疲れさまでした。どうぞ」
 ふたりの男は競い合うようにして水滴のついたコップをつかみ、一息にあおる。
 冷たい氷水が、焼けついた喉から腹の底まで、心地よく伝い落ちた。
 




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