BACK | TOP | HOME


夢を継ぐ者




 



 照明を落とした工場内で、工作機械の部品を分解してウエスで拭いていたゼファーは、ふと上を見上げた。
 二階の事務所に煌々と明りがついているのが、高窓から見える。
(社長は、まだ働いているんだな)
 ため息をつく。否応なしに、昨日の会話を思い出してしまったのだ。
「俺の今月の給料は、なしでいいからな」
 ゼファーは昨日の昼休み、社長の机の前で、そう宣言した。
「なにをバカなこと、言っとる」
 社長は笑い飛ばそうとしたが、口の端がひくっと引きつっただけだった。
「瀬峰主任の安い給料を出せないほど、うちは困っていないよ」
「そんなはずないだろう」
 事務の女性がおろおろと、ふたりを交互に見ている。
「第一、月給なしに家計はどうするんだ」
「俺のところは、まだ娘が小さい。学費もかからん。大学生の子どもがふたりもいる工場長や、病気の家族を抱えている日浅らとは違う。女房もそのつもりで金を貯めている」
「社員を無給で働かせるなんて、わしの目の黒いうちは絶対にそんなことはさせない!」
 坂井社長は大声で怒鳴って、そのあと急に風船がしぼんだように、ガックリと腰を落とした。
「わたしの責任だ。こんな情けないことになるなんて……いっそのこと、ひとおもいに死んで、生命保険金でも受け取ってもらったほうが……」
 ゼファーは、頭を抱えこむ社長の手首をがっしりと握った。
「そんなことは、俺が許さん」
 その顔は怒りに燃え、輝くように見えた。
「社長。もう二度と、今みたいなことは言うな」
「あ、ああ……」
 そのときのことを思い出すたびに、ゼファーは胸がしめつけられる。上に立つ者が、どれほど責任を感じるものなのかを、彼は知っていた。
 死を選びたいという誘惑に駆られる気持も、よくわかる。つい用事を作って、社長が帰宅するまで残業してしまうのも、その不安があったからなのだ。
 拭き終わった部品をそっと台の上に置いた。目を上げると、暗い工場の向こうの端に、もう一箇所明かりが灯っている場所がある。
 近づいていくと、最古参の工員、矢口と、若手の樋池が旋盤に屈みこんでいた。
「いいか、ここでスイッチをニュートラルに入れる」
「はい」
「回転が惰性になったところで、横送りハンドルを回す。しっかり数えて、いーち、にい、ほら、今!」
 ふたりの担当は、旋盤だった。特に65歳の矢口は四十年間、旋盤ひとすじにやってきたベテランだ。
 樋池は手に軽い障害があるため、それまでは梱包を担当していた。しかし、二ヶ月ほど前に志願して、旋盤担当の一員になったのだ。
 それ以来、早朝から夜遅くまで矢口は樋池につきっきりで、ねじ切りや穴ぐり加工を教えていた。
「バイトを引くのが遅い。だから欠けてしまう」
「すいません!」
「もう一度」
 気の遠くなるような細かい作業の繰り返しだ。
 ゼファーは二人に声をかけずに、その場を離れた。
 ふと見上げると、事務所の蛍光灯が消えるところだった。
 ゼファーは、拭っていた部品を丁寧に並べ、カバーをかぶせると、工場を出た。
 街灯に照らされて、社長の小さな後姿がひょこひょこと揺れている。ゼファーは少し後ろから社長について歩いた。
 車の往来が多い国道を越え、遮断機の上がった踏み切りを越え、無事に一人暮らしのマンションにたどりつく。
 その窓の明かりがポツンと点くのを確認してから、ゼファーはようやく家路に着いた。
 ――俺は、会社の倒産を阻止することができるのか。
 五十二人の社員を絶対に路頭に迷わせないと誓ってから、もう半年。
 リンガイ・グループとの提携を断って以来、会社の業績は、目に見えて悪くなっていく。このままでは、不渡りを出すのは時間の問題だろう。
 魔王の力が使えれば。
 そう考え始めている自分に苦笑する。人間というのは、打つ手が尽きたときには、ないものねだりをするものらしい。
 精霊の女王に、ほんのわずかな間だけでも魔力を返してもらえれば。
 ゼファーは夜の闇のなかで目をこらした。どこかの家の軒先で、ケイトウの濃赤の花が風に揺れている。
「精霊の女王」
 答えはない。
「……ユスティナ?」
 突然、気づいた。もう何ヶ月、精霊の女王の姿を見ていないだろうか。
 半年? 一年?
 いや、ことによると、もっとずっと前から――。
 不意にゼファーは、足元をすくわれたような、ひどい恐怖に襲われた。


 アパートに帰ると、玄関脇の窓から明るい光が漏れ、笑い声が聞こえた。
「ゼファーさん、おかえりなさい」
 佐和が満面の笑顔で出迎えた。
 いつもの夜ならば、ゼファーの分の夕食だけが乗っているつつましい食卓が、ご馳走とケーキで彩られている。
「シュニン。おキュウリョウです。おキュウリョウもらいました!」
 ヴァルデミールが、頬を紅潮させて、薄っぺらい封筒を差し出した。
「ヴァルさんたら、ケーキと、それから雪羽に洋服まで買ってくれたんですよ」
「父上ぇ。おようふく、ねえ、ねえ、似合う?」
 雪羽はピンクの可愛いワンピースを着て、ぴょんぴょん跳ねながら、ゼファーにまとわりついてきた。
 ゼファーは彼らの能天気な様子に、熱く煮えたぎったものが腹の底に生まれるのを感じた。
「うるさい。今何時だと思っている」
 三人は一瞬のうちに、ぎざぎざの氷に触れたように顔をこわばらせた。
「……すまん」
 ゼファーは背中をくるりと向けた。
「疲れている。今日は飯はいらない」
 ふとんを敷き詰めた奥の六畳に入って、開け放していた襖をガタンと閉めた。ひとりきりになるという意思表示だ。
 雪羽が、ふええと泣き出すのが襖ごしに聞こえた。
「すみません、奥方さま」
 しょげかえったヴァルデミールの声。
「わたくし、調子に乗りすぎました。今日は、これで失礼します」
「待って。ヴァルさん。もうちょっとのあいだ雪羽を見ていてくれる?」
 やがて襖がそっと開いて、佐和が入ってきた。
「ゼファーさん」
 背後で、妻が静かに正座する。
「ごめんなさい。雪羽を夜更かしさせてしまって。今日はヴァルさんが『相模屋弁当』に勤めて、はじめての月給をもらった日なの。だから、みんなでお祝いしましょうということになって」
「……」
「疲れているのね。ゼファーさん。熱いおしぼりを持ってきますね、それから、おにぎりも」
「佐和」
 夫を気遣う優しいことばに、みじめさが喉からあふれだしそうなのを制して、ゼファーはようやく口を開いた。
「俺は、本当は魔王じゃなかったのか」
「え……?」
「アラメキアを追放されて人間になったというのは俺の妄想で、はじめから、ただの人間だったのか。病気でそう思い込んでいただけなのか」
 佐和はしばらく返事をしなかった。
「……どうして、そんなことを」
「いくら呼びかけても、精霊の女王が答えてくれない。ほんのわずかな魔力も使えないんだ。たったひとつの工場を建てなおすことができない。死ぬほど思いつめている社長を……励ますことすら……できない」
 ゼファーの丸まった背中が、小刻みに震えた。
「本当は、全部……妄想だった。何もできないのに、誰も助けられないのに、魔王……だなんて……」
 膝の上で握りしめた佐和の拳に、涙があとからあとから滴り落ちた。
「私、前にも言いましたね。あなたは私にとって、永遠にゼファーさんだって。私の気持は今でも変わりません」
 佐和は、夫の背中に顔を押し当てて、両腕をぎゅっと回した。
 強く、強く。
「全部の力を失っても、あなたはゼファーさんです。雪羽も私もヴァルさんも――あなたが魔王ゼファーだということを、絶対に疑ったりしません」


 翌朝、始業時間よりずっと早く、門から工場の敷地に入ったゼファーに、矢口が声をかけてきた。
「おはよう、瀬峰主任」
「もう来ていたのか。毎日、精が出るな」
「ああ、樋池も、よくがんばってるよ」
 矢口は、首に巻いたタオルでごしごし頭を拭きながら、敷石の縁に腰を下ろした。
「どうだ。ものになりそうか」
「まだわからん」
 初老の男は、皺だらけの瞼をしょぼしょぼと瞬かせた。
「正直言えば、片手のハンデというのは、旋盤工にとっては厄介だ。左手で保持して右手で削る。ハンドル回しも両手でやらなければ、細かい送りはできない」
「そうだな」
「だが、樋池にはそれを補う集中力がある。何よりも目がいい。俺の言うのは、視力という意味じゃないぞ」
「ああ」
「主任。俺はうれしいんだよ」
 矢口はにっこり笑った。白い無精ひげが朝の陽光に映えて、きらきら光った。
「実は、何ヶ月か前に、そろそろ辞めたいと社長に申し出たんだ」
「そうか」
「俺ももう65だ。こんな年寄りがいすわっちゃ、余計に経営を圧迫すると思ってな。だが、社長に説得された。おまえは四十年培った技を、まだ誰にも受け継がせていないってな。そこへ、樋池が教えてほしいと志願してくれた。社長に勧められたと言ってな」
「社長が?」
「今のうちに、少しでも樋池に技術を身につけさせようと思ってのことだろう。このままじゃ、やつには転職先がないからな」
「……ああ」
「それほど会社の状態が悪いんだってことは、わかってる。……だがな、主任。あいつらには、未来がある。その未来を、俺たちが守ってやらなきゃ、いけない」
「ああ」
「俺は今、毎日が楽しくてたまらんよ。自分が若造の頃から見よう見まねで習い覚えたことを、次の若造が真剣に学び取ろうとしてくれる」
 矢口は汗を拭くふりをして、タオルで目のあたりを、こっそりぬぐった。
「生きがいってのは、こういうことを言うんだろうな、なんて柄にもなく、感激しちまってよ」


 ゼファーはその夜、近くの公園へ娘を連れ出した。
 大好きなすべり台に乗せようとすると、「あっち」と言って、ブランコに向かって駆け出した。
 ヴァルデミールからもらったピンクのワンピースが、ふわりと風に揺れる。
「父上、見てぇ」
 いつのまにか、ひとりでブランコを漕げるようになっていた雪羽に、ゼファーは驚いた。
 もうずいぶん長いあいだ、仕事が忙しくて、雪羽と公園に遊びに来たことがなかったのだ。
 子どもの成長というのは想像を超えている。ゼファーは後ろに立って、娘の小さな背中をじっと見つめた。
「ゆうべは、すまなかった」
「んー?」
「あれは、雪羽を怒ったんじゃない。自分が不甲斐なかっただけだ」
「ふーがーい?」
 雪羽の歌うような声が、遠ざかったり近づいたりする。
「ときどきアラメキアにいたころを思い出して、今の自分とのあまりの違いに愕然とする。吹っ切れたつもりだったのに、どこかでまだ吹っ切れていないものがある」
「父上、アヤメキアにかえりたいの?」
 雪羽はくいと振り向いて、バランスを崩しそうになり、あわててゼファーが鎖を押さえた。
「いや、帰るつもりはない」
「アヤメキアじゃ、いっぱいつよーい、まおうなのに?」
「それでもだ」
 ゼファーは娘を抱き上げて、秋の花々が揺れる花壇のそばに立った。
『アルト エルス。クルト エルス ラクミ(今のままでいい。ここが一番、いいんだ)』
 久しぶりに使った、アラメキアのことばだった。
『オーラァ(そうだね)』
 腕の中の幼な子は、まっすぐに父親を見つめ返しながら答えた。
「雪羽、おまえ……」
 ゼファーは目を見開いて、一瞬絶句した。「いつのまに、アラメキアのことばを……」
「雪羽、アヤメキア、しゅき。お花も、川も、山も、みんな、だいしゅき」
 きらきらと黒い瞳を輝かせながら、娘は笑った。
「アヤメキア、ぜったい、いこうね。父上と母上とヴァユ、みんなで、いこうね」
 胸に熱いものがこみあげてくるのを、ゼファーは感じた。
 矢口が言っていた、自分のものを受け継がせる喜びというのは、こういうことだったのか。
「さすがに、そなたの子だな」
 ふと気づくと、花壇のリンドウの上に透き通った裳裾を広げて、黄金色の瞳をした高貴な女性が立っていた。
「……精霊の女王」
「雪羽は、生まれながらに不思議な力を備えている。将来がとても楽しみだ」
「いきなり現われて、驚かせる。ずいぶんと久しぶりだったな」
「そうか。私はいつも、そなたのことを見ていたのだが」
 女王はいたずらっぽく、真珠色の顔をほころばせた。
「むしろ、そなたが私を必要としなかっただけではないか」
「よく言う。さんざん、呼んだのだぞ」
「それで、魔王よ。いったい何の用事だ?」
「いや」
 ゼファーは首を振った。
「やはりこれは、おまえの力を借りることではない」
「本当に、いいのか」
「ああ」
 彼の深い色の瞳に、いつもの落ち着きと自信が戻ってきた。
「これは、俺の務めだ。今の俺が持てる力で、戦うべきことだ」
 ゼファーは雪羽を地面に下ろすと、しっかりと手をつないだ。
「さあ。もう寝る時間だ。帰るぞ」
 公園を去っていく父娘の後姿を見ながら、精霊の女王は少しすねたように呟いた。
「まったく。佐和と雪羽さえいれば何もいらぬくせに。勝手なときだけ私を呼ぶのだからな」
 雪羽はそのとき、さっと後ろを振り向き、精霊の女王を慰めるかのように、花のつぼみに似た笑顔を見せたのだった。









背景素材: ふるるか
Copyright (c) 2002-2007 BUTAPENN.

NEXT | TOP | HOME