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   今回の予告は……

  どこから話せば良いのか判らないほど今回は複雑系。
  主人公に恋の相談!?
  不憫な子役登場?!
  『田処処』大パニック!!
  もしかして殺傷事件!?
  誰と誰の関係がどーなってんの!?
  平成日本の暗部を鋭く抉る一面垣間見せつつも、リレー小説第3弾、爆走です!!
  ひとつヒントを与えるなら、手作りクッキー(ドーナッツ)が今回のキーワード。



Side BISCUIT   第3話 「ザ・シークレット・ドラッグ『KAN‐PAN』、
      アンド・ウォーター・ブルー・ストーリー」

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 穂汰流は手首を切っていた。
 僕は慌てた。
 そうしてその動揺はやがて、自己嫌悪に似た感情となって僕を責めたてた。
 僕は、何もしてやれていない。彼女の心の支えになれていない。僕が傍から消えて しまうと、彼女は自分を傷つける。
 僕の存在は、彼女にとって無意味なのではないか。
 そんな風にして、論点をずらす。今この瞬間自分を責め立てている時も、本当に苦 しいのは僕にあらず、彼女本人なのだ。それだというのに、僕は。きっと、成長して いない。自分が悩めばそれで世界を変えられると思っている青さが、僕の不甲斐なさ に拍車をかける。
 多分きっと、穂汰流が求めている事はそういう事じゃない。
 僕がしなければならない事は何か。真剣に、考えろ馬鹿野郎めが。
「大丈夫か」
 夜の生み出す自然な暗がりに、僕が開けたドアから斜めに差し込む強烈な光。その 中にぼうっと顔面蒼白で穂汰流はへたり、座り込んでいる。寒さに凍えるみたいに小 刻みに震えている彼女は、それでも何とかうなづいた。
「私は、ここにいる」
「そうだな、そうだ。ここにいる」
 驚いた事に穂汰流はにっこりと、笑った。
 それで、ふっと縺れる緊張で絡まっていた糸が、解けた。
「今日、花火大会があるんだって」
「観に行くかい?」
 穂汰流は頷いた。電灯のスイッチを入れて、心まで明るく照らし出す。鮮やかとし か言いようのない真紅がフローリングの床一面に広がっている。
「貧血になるんじゃないか。こんなにしたら」
「使い終わったほうの血だから大丈夫」
「計算して切ってる?」
「ううん。ただ、色で判るだけ」
「そっか」
 ティッシュペーパーをケースから豪快に取って、穂汰流の血液を採取するように拭 き取って行く。
「ルミノール反応でまくりだよな、きっと」
 そんな言葉ででも和やかにできるなら言えばいい。穂汰流は薄く笑って、どうや ら、安堵している。落ち着いたようだ。彼女が自分を傷つけるテンションに移行する 瞬間を、僕は未だ観ていない。ただ、その彼女が持つ世界への喪失感だけは大切な人 を失った記憶の持つ僕にも、充分すぎるほど理解できた。確かに、死にたくなる。
 ドンドンドン!
 神様への発砲事件を思わせる、豪気な花火の音が聞こえてきた。
「立てるか」
「少し休んでから」
 ふらりと立ち上がると穂汰流は、タオルケットを羽織ったまま椅子に座った。男の 肩幅とは違う、明らかに細いその華奢なラインに僕は眩暈を起こし、まるでスナイ パーのゴルゴ13、背後に回ってその儚さごと抱き寄せる。
「生きていて、よかった」
 こういう時本音でモノを言えなくちゃダメになる。ストレートすぎる感情をそのま ま、僕は穂汰流にぶつけた。
「咽喉が渇いた」
 照れを内包して穂汰流は、別の切り替えし。
「何飲む?」
「ダイエット・コーラ」
「嗚呼。世界で一番矛盾した飲み物」
 注文を運んで、二人で飲んで、抱き寄せて髪を梳いて、互いの唇が再会する。
 外はきっと、花火大会でごった返している。たくさんの人々がいて、それぞれの人 生がある。多分世間の人たちが僕たちの関係に無関心なように、関心を持てない多く の人生たちは、こうした素晴らしい瞬間をそれぞれ誰かと共有しているはずで、それ を思うと僕は穂汰流と一緒に居られる自分を、ひどく、幸運に思えた。
 神様、僕は随分あんたを恨んだ。同様に与え、同様に奪う。たまたま奪う側に回さ れた僕の人生は、呪われて腐った。花火みたいに、天に唾を吐いた。けれども僕は爆 散せずに立ち直り、こうして生きている。今はそんなにあなたを恨んではいない。現 金かな少し。
「花火花火♪」
 着替えた穂汰流は爽状態で、僕に纏わりつく。アパートを出ると、いつもは少ない はずの人通りなのに、結構な人がうろうろしている。僕は少しうんざりする。人込み が苦手だった。それは穂汰流も同様。
「ひいちゃうよね」
「少しね。『田処処たしょしょ』にでも行ってみるかい」
「まだ開いている?」
 7時をまわっていた。
「多分、行けば何とかなる」
 番となった二人は歩き出す。夜道を照らす街灯の灯りが、一つになった影を伸ば す。浴衣姿の人たちがすれ違う。団扇が恰も蝶の様にひらひら舞って、まるで夢の中 にでもいるようだった。
 しかし、数分後その夢心地はもろくも崩れ去り、現実へと無理矢理引きづり戻され る事となる。その第1弾。
 とにかく、異常に人が多いのだ。二人は花火大会の行われる河川敷を避けて歩んで きたはずなのに、餌に群がる鯉のように人が増えていく。
「公園で何かやってるのかなぁ?」
 盆踊り? 穂汰流が疲労の表情で僕を見ている。
「あ」
 それを確認できそうな男が人込みの中から突然現れた。
「牙一郎!」
「ひえっ!」
 自称忍者の末裔、紺賀牙一郎である。
「は?」
 声をかけたのに「ひえっ!」という反応はおかしいだろう。しかし、牙一郎はきょ ろきょろ辺りを窺いながら、唇に人差し指を当て、
「しーっ! しーーーーっ!!」
「なんだよどうかしたのかよ」
「静かに、静かに。頼むから!」
「それは判ったけどさ、あの、この人込み。どうしてか知らない?」
 明らかに『心ここにあらず状態』の牙一郎だが、それでも質問に答えてくれた。
「近くの公園に、平彩まりが来てるんだよ」
「え? 平彩まりって、あの低姿勢アイドルの?」
「そう言えば彼女、ここの出身だって聞いたことあるわ」
「そうそれだよ。凱旋、っつっても海外行ってた訳じゃないけど、とにかく何かそう いうのでミニ・コンサート的なことやってるらしいんだ」
「そうか。それでか」
 違和感はあった。すれ違う男たちのカップル確率がこちらに近づくに連れ、男子の みのグループ、一匹狼、アキバ系、カメラ小僧の類に姿を変えていたからだ。まぁ、 それも無理はないだろう。平彩まりと言えば、大ヒットした映画『世界の中心で挨拶 をする』の主演で礼儀正しい女子高生を演じ大ブレイク。いまや押しも押されもせぬ トップ・アイドルなのだから。
「新曲披露するっていうんだよ。どこのメディアよりも早く。なんかその曲も緑川と か言う有名な作曲家が……あ。すまん青磁。あのさ、もしかすると俺の事を探しに女 の子の集団が行くかもしれないけど、俺の事は見なかった事にしといてくれ」
「女の子の集団?」
「モテモテね」
 その真意を確かめるまでもなく、
「では、さらば!」
 牙一郎は額のところで右手をさっと出し、文字通り人だかりの中に消えていった。
「何だか様子がおかしかったな」
「そうなの?」
「嗚呼、そうか。牙一郎と会うのは初めてだっけ?」
「うん」
「あいつん家、忍者の家系なんだって」
「なにそれぇ」
 穂汰流はけらけら笑った。牙一郎の様子はおかしかったが、一笑いもらえたので良 しとする。
 歩き出すと、
「お集まりの皆さーん。初めましてぇー! 会った事のある皆さん、こんばんはー! 自己紹介させていただきます! 私、この町で生まれ育った平彩まりと申しまー す!! それではさっそくですが、新曲聞いてくださぁーい! 『LOVE!平身低頭 恋してる』!!」
 けたたましい音楽が響きだす。
「これ、近所迷惑だなぁ」
「ちゃんと許可は取ってるんじゃない?」
「そりゃそうだろうけど」
 アイドルの歌声と同調するようにして花火が打ちあがり始めた。
「綺麗!」
「俺は何かもう、わけわかんな」
『L・O・V・E! I LOVE、まーり!』
 花火の鮮やかさと、打ちこみ系のテクノっぽいアイドルの曲がさながらトリップ・ アートのようである。眩暈を感じた。世界は平和だ。そう、思った矢先。
「青磁、あれ」
 穂汰流が指差す先に、少年が立ち尽していた。みんな花火とアイドルに夢中で、そ れに気がつかない。少年の着ている白かったはずのシャツは、よれてしまって、汚れ てしまって、尋常じゃないのは明らかだった。
「君、水原君だよね? どうした」
 僕はそっと彼に近づいて、頭に手を置いた。
「青磁、知ってるの?」
「うん。『田処処』の近くに住んでる、ほら、話しただろう? サギの巣食ってる家 の子だよ」
「ねえ君。どうかしたの? あれ。君、怪我してない?」
 穂汰流の指摘通り、服の汚れは血痕の様だった。
「おい、えっと、確か……色君だったよね。色君、大丈夫かい?」
 少年は沈黙して、押し黙ったままだ。
「このままじゃ埒があかないから、とにかく怪我を見よう。明るい所で」
「ねえ君、お家の人は?」
「そうだ。色君、一緒に家に帰ろうか」
 すると少年はいやいやと首を横に振り、穂汰流の後ろへ隠れてしまった。
「何だか家に帰りたくないみたい」
「そうは言ってもなぁ……」
 穂汰流はぎゅっと、少年の手を握っている。直接聞いたわけではないが、彼女は幼 少時代親に虐待を受けていた事があるらしかった。僕も両親のいない家庭で生まれた のではっきりとは判らないのだけど、穂汰流は少年に何かを感じているようだった。
「じゃあ水原さん家を迂回して『田処処』に行こうか」
「うん。ね、ボク、お姉さんたちと一緒に行こう」
 少年はうんと、頷いた。
 人込みを掻き分けるようにして、年若い親子連れみたいな僕たちは『田処処』に到 着した。暖簾は外されていたが、店内は明るい。戸を叩くと、華ちゃんが開けてくれ た。
「あら、赤尾さん。え? 色君じゃない、どうしたのぉー?」
「おやっさんいる?」
「もうすぐ帰ると思うんだけど、今ちょっと出てるの。何だか混雑してるみたいだか ら遅くなってるのかも。でも、本当にどうしたの? ちょっと由香、手伝って」
 華に言われて現れたのは、彼女と同年代と思われる女の子と特徴的な男子二人だっ た。
「あ。えっと、私の友達で、お留守番つきあってもらってたの」
 テーブルにはお菓子やらジュースやらが散乱している。お留守番と言うより、鬼の 居ぬまの何とやらに近いように見えた。
「お邪魔してます」
 韓国の女優みたいに髪をストレートにした由香と呼ばれた女の子がはっきりとした 口調で言い、にっこりと笑った。
「お邪魔なのは、僕たちのほうだよね」
「そんな事ないです。けど、何があったんですか?」
「それがよくわからないんだ」
 穂汰流と手を握ったままの少年は、今にも泣き出しそうな顔をしている。
「色君、こっちおいで」
 華が手を差し出すと、少年は穂汰流の顔を見上げた。穂汰流が「うん」と頷くと少 年は安心したように華に近づいた。
「あら、怪我してるじゃない。由香、奥で手当てするの、手伝ってくれない?」
「オッケー」
「あ。華ちゃん、ちょっと待って」
 僕はそっと華に近づくと、少年に聞こえないように小声、
「何か理由ありみたいなんだ。だから、水原さんの家には電話しないでくれないか な。おやっさんが戻ってからその辺、対応するようにしよう」
「はい。でも、手当てだけはしないと」
「それは、頼むよ」
 華はここから、普通の声で、勤めて明るく、
「あ。そうそう。これ、私たちが焼いたビスケットなんです。良かったら食べてくだ さいね。穂汰流さんも」
「ありがとう」
 少年と少女二人は奥へと消えていった。だから、見知らぬ少年二人とカップルは、 ぽつり。変な沈黙。気を使ったのかモヤシみたいな男の子が、
「あの、これ、華さんが焼いたもので」
 と、深い皿に無造作に盛り付けられたクッキーのようなものを差し出した。
「ありがとう」
「外れもあるけどなー」
 体格のいい少年が笑う。
「ありがとう」
 僕は受け取って、噛んだ。なんだか異常に硬い。
「これ、硬いな」
「あはは。それは外れだ。きっと、ドロンジョ様の作ったやつだな」
「華さんの作った方を食べてくださいよ。そっちの方がおいしいんです」
「ドロンジョ様って、さっきの、華ちゃんの友達?」
 ドロンジョ様と言えば『タイムボカン』シリーズのヤッターマンに出てきた敵キャ ラである。言われてみれば、この二人の男子もその手下、ボヤッキーとトンズラーに 似てなくもない。惜しむらくは、ドロンジョ様ほど先程の女の子はスタイルが良くな いという事だった。
「僕たち、その硬いのは噛み切れなかったんですよ」
 ボヤッキーは笑いながら「どうぞ」穂汰流にもビスケットを差し出す。
「嗚呼、俺、小さい頃からニボシばっかり食べてて、歯だけは強いんだよ」
 硬くて味も変なビスケットを飲み込んだ。
 と、突然戸が開く。すわ、おやっさんかと思いきや、違う。そこには見慣れぬ少女 たちが立っていた。
「あ、すいません。もう終わっちゃってるんですけど」
 てっきり客だと思ったのだが、それは違っていた。
「いえ。違うのですの。えっと、申し訳ありませんが殿方。こちらに、紺賀牙一郎様 は見えませんでしたでしょうか?」
 ふと、先程会った牙一郎を思い出す。あいつの言っていた自分を追っている女の子 たちとは彼女達のことだろうか。
「い、いや」
 突然の事で返答に困った僕の代わりに、少年たちが喋ってしまう。
「それって、さっき来た兄ちゃんの事かなぁ」
「嗚呼。やっぱりここに。それでその、牙一郎様は何かを渡してはいらっしゃいませ んでしたか?」
「さぁ? 華ちゃんと一緒にいたみたいだったけども」
「申し訳ありませぬが、その華さんはどちらに……?」
「奥に居るけど、呼ぶ?」
「ええ。是非……あ、あああああ!!」
 突然、その不審な女子が叫ぶ。
「どうしたのでおじゃりますか、弥生さん」
「どうしたもこうしたもないんですの。ほら、あれを御覧なさい!」
 少女の指差した先には、ボヤッキーの持つビスケットが。
「嗚呼、なんと言う事でしょう。間違いないわ!」
 まるで状況の飲み込めない4人は全員頭に「?」マーク。
「あのう僭越ですがお聞きいたします。どなたかそのお菓子を食べられた方はいらっ しゃいますでしょうか?」
「いや、お菓子なら全員食べたけど……」
「ひえっ!? あ、あの、ですね。でもその、その中でもこの形のお菓子を食べられ た方はいらっしゃいます?」
 弥生と呼ばれた少女はお菓子からそっと、ひとつのビスケットを摘み上げた。
「あ。それって華ちゃんの作った失敗したやつ」
「それ、硬くて誰も食べれなかったんだよ」
「え? 誰も食べなかった?」
 安心したような顔をする少女たち。しかし、嘘はつけない。
「いや、僕、食べちゃったけど……。歯強いから」
「あああああああ! それは行けません!!」
 少女たちはおろおろしっぱなし。これでは埒があかない。
「ね、ねえ。どうも状況が飲み込めないんだけど、その、判るように説明してもらえ ないかな?」
 僕が諭すように言ったのが功を奏したのか、女子群は一息ついて、落ち着かせると 自分たちの慌てぶりを説明し始めた。
「あなた方もご存知の通り、牙一郎様は闇の忍術を継承する・紺賀一族の末裔で御座 います。私どもは『十二単』と呼ばれる、代々紺賀家の頭首を密かにお守りする者ど もに御座いまして、その名の通り12人、交代で牙一郎様をお守りしております」
「そ、そうだったんだ!?」
 どうやら忍者だというのは本当だったようである。しかし、この現代社会にそんな 運命を背負った女の子たちがいるなど時代錯誤もはなはだしいような気がしなくもな い。
「はい。私たちは影となり常に牙一郎様のお傍に控え、頭首を身の危険からお守りし ています。しかし、その、何と申しますか、現在その牙一郎様の事で私たち『十二 単』がもめておりまして……」
 身内の恥を晒すのが辛いのか、弥生は口篭った。しかし、意を決したように、
「牙一郎様の女性問題で」
「じょ、女性問題?」
「そうなのです。頭首がどのような女の子に興味を持たれ様と構わないのですが、そ の、選ぶ女性に問題がありまして……。なんというか、その、ロリコン趣味とでもい いましょうか」
 そう言えば、確かに牙一郎は探偵の中学生助手に興味を持ち、最近はそれから乗り 換え華ちゃんにアプローチをしているらしかった。ふたりはいずれも美少女だが、よ くよく考えると健全な趣味とは言い難いものがある。
「頭首におきましては、もう少し大人の女性に興味を持っていただきたいと思うとこ ろで御座いまして……」
「それは判ったけど、その事とお菓子に何の関係が?」
「そ、それで御座いますの。実は先程申し上げましたように『十二単』内でも意見が 割れておりまして。私ども『牙一郎様に健全な恋を』派の他に、『牙一郎様の恋を応 援』派と、それから『恋はともかく立派な党首に』派に派閥が出来ておりまして…… どうやらそのうちの『牙一郎様の恋を応援』派の者たちが私ども紺賀一族に伝わる秘 伝・惚れ薬入りの乾パンを作ったことをキャッチいたしまして……」
 嗚呼、そうか。これは、だから、硬かったのか。
「牙一郎様の髪の毛が練りこまれた乾パンを食べた者は牙一郎様のお姿を見てしまう とたちどころに虜になってしまうのです」
「ふっ」
 穂汰流が、吹き出した。
「わ、笑うなっ。つまりそれって?」
「はい。これから24時間、あなたは牙一郎様のお姿を見てはいけません。見てしま うと猛烈な衝動があなたの中に巻き起こり……」
「わーっ、わーっ! わかったわかった。言わないでいい!!」
 なんていう事だ。気持ちが悪い。
「なんか眩暈がする」
「青磁、大丈夫?」
 立ち眩みを覚えて椅子に腰掛けた僕の肩に、そっと穂汰流が手を置いた。
「なんだか胸が熱くなってきたような」
「どうしよう。牙一郎君に青磁、とられちゃうね」
「楽しんでない?」
「少し」
「とにかく、24時間牙一郎様を見なければ大丈夫ですので」
「だってあいつ、どこから現れるかわからないもんなぁ……」
 さっきだって、群衆の中から突然あいつは現れた。
「弥生さん、この足音は……1?」
「あら? 嫌だわ。大変、赤尾殿、こちらに牙一郎様が向かって参りますの」
「ええっ!?」
「私ども、ここに姿を見せた事がばれるとまずいので消えますわね。くれぐれも、牙 一郎様を見ないように!!」
 それだけ言い残して跡形もなく、少女たちは霞のように消え去った。
「あ。お、お。ちょ、ちょ待てよ!」
 立ち上がり、ホリの物真似するキムタクみたいになった俺。うろたえる。
「惚れ薬なんて本当に作れるんですかねぇ」
「試して欲しいよな」
 少年たちは無責任なことを言い放っている。
「とにかく俺は、どうしたら……」
「あ。ダメ!」
 穂汰流が僕を、くるりと回転させた。背後から、声がする。
「よぉ!」
 牙一郎の声だ。
「こ、こんにちは。あ、あの、どうしてそんなにボロボロなんですか?」
「え? あ、ああこれ? ちょっとね、不良少女軍団に絡まれて。あのさ、それより も、華ちゃんいるかな。さっき華ちゃんに渡した乾パン、食べてくれたかなって思っ て……? あれ。どうしたの青磁」
 くるりと華麗なステップで牙一郎が回り込んで来る。危ない間一髪、僕は目を瞑っ てかわす。
「い、いやぁ、何だか眠くてさ」
 そのまま伏せて、椅子に着席、机に突っ伏した。
「そうなの? ふーん」
 怖い怖い。やばいやばい。今まで経験した事のない恐怖が僕を包んでいた。それを まるで知らない女子たちが少年を連れて奥から戻って来る。
「騒がしいわねぇ。怪我人がいるのよ」
「あ! 華ちゃん、こんにちは。さっきはどうも、あのさ、乾パン食べてくれた?」
 華の代わりに由香が答えた。
「あー、ダメよ! あれ、私が作ったって事にして、みんなに配ったんだから!」
「え、ええええ!!」
 そりゃ、うろたえるよな。
「あのさ、それって、華ちゃん、食べたの?」
「ごめんね。硬くて食べれなかったんだ」
「あ、あー、そー、そっか。硬くてね。そうだよね、そっか、なんだ。あ、で、そ の、他にそれ食べた人いる?」
 少年たちがからかい始めた。
「そう言えば、牧村さん食べたよね?」
「そうですそうです。食べてました」
「えー、そうだったっけ?」
「そ、そうなの?! き、君が。そ、そうか」
 僕は目を瞑っているので見えないが、きっと牙一郎は由香をいやらしい目付きで見 ているのだろう。
「な、何よ……?」
 見えないのだが、急に見つめ出した牙一郎に、ちょっと反応して顔でも赤くしてし まったら、牙一郎はきっと思い込むだろう。この女、俺に惚れてる!!
「華ちゃんも素敵だが、君も良く見たらかわいいな」
「はぁ? 何言ってるの!?」
「いや何も、そんなに照れなくても良いんだ」
 事情の飲み込めない華と由香以外、全員がうつむいて、くすくす笑っている絵が思 い浮かぶ。
「どうだいこれから、一緒にアイドルのコンサートにでも。近くに平彩まりが来てい るんだ」
「ば、バッカじゃないの。尚更ダメよ、今そこに私の彼がいるんだから」
「そうなの? でもそんな事言わずに、ほら、もっと僕を良く見て」
 きっとこの馬鹿忍者は、由香の手でも握ったのだろう。
「何するのよこの変態ッ!!!」
 で、張り倒されて、吹き飛ばされて、運悪く、その先には僕が座っていて、だか ら、二人はぶつかって、机が崩れて、椅子から崩れ落ちて、気がつくと、目の前に、 牙一郎が。
「あ。ごめん起こした?」
 見上げた穂汰流が一言。
「見ちゃった……」
 何とも言えない切なげな表情。
 ボヤッキーの方が一言。
「乾パン食べたの、牧村さんじゃなくて、その人」
 指差すトンズラー。
「え?」
 硬直する牙一郎。そして、
「ひえええっ!!」
 いきなり僕を突き飛ばし、
「馬鹿な。やめろ。おいこら。違う。あのな、青磁な、俺にそんな趣味は、だから、 俺に惚れるなんて、そんなのは、そんなの」
 後ろを向いてぶつぶつ震えながら呟いている。
 僕はもう、何だか判らない。でも、さっきから異様に身体が熱い。火照っている。 火照っている、ていう言葉、何てエロいんだろう。嗚呼、なんだこの熱い感覚は。こ れってもしかして、まさか。何だこの感覚。
「牙一郎……僕は、」
 言いかけた。
 と、そこに慌てた様子でおやっさんが駆け込んでくる。
「おお。やっぱりここに居たのか、水原君」
「お父さん、どうしたの?」
「水原さんの家で色君のお兄さんが傷だらけで見つかったらしい。幸い命に別状はな かったようだが、お父さんが発見してな。それで、この付近を包丁を持ってうろうろ している水原さんのお母さんが歩いているのを見たという人がいて」
 少年は華ちゃんの腰にしっかりとしがみついて、離れない。
「とにかく、色君を警察に連れて行こう。お父さんは今お兄ちゃんを連れて病院だそ うだから」
 そっと、穂汰流が僕の手を握って、囁いた。
「色君、かわいそう」
 穂汰流は子供の頃、親に虐待を受けていた。
 その手を強く、握り返した。
「牙一郎様!」
 いきなり、弥生が天井から現れて、
「ば、馬鹿。お前、なんで!?」
「大変です。こちらに包丁を持った女が向かってきます!」
「なんだって!?」
「それは水原さんのお母さんか?」
 おやっさんはこの特殊な状況を理解する事を無視して、瞬時に、
「色君を」
 かくまおうとしたのだが、時既に遅し、
「私の息子をどうする気ぃ!!」
 髪の毛を振り乱して包丁を持った中年の女が『田処処』の中に乱入してきた。
「おちつきなさい!」
 おやっさんが立ち向かい、一喝するが、血走った目付きの女は動じない。
「私の息子、私がどうしようと私の勝手でしょう」
 包丁を振り上げ、振り下ろし、お腹の辺りで両手に添えて、少年目掛けて突っ込ん だ。僕はその時、きっと、熱くなった脳のせいで、深く物事を判断できちゃいなかっ たんだ。穂汰流の手を離して、おやっさんと、色君の前に立ち塞がっていた。ぐさり と、包丁は間違いなく、僕に突き刺さっていた。豆腐でも刺すみたいな、簡単な感 触。でも、不思議と痛みはない。
「親は」
 包丁を握るその手を、掴む。
「親は子供の未来を担うのが本当で、子供の未来を奪う為にいるんじゃない!!」
 母親は刺してしまった事で我に返ったのか、その場にへなへなと座り込んでしまっ た。
 僕は包丁の突き刺さったまま、呆然と立ち尽くしている。
「なあ、穂汰流。僕、死ぬのかな」
 辛かった。無性に辛かった。残される者の気持ちを、僕は知っている。だから穂汰 流がその気持ちに耐えられない事も判っていた。
「ごめんな。……ごめん」
 僕は、気を……失わない。
「あれ?」
 全然痛くない。包丁を、抜いた。血が出ない。だけでなく、抜いた瞬間に傷口が、 消えた。
 そこに、警官が踏み込んで、母親を捕らえた。
「怪我人は?」
「いないと思います」
 僕は間抜けにそう答えた。
 穂汰流は、その後、僕の為にわんわん泣いた。
  ・
 後日談。
 正式に『十二単』の少女が今回の事を謝りにやって来た。
「実は、あの時惚れ薬だと思っていたモノは『恋はともかく立派な党首に』派の者た ちが密かにすり替えた一子相伝の無敵薬だったんですの。それをタイミングを見計 らって牙一郎様本人に食べさせる計画だったらしくて。その、修行の一環として」
 その無敵薬を食べた僕は、だから、刺されても平気だったのだ。
 じゃああの時牙一郎に感じた感覚は……いや、その事については考えない事にしよ う。
「色君はその後、どうなったの?」
「ああ。引っ越したそうだよ」
 穂汰流はぺったり、僕に寄り添っている。
「お父さんと、お兄さんと。お母さんとは離婚したらしい」
「お父さん、仕事の忙しい人だったのかしらね。あまりお母さんにかまってあげられ なかったのかしら」
「内情は知らないよ」
 平穏そうに見えるこの下町の、壁の向こうでは何が行われているか判らない。生活 と生活の隙間に、人々はそれぞれ暗闇の様な物を背負って生きているのだ。
「あれ? 今日は明石家さんまが来てるの? 平彩まりじゃなくて」
「どうして?」
「今明石家さんまの笑い声が聞こえたの」
「嗚呼、それはサギだよ」
 水原さんの家に巣食ったサギだ。
「サギの雛が巣立って行くんじゃないかな」
 できれば明るい方向に、小鳥が飛び立つことを僕は、心から願ってやまない。



  第4話につづく



企画/高橋京希、アンリミテッド・クローバーズ
制作/BUTAPENN



素材: a day in the life   師匠小屋