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EWEN

Chapter 3

 真夏とは言え、早朝の沈黙(しじま)の中、空気は清涼で透明だ。
 私はディーターのアパートへ向かうため、6時前に家を出た。
 学校が夏休みに入ってから、20日あまり。
 学校の剣道部の合宿から帰ってきてからの1週間というもの、私たち二人は毎朝、夙川沿いで早朝ジョギングをしていた。
 我が母校の剣道部は、今年こそ県大会の優勝、近畿大会の上位入賞、果ては全国大会という悲願に燃えていた。  そしてその要として、校長、顧問、PTAの皆様の熱い期待を受ける新主将の私は、その期待に添うべく、肉体改造に着手したわけなのであった。
 まあ早い話が、持久力がないのを合宿で身にしみた私が、夏休みのあいだにその弱点をなんとか克服すべく、ジョギングを始めてディーターにつき合わせているわけだ。
 朝は弱いほうではない。ないが、何事も三日坊主どころか初日から挫けてしまう意思の弱い私がこれだけ続けていけるのも、彼のおかげだと思う。
 ディーターといっしょにいるのが、すごく楽しいからだ。
 アパートの前まで来て、大家さんの菅さんに会った。
 通りの掃除をしている。
 うわっ、こんな時間に男の子のアパートを訪ねてるなんて、変に思われないかな。
 夜ならともかく、朝ならだいじょうぶだよね。
「菅さん、おはようございます!」
「おや、円香ちゃん、おはよう、早いのね」
「ジョギングです。ディーターも誘っていこうと、思って」
「ええねえ。若い人たちは」
 どこらへんがいいって言ってるのか、よくわからないが。
「彼、なにか、ご迷惑をかけてません?」
「いいーえ、何にも。礼儀の正しい子やわねえ」
 大家さんは上品な目じりの皺を深くして、笑った。
「挨拶はするし、ゴミの日もきちんと守るし、分別して出すし。日本の若い子やったら、こうは行かへんよ」
「ドイツ人ですから。ドイツ人はゴミにすっごいうるさい国民らしいですよ。ディーターもうちの家で、ビニールについている小さなシールまでちゃんと剥がしてます。どうせ西宮はそこまで分別収集してないから、無駄だって言ってるのに」
「まあまあ」
「それじゃ、これで。これからもよろしくお願いします」
 私はぺこりと頭を下げると、踝を返しかけた。
「あ、円香ちゃん」
「はい?」
「データーくんのことで、ひとつ気になることが」
 おばさんはディーの発音ができないので、つい「データー」になってしまう。
「お友だちに、合い鍵を渡してるらしいのよ」
「え?」
「このあいだ、3日くらい前、4時ごろやったかしら。年寄りやさかい、つい早く目が覚めてしまうんやけど、そこの窓からアパートの方、何とはなしに見とったら」
 菅さんは、向かいのご自宅の2階の窓を、箒の柄で指し示した。
「背の高い男の人が、自分で鍵を開けて、データーくんの部屋へ入っていくの。泥棒かと一瞬思ったけど、鍵を持ってるんやもんねえ」
「どんな人ですか」
「さあ、と言うても、まだ薄暗かったしねえ。老眼鏡もかけとらんかったし何やけど、黒い髪の毛で、着てる服も 黒ずくめやったような気するわ」
「はあ…」
「別にトラブルもないんやけど、ただ、外国人を入居させると人の出入りが多くて困るって、大家仲間から聞 かされて、ちょっと心配しとるんよ。円香ちゃんから、それとのう言うといてくれへんかしら」
「はい、わかりました。ご心配かけて、どうもすみません」
 私は一礼して、2階の外階段を上がると、一番奥のドアをノックした。
「おっはよう。ディーター。起きてるぅ?」
 ややあって、ドアが開いた。
「オハヨウ。マドカ」
「ぎゃあっ!」と、私は叫んだ。
「やめてくれるっ? パンツ一丁で、ドア開けるのっ」
「ゴメン。今起キタトコ」
 ディーターは、あくびをしながら奥の間に戻っていった。
「入ッテ。今スグ、服着ル」
 おそるおそる、靴を脱いで中に入った。彼は、今まで寝ていた布団を押入れにしまっている。
 それにしても、不思議なほど彼には体臭がない。普通ならこんな狭いアパートには、年頃の男性特有の匂い が充満しているだろうに。
 何でそんなことを知っているか、だって? ふふふ、これでも、鹿島さんの暮らすマンションには結構遊びに行っていたのだ。
 玄関からすぐに、六畳ほどのフローリングのダイニング・キッチン。隣り合ってユニットバス。一番奥に、さら に狭い一室。それでも、ひとり暮しにはもったいないほど広々として見えるのは、相変わらずものを何にも置いていないせいだろう。
 あ、でも。ひとつ増えてる。
「ディーター、この冷蔵庫、どうしたの?」
「下ノゴミ捨テ場ニ、ホカシテアッタ。大家サンニ聞イタラ、拾ッテイイッテ」
 少し得意げな、彼の声が聞こえる。
「へえ」
 まだ使える冷蔵庫が捨ててあったこともさることながら、彼が当たり前みたいに、「ほかしてあった」な んていう関西弁を使いこなしていることに、驚かされた。
 (因みに、「ほかす」は、「捨てる」という意味だ。関西人以外には、きっとわからないだろうな。)
 ディーターの日本語は、この二ヶ月足らずでまた、ぐんと上達している。
 発音も訛りが気にならないくらい、うまい。
 ああ、この分じゃあ、私が英語を片言でも喋れるようになるよりもずっと早く、彼が日本語ぺらぺらになってい るだろうと悟った。
 小さいながら、ちゃんとフリーザーもついている冷蔵庫を開けてみた。
「何なのよう。ビールしか入ってへんやん」
「飲ンデモ、イイヨ」
「朝から、んなもん、飲めるか!」
 ディーターは奥の間で、ブルーの短パンを履いているところだった。日本に来て三ヶ月半、ようやく買った衣類。先週、臨港線のユニクロで、Tシャツといっしょに私が見立ててあげたものだ。
 少しずつものが増えてはいるのだ。
 それが、彼が日本での生活に根をおろしている証拠のような気がして、うれしい。
「そうだ。ここに、誰か友だちが遊びにきたこと、ある? 2、3日前やと、思うんやけど」
「ウウン、誰モ、来ナイ」
「大家さんが、朝早く、人が訪ねてくるのを見た、言うてはるんやけど」
 ディーターは訝しげな表情で、間仕切りのところに立った。
「知ラナイ。間違イ、ダト思ウ」
「そうだよね。隣の部屋と、間違えたのかな」
「サ、行コウ」


 私たちは、爽やかな微風の吹く戸外に出た。
 坂の多い道を下って、上って、夙川の川べりに出る。
 桜並木の葉が、もう中天近くまで昇ってきた太陽の光を透かして、まぶしく輝いている。
 通勤客が集まり始めた夙川駅周辺を突っ切り、国道2号線を渡り、香枦園駅を過ぎ、国道43号線の高架下をくぐり、川沿いの舗装道路を香枦園浜まで走るのが、私たちのジョギングコースだった。
 水と、緑と、海に向かって吹く心地よい風と。
 最高に気持ちのいい、朝の景色。
 でも私には、景色を楽しむ余裕なんて全然なかった。
 ディーターに絶対に手加減しないでって、頼んであるのだ。
 ただでさえ歩幅が違うのに、彼のペースで走られたら、私は全力疾走なみに走り続けることになる。
 でも、それでなくては、持久力向上の効き目は9月までに表われない、と焦っていた。
 中央図書館のあたりに来る頃には、私はたいてい口もきけないくらい、へとへとになって倒れこむことになる。
 今日も結局、川そばの木のベンチに、ぐったりと坐りこんだ。
 汗が全ての毛穴からどっと噴き出し、肺は溺れて水を飲みそうになったときのように痛む。
 ディーターは何にも言わず、そのあいだ黙ってベンチの隣に坐っている。
「あーあ」
 トマトが真っ赤に熟れたみたいな顔が恥ずかしくて、私は首にかけていたタオルで目から下を覆った。
「やっぱり、これじゃ、続かないなあ」
「モウ少シ、ユックリ走ル、ホウガイイ」
 彼は、こめかみに貼りついた私の髪の毛を、長い指でそっとはずしてくれた。
「息ガ、デキナイ、走リ方、エクササイズニ、ナラナイ」
「そうね。これから、そうする」
 私は大きく深呼吸をして、立ちあがった。
「よおし、香枦園浜まで、もう一走りしよう」
 さらに行くと、桜並木が途切れ、突然視界が開ける。
 川幅は広がり、コンクリートの堤防は一気に退いて、河口から海へと姿を変える。ツーンと潮の香りが鼻腔をくすぐる。
 河川敷のように雑草の生い茂る浜に下りて行くと、茶色の砂がスニーカーの下でずぶりと沈んでいる。中州には、白いカモメ。そのすぐ横を、セーリングボートのカラフルな帆影が通りすぎる。
 対岸には、火星の移民都市のような芦屋浜の団地群と、真新しいリゾート施設のある鳴尾浜が迫り、なんだか箱庭の海のように見えるが、それでも私にとっては一番身近な海だ。
 ディーターは、長い金褐色の髪を背中から吹く風になぶらせ、翼を広げて空中に静止している1羽の白いカモメを見あげていた。
 ほんとうに彼は鳥が好きだ。あんなふうに空を飛びたい、と言っている。
 私も子どものころは、鳥になって空を飛ぶ夢をよく見ていたものだったが、今は見ない。
 飛ぶことが怖くなるのが、大人になった証拠なのだ、と思う。
 砂浜の上では、だんだんと日差しが痛く照りつけ始めた。
「もう、帰ろう」
 私は、空の高みに心まで漂わしているのであろう伴走者の腕を引っ張った。
 もと来たコースをふたたび辿って、走り始めた。
 来たときよりも、気温はぐんぐん上がっている。
 今日も35度を越えると、ニュースで言っていた。
 持ってきたペットボトルの麦茶は、もう2本ともとっくに空だ。
「ああっ、自販機や。ディーター、お願い。ポカリおごってぇ。給料もらってるんやろ」
「円香コソ、写真、売ッテ、モウケタ。ソッチコソ、オゴレ」
 しまった。そうだった。
 私の悪友、高地 瑠璃子がうちに遊びに来たときに、彼の生写真を売ってぼろ儲けしていたことを、私のいない隙にディーターにばらしてくれたのだ。
 しかたなく、香枦園駅の売店の自販機でスポーツドリンクを2本買うと、夙川公園の遊具に坐って二人で飲んだ。まったく、走ってるより休んでるほうが多いんじゃトレーニングにならない。
「ディーターって、暑さに強いね。ドイツって北国なのに」
「バンコクモ、暑カッタ。デモ、ココハ、ソレヨリ暑イヨ」
「関西はこの季節、世界一暑いらしいからね。お父さんは夏に弱いから、お正月しか帰って来たくないって言ってる」
「ソンナコトナイ。ドクトル・フキ、忙シイ。夏休ミ、ミンナ2カゲツ、休ムノニ、ヒトリダケ、働イテル」
「お父さん、ディーターと、いつもどんな話をしてたの?」
「イロイロ。ドノ『シュヴェスター』ガ、一番カワイイカ、トカ」
「シュヴェスター?」
「病院ノ、カンゴフ」
「あの、すけべ親父め。いったい、大学で何を研究してるんや!」
「葺石流ノ、コト、モ、話シテクレタ。武器ヲ持ツ怖サ。ドイツニハ軍隊ガアル、ケド、日本ニハ、軍隊ガ、ナイコト」
「ふうん。同じ戦争に負けた国なのに、違うんやね」
「今ハ、平和ダケド、戦争ニナレバ、ボクタチモ、戦ウ。ソレガ、トテモ、イヤ」
 すぐ隣のユーゴやボスニアあたりで、いまだに戦争が行なわれており、少し向こうに紛争のやまないイスラエルやパレスティナがあって、地続きになっているヨーロッパと。
 極東の、戦争なんてとっくのとうに終わったと、平和の意味さえ忘れている日本と。
 同じ若者なのに背負っているものが全然違うんだ、と私はひしひしと感じた。
「お父さん、ディーターと、そんなにいろんなこと話してるんだ」
「ウン。ボクノ、オトウサン、ミタイダッタ」
「なんだか、ちょっと、うらやましいな」
「エ?」
「あの親父、私にはそんなこと、なんにも話してくれへんかったから。大事なこと、いつも全然話してくれへんかったから。ディーターのほうが、お父さんの本当の子どもみたい」
 彼が、空き缶を握りしめて背中を丸めるのが、目の端に見えた。
「ゴメン、円香」
「ううん。なんだか少しうれしい気がする。お父さんのことを私以上に知ってるディーターが、まるでお兄さんみたい。一人っ子で、ずっとお兄さんがほしかったから」
 自分で自分の言ってることばに照れながら、隣にいる彼の体に軽く自分の体を触れ合わせた。
 ディーターも少し照れて、笑っている。
「ディーターの今のお父さんは、ドクトル・グリュンヴァルト、っていう人なんやね」
「ウン。ボクノ、ステップファーザー。法律ノ、父親」
「どんな人?」
「オジイサン。モウ、72サイ」
「ええっ! うちのおじいちゃんと、同じくらいやんか?」
「髪ガ、真ッ白。ヒゲモ、白イ。ダケド……」
 彼はそこまで言って、ふいに、口をつぐんだ。
 遠くをぼんやり見ている。
 その奇妙な沈黙に、思わず彼の横顔を見上げた。
"Er hat keinen Kopf."
「えっ?」
 私は、突然の意味不明なことばに、思わず大声で問い返した。
「ナニ?」
 ディーターはやっと我に返って、逆に私の叫んだ意味を聞いた。
「ディーター、今、なんて言ったの? ドイツ語? タイ語?」
「ナニモ、言ワナイ」
 怪訝な面持ちで、彼は私の顔を見た。
「でも…」
「ホントニ、ナニモ」
 と、戸惑いながら、困ったように微笑む。
 本当に、忘れてしまったんだろうか。
 けさ、菅さんが言った黒ずくめの訪問者のことと言い、今のことと言い。
 記憶障害。
 これでも、精神医学者の娘だ。そういう病気があるのは知っている。
 まして、彼には記憶喪失の病歴がある。もしかしてその後遺症なのかもしれないのだ。
「そっか。セミの声がうるさくて、空耳やったかも」
 私はさりげなく、でもできるだけ明るい声を出して、立ちあがった。
「さあ、そろそろ行こか。おなか、すいた。ディーター、今日は、仕事行くの?」
「ウウン、今日カラ、一週間休ミ。オ盆休ミ、ト言ッテタ」
「じゃあ、ずっと一緒に、いられるね」
 私たちの、短い、幸せで、同時に悲しい夏が始まろうとしていた。


 おじいちゃんがいて、ディーターがいて、鹿島さんも、お盆中は映画の撮影がないので、久しぶりに来てくれて、おまけに午後からは恒輝が毎日、稽古に来ては晩ご飯を食べて帰る。
 そのうえ藤江伯母さんは、ご主人の九州のご実家に年1度の帰省ということで、今週いっぱい手伝いに来てくれない、となれば。
 私は、男どもの飯炊き女と、化す。
 朝。昼。晩。まあ、これでもかというくらい、食ってくれる。
 貴重な16歳の青春の一夏を、何が悲しゅうて三食のおさんどんに、あたら散らしてしまうのやら。
「あー、あつ。スーパーに涼みに行こうっと。ディーター、買い物、行くよぅ」
 朝ご飯が終わって、洗濯と家の掃除が終わったころには、寒暖計はもう33度を突破。
 私は汗でよれよれになった服を着替えると、同じく、庭と道場の掃除を済ませたばかりの彼を呼ぶ。
 うちの家からスーパーまでは、ずっと急な下り坂。つまり帰りは上り坂になるわけで、しかも自転車も漕げないような急斜面。ディーターのような荷物持ちがついてきてくれると、すごく助かる。
 私たちは、頭上をおおう落葉樹の緑陰がまだらに彩る坂道を下っていった。
 私はレースのふちどりのついたタンクトップと花模様のスパッツ。女子高生のはしくれの意地で、何とかピンクの口紅だけつけてはいるが、中年のおばさんが被るみたいな日よけの帽子に頭を突っ込み、古びたサンダルを履いている。
 ディーターは、相変わらずの裾の破れたTシャツと、短パン。工事現場の人がくれたという野球帽をかぶり、うちの下駄箱に何年も置きっぱなしになっていた、お父さんのビーチサンダルをつっかけている。
 おまけに行き先は、近所のスーパー。
 デートというには、あまりにも風采のあがらない格好だったが、それでも私は、おしゃれをして出かけるより何倍も、友だちやボ−イフレンドとこういうときを過ごすのが好きだ。
 私たちはまず、スーパーの近所の、ドラッグストアのチェーン店に立ち寄った。
 祖父のかみそりと、私の洗顔フォームを買う。
 ディーターは実は、ドラッグストアや100円ショップが大好きで、1度入ると動かなくなる。
 珍しいものを見つけては、いったい何に使うものか考え込んでいる。
 特に、ベビーフードの種類の豊富さにはたまげたようで、おいしそうだからぜひ買ってみようとねだる。
 あんたのお腹を満たすには10こ買うたって足りひんよと、無理矢理、彼を店の外に引きずり出す。
 彼はときどき、びっくりするほど幼い。
 4年間の人生しか送っていない分、精神構造がアンバランスなんだろうか。
 私たちは、スーパーに入って、カートに籠をセットした。
「あ、まるごとスイカが安い。あれ、買おう。池で冷やしといて、今晩食べよ。あ。花火も、ある」
 夏休みの定番アイテムを見つけ、私はディーターを幼いと思ったことを棚に上げ、自分がはしゃぎまくった。
「お昼は、冷麺でいいよね。晩、何しよっか。ディーター、何が食べたい」
「カントダキ」
 関東炊きとは、関西で言う、いわゆるおでんのことだ。
「あんたって、ほんとに変な外人やね。あれは、夏はだめ。大根がおいしくないから。もっと他のない?」
 彼は必死になって、私の数少ないレパートリーを、頭の中で思い浮かべた。
 そして、吐息をついて、「カレー、カナ」
「よっしゃあ!それ、行こ」
 お盆休み初日ということもあって、お父さんも交えた家族連れが多く、中はけっこう込み合っていた。
 私たちは、野菜売場から始めて、冷麺とカレーとサラダに必要な材料を、かごに放りこんでいった。
 お手軽メニューとは言え、とにかく量がはんぱではない。すべての材料を普通の2倍ずつ買わないと、奴らの胃袋は満足しないのだ。はたから見ると、ボーイスカウトのキャンプにでも出かけるように見えたに違いない。
 通路を、小さな子どもたちが楽しそうに走り回っている。夏休みになったとたん、どこに行っても見かける光景だ。ほほえましい反面、いやな場面にも出くわすことになる。
 ほしいお菓子があるのか、ただ疲れてしまったのか、三才くらいの男の子が通路にしゃがみこんで泣いている。
 その子のお母さんらしい、茶髪のはでな女性が、ヒステリックに叱りつけている。
「あんたなんか、もう要りません! よその子になりなさい!」
 ひとごとながら、身のすくむような言葉だ。
 お母さんはそのまま、通路をどんどんと後ろも振りかえらず行ってしまい、男の子は前にもまして大声で泣き出すが、足がすくんでいるのか、母親を追いかけることができない。
 周りにいる人々はみな、固唾を飲んで眺めているか、何も見なかったふりをして、よそを向いてしまうか。
 昔ならどこかのおばさんが、ちゃんと子どもをあやしたり、母親をたしなめたりしたものなのだが。
 突然、私の隣にいたディーターが、すっと動いた。
 泣いている男の子を軽々と抱き上げると、大きな歩幅で母親に追いつき、その肩をつかんだ。
 振りかえった女性は、自分の子どもが、見上げるように大きな外国の男に抱えられているのを見て、「ひっ」と短い悲鳴を上げた。
「ボクガ、モラウ」
 そう低く言った彼の目は、こちらまで震えが来るほど、怒りに吊り上がっていた。
「オマエ、要ラナイト、言ッタ。コノ子ハ、モラウ」
 うひゃあ。それじゃ、人さらいじゃないの。
 母親の女性は、恐怖に顔をひきつらせながら、それでも我を忘れて、男の子をディーターの腕に飛びついてひったくった。「な、何すんねん!」
「す、すみません!」
 私は、カートを放り出してあわてて駆け寄った。
「この人、日本語がわからなくて、勘違いしてるんです。かんべんしてやってください」
 日本語がわからない、で済む問題じゃないだろうが、とりあえずは何か取り繕うことばが必要だった。
「け、警察、呼ぶで!」
 母親は捨てゼリフを吐くと、スーパーの外に走り去ってしまった。子どもを誰にも渡すものかと言わんばかりに、しっかりと腕に抱きかかえて。
 騒ぎに気づいたのか、店長らしい男の人が駆けつけてきたので、私は咄嗟にディーターのシャツを引っ張って、隣の通路に逃げ込んだ。
「あ、あうぅ」
 私はサルみたいなうめき声を上げて、その場にしゃがみこんだ。「疲れたよぅ―」
「円香」
 ディーターは、すまなそうに私を見下ろした。
「いいんだよ。ディーターは正しい。あの男の子を助けた。私かて、あの親にはぶちきれそうやったよ」
「オカアサンニ、捨テラレタラ、子ドモハ、死ヌ。日本人ハ、ワカッテイナイ」
 私は、彼がこんなに激した姿を見たのは初めてだった。
「そうだよね。日本は、少し、おかしい」
 怒らない私たちの方が、変なのかもしれない。私は立ちあがって、にっこり笑った。
「でも、ディーターは外国人なんやから、少しのことで大騒ぎになるんやで。気をつけんと」
「ウン」
「そんじゃ、レジ済ませて、帰ろう。今日はスイカもあるし、めちゃめちゃ重いよぉ」


 午後になると、憔悴しきった恒輝が稽古にやってきた。
「もう、死ぬ……。毎日、数学ばっかりで……」
 恒輝は今年、高3。夏季講習で、午前中はみっちり攻めたてられているらしい。
「うちの予備校は、お盆休みは、土・日の二日間だけやで。死んでしまうわ」
「国公立志望の子は、大変やなあ」
「しゃあないやろが。うちのおかんが、金がないから国公立以外行くな、て言いよるもん」
「愛だよねえ。愛。息子をいい大学に行かせるために、母は鬼になって」
「ああっ。もう、むしゃくしゃする! ディーター、今日こそは俺が勝って、三勝三敗の五分に持ちこむで。覚悟してろよ」
 恒輝とディーターは、あの最初の日の一戦以来、稽古以外の場所でこっそり5回対戦している。この間は、ようやく恒輝が2勝目をあげていた。といっても、道路工事の徹夜開けというディーターのコンディションが最悪のときの一勝だから、威張れたものではない。
「同じくらいの実力のあるライバルがいるちゅうのは、うらやましいな」
 いつか鹿島さんは、二人を評してそう言っていた。
「特にあの二人は、公私にわたるライバルやからな」
「何やのん。『公私にわたる』って」
「師範に認められるだけの実力を持つことが『公』で、円香ちゃん、きみが、『私』や」
「なにぃ。それ。あほらしーッ」
 でも、女の私が見ててもうらやましくなるほど、ディーターと恒輝は仲が良かった。
 稽古の合間に、二人はよく縁側に坐って、話をしていた。
「おまえは、将来何をしようって、思ってるんや」
「マダ、ワカラナイ」
「大学は、行かへんのか」
「ソノ前ニ、18サイニナルト、軍隊ニ入ルノガ、ドイツノ法律」
「そうか。ドイツには徴兵制が、あるんやったな」
「ボクハ、軍隊ニ、入リタクナイ。人殺シノ、練習シタクナイ」
「確か、兵役拒否すると、ボランティアを1年すればええって聞いたけど」
「ソレモ、キライ。ダカラ、旅シテル」
「ひでえ奴だな」
「ソウダネ」
 ディーターは、くすくす笑った。
「戦うのがきらいなのに、なんで、武道やろうと、思ったんや」
「人ヲ、殺サナクテ、スムカラ」
「へ?」
「人ヲ殺ス、練習スルノガ、軍隊。殺サナイデスム、練習ヲスルノガ、武道」
「はあ。そういうこと、考えてるのか」
「間違ッテル?」
「いや、その通りやと思う」
 恒輝は感心したように、言った。
「だから、師範はおまえのこと、気に入ってるんやな」
 稽古が済むと、5人で夕食。テーブルの真中に、特大のカレーなべと炊飯器とサラダをでんと置いて、勝手によそって食べてもらう。豪快な「円香流」食卓だ。こうでもしなきゃ、私はおかわりに忙殺されて、自分の分も食べられないのだ。
 お風呂は、師範のおじいちゃん、師範代の鹿島さん、兄弟子の恒輝、弟弟子のディーターという、順番がちゃんと決まっている。ちなみに、女の私は一番後。封建的と言われようと、これがうちの流儀だ。
「ディーター。これ、着てみて」
 私は、風呂場に行こうとする彼に、男物の浴衣を手渡した。
「ナニ、コレ」
「お父さんが、むかしむかし着てた浴衣。いっぺん着てみて。ちょっと短いかもしれへんけど」
 夜、縁台を庭に持ち出して、池で冷やしておいたスイカに、私たちはかぶりついた。
 お盆の頃ともなると、うちの庭は、秋の虫の音で早くもにぎやかになる。
 日中の日照りと湯船とで火照った体に、しみわたるような風が吹いてくる。
 私も久しぶりの浴衣に袖を通した。洋服に比べたら暑いけれど、糊のきいた浴衣は夏の匂いがして、背筋が伸びて、えもいわれぬ心地良さがある。
 おじいちゃんは8時過ぎには床に入る習慣だし、鹿島さんも、TV時代劇の夏休み前進行の超過密スケジュールに疲れたといって、あくびをしながら帰ってしまった。
「ええっ、恒輝も帰るの? 今から、花火しようと思ってたのに」
「あほ。俺は受験生やで。帰って今から、予備校の宿題や」
 結局、縁台にディーターと私、二人残されてしまった。
「しかたない。ふたりで花火しよう」
 今日スーパーで買ってきた徳用袋を開けて、ライターで火をつけた。
「オモシロイ」
「ディーター、花火、初めて?」
「大キイノ、見タコトアル。デモ、小サイノ、初メテ」
 父の浴衣を少し胸をはだけて着て、花火を見つめているディーターは、ぞっとするほど綺麗だった。私の食い入るような視線に気づいて顔を上げた彼に、あわてて、お父さんの浴衣よく似合うよと、ほめた。
「今日は、お盆の入りやの。死んだ人が、天国から帰ってくる日」
「ヘエ」
「昔は、迎え火、っていうて、死んだ人を呼ぶ火を焚いたりしたけど、この頃はもうしない。だから代りに花火を毎年してるんだ」
 花火のちかちかする美しい色を見つめながら、母の死んだあと一心に、お母さん戻ってきてと念じながら、花火をしていた頃の自分を思い出していた。
 ディーターが私に屈みこんで、唇にキスした。
 冷たい唇だった。
 私は、そのとき初めてのキスだったわけではない。
 中学の頃、同級生の男の子にキスされたことがある。好奇心が勝って、逆らわなかった。
 でもそのキスは、乱暴で、熱くて湿っていた。私は、人間の体の生々しさに気味悪ささえ覚えて、キスしたことを後悔した。
 ディーターのキスは、それと全然ちがっていた。冷たくて、優しかった。
 彼の唇が離れると、目を開いて彼を見た。
「……どうして?」
「円香ヲ、好キ、ダカラ」
 彼は透き通った薄い色の瞳で私をじっと見て、微笑んだ。
 私は、ぼんやりしていた。
 きっとうれしかった、と思う。
 でも、うそのような気もした。胸がしめつけられるような不安が、体を満たした。
「もう一度、して」
 彼は私にもう一度、唇を重ねた。
 私は、彼の両腕にしっかりと掴まった。
 私の手からすべりおちた花火は、地面の上でやがて燃え尽きた。


Chapter 3 End


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