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EWEN

Episode ⅴ
春の宵



 体が痒くなってきそうな春の宵。
 今まで毛穴を閉じていた冬の皮膚が膨張していく心地だ。家の外に出ても、あまりの寒さに亀みたいに首を縮こめる必要がない。
「春やねえ」
 葺石家の門灯のぼんやりにじんだクリーム色の明かりを見つめながら、私はあくびまじりの声を上げた。まだ9時過ぎだというのに、この暖かい気候のせいですっかり眠気がさしていたのだ。
 聖も、お風呂でぐずり続けた報いで爆睡中。ミニブランケットにくるまってディーターの肩に抱かれている。私も負けずに、彼の腕にしなだれかかった。
 ふたり分の体重を支えなければならなくなったディーターは悲鳴を上げた。
「よせよ、重たい」
「あはは。家族を持つ重みをひしひしと感じるでしょ?」
 そうやっていつものように夜の住宅街を散歩しながら、マンションに帰ろうとしていたときだった。バス道を横切ろうとして、私たちは一組の男女が歩いている後姿を見てしまったのだ。
 ワンピース姿の女がジャケット姿の男に、私が今やっているみたいに睦まじげに寄りかかっている。
「うそ……」
 その男とは、私の父、葺石惣一郎に相違なかった。
 そして私たちの見ている前で、父はその女性に、なんともはや、こともあろうに、
 ――キスをしたのである。


「ちょっと!」
 ディーターの後姿は、明らかに不穏な様子。
 父親の逢引現場を呆然と見つめていた私を引きずるように、坂道を早足で登り始めたのだ。
「まさか、あの女の人のこと、知ってるの?」
「さあ」
「うそっ、目が泳いでる」
 結婚3周年を迎えた熟練夫婦ともなれば、一瞬の視線の動きだけで相手の嘘がわかってしまうのさ。
 ベビーベッドに聖をそっと寝かせる儀式が終わると、仕事を口実に書斎へ逃げようとするディーターを寝室のベッドの上に押し倒し、詰問した。
「さあ、きりきり白状おし!」
「その……、一度だけ、会ったことがある」
 彼はとうとう降参した。私の性格からすると、真実を話したほうが大事に至らないと判断したのだ。
「どこで?」
「ドクトルといっしょに酒を飲みにいった店で。そこで働いてる女性だった」
 要するに、水商売の人ということなのだろう。
 これしきのことで、脳天をハンマーで殴られたみたいに感じている自分を発見する。
「あの、バカ親父」
 醜い罵倒が吐く息とともに、思わず口をついて出てきた。
「円香」
 ディーターはそれを聞いて上半身を起こすと、少し恐い顔をした。
 それだけで相手の言おうとしていることを察してしまうのも、結婚満三年の夫婦のあうんの呼吸というもの。私はしょんぼりと首をうなだれた。
「……ごめん。わかってるよ」
 理屈ではわかっている。
 私だって、これでももう大人だ。結婚もしている。男の生理も理解できるし、今さら、父が不潔だとかどうとか大騒ぎする年でもない。
 母が亡くなって十年以上経つ。父は、私の父親であると同時にひとりの独身男性だ。娘の贔屓目と割り引いても、50歳にしては若いしカッコいい。
 父が女性と付き合うのは覚悟していた。ケルンでたくさんのガールフレンドとデートしてると冗談まじりに聞かされたときも、鼻先であしらって平気だったはず。
 でも、ここはケルンじゃない。日本なのだ。母と父と私、親子三人で暮らした思い出のいっぱいある土地なのだ。
「お母さんと三人で散歩したあの道で、別の女の人とキスするお父さんを、見たくなかった」
 まるで駄々っ子のような私の愚痴が終わると、ディーターは問いかけた。
 じゃあ、円香は彼にどうしてほしい?
 訊かれて、はたと考え込む。
 母の思い出だけを胸に、女性には見向きもせずに父に一生を終えてほしいなんて、さすがに私もそこまでは望んでいない。いないけど。
「心がついていかへん」
 それを聞いて、ディーターは私の背中に手を回して引き寄せた。
「それなら、これはお父さんの問題なんじゃなくて、円香の心の問題だと思う」
「うん」
「誰でも時間が必要だ。自分が望んでいないことを事実として受け入れるためには」
「うん」
 私は何度もうなずいて、鼻をくすんと鳴らした。
 彼の腕の中では不思議なくらい素直になれる。臨床心理士目指して勉強している私なんて足元にも及ばないほどの最高のカウンセラー。
「ねえ、ディーター」
「ん?」
「お父さんをさりげなくフォローするってことは、私が死んだら、ディーターも別の女性とイチャイチャしたいと思ってるんやね?」
「……」
「黙ってる……ってことは、やっぱりそうなんや! この浮気者!」
「どうして、すぐ話をそっちへ持って行くかなあ?」
 また逃げ出そうとする彼に、私は思いっきり枕を投げつけた。


 私の問題だとディーターは言った。
 確かに私の心の中には、父と心が通じ合わなくて傷ついたままの、子どもの私が長いあいだ住んでいた。
 その後、ディーターとの結婚のとき何度も話し合って、そんなわだかまりはとっくに消えてしまったはずだったのに。どこかにまだくすぶっているものがあったのかもしれない。
 父と話し合わなければならない。
 私はある晩、夕食後めずらしく外出せずに自室にいた父を訪ねた。
「どないしたんや」
 毎日かかさず会っているのに、父は私の顔を見てうれしそうだった。入ってふわふわのラグを敷いたソファに座るように促すと、
「聖は?」
「今、庭でディーターに抱っこしてもろてる。このところ昼寝をしなくなった分、夜眠くてご機嫌が悪いねん。困ったもんや」
「何が困ったもんか。泣いてるところがまた、めちゃくちゃ可愛いで」
「そんな悠長なこと言うてられへん。毎日ぴいぴい泣かれる身になってみいな」
「無責任なこと言えるのが、じじばばの特権。子どもはすぐ大きなる。苦労する時代はあっという間に終わる。そのことを自分の子どものときによう知っとるから、どんなに無茶言うて泣いてるときも、余計に可愛いんや」
「私のときも、あっという間やった?」
「ああ」
 父は、うつむいて思い出し笑いを隠した。そして自分も隣に座る。
「えらいところ、見られてしもたそうやな」
「ディーターに聞いたん?」
「ああ、おまえがひどいショックを受けてるてな。久しぶりにあいつの目がマジで怖かった。殺されるかと思うくらい」
「ははは。天網恢恢ってほんとやね。まさかキス現場の唯一の目撃者が自分の娘夫婦やったとは」
「いつ誰に見られてもおかしくない場所で、ああいうことをしたのは軽率だったと思てる」
 父は居住まいを正して、まっすぐ私を見つめた。
「もう遅いとは思うが、ちゃんと説明する。彼女の名は坂下深雪さん。41歳。離婚して夜の勤めをしながら、中学生の男の子を女手ひとつで育ててる。人の気持ちを察する優しさのある、とても尊敬できる人や。遊びで付き合うてるわけではないが、互いに結婚する意志は今はない」
 照れくさげでもなく、かと言って不貞腐れている気配でもなく、淡々と大人の言葉で語る父を見ているうちに、モヤモヤした気持ちが喉元まで上がってきた。
 怒りでも悲しみでもない。もしかして嫉妬? そんなことは認めたくなかった。
 黙りこむ私に、父は眉根を寄せた。
「いや、か」
「そんなこと言う権利は、私にはあらへん」
 私は髪がぱさりと音がするくらい、強く首を振った。
「私はお父さんに十分大きく育ててもろた。もうちゃんと自分の家族もいてる。大好きな旦那さまと可愛い子ども。それなのに、お父さんだけはひとりで生きてって言える権利は、どこにもない」
「そうか」
「って立派なセリフやろ。ちゃんと練習して来たんやから」
「そうか」
 父は目尻に皺を寄せて、にっこりした。
「「お父さんに育ててもろた」と言うてくれて、うれしいよ。俺はおまえを一度捨てた、とんでもない父親やからな」
「捨てられたなんて、そんなこと、思てないよ」
「そうやな。捨てたっていうのは正確じゃない。反対に俺のほうが、おまえに置いて行かれたんや」
「え。置いて……行かれた? 何それ?」
「香穂が死んだ、あのときな」
 「香穂(かほ)」というのは、私の母の名前だ。私は身を固くした。父があのときのことを話すのは、たぶん初めてだったのだ。
「俺はずたずたになった。突然の交通事故。朝は元気で出かけていったのに、もう夕方には冷たい亡骸になって帰ってきた。医者として多くの死を見てきたのに、それまで患者の死に取り乱す家族に落ち着いてくださいなどと言ってきたのに、自分の妻が死んだとき誰よりも取り乱した。ほんとに情けねえ」
 父は自嘲するように口を歪め、私から視線をそらせて向こうの壁を見た。
「そのときから、俺の時は止まってしもた。おまえの目にどう見えていたか知らないが、俺はあのとき生ける屍やった。抜け殻みたいにただ惰性で生きているだけ。
おまえも母親を失って辛かったと思うが、俺にはそんなおまえの辛さを酌んでやる気力さえあらへんかった。すまなかったと思てる」
 父はしぱしぱと、数回まばたきした。
「あの頃、おまえはまだ髪の毛を肩の下あたりまで長く伸ばしてたんや。毎朝三つ編みにして、それをまた後ろでひとくくりにゴムで結ぶのが、お気に入りの髪型やった。
葬式がすんでから2、3日した日の朝、おまえは俺のところに来た。今日から学校へ行くから、髪の毛を結んでくれと言う。
四苦八苦して十分もかかって結んだが、もつれてグシャグシャやった。それでもおまえは文句も言わず、朝になると黙ってゴムを持って俺のところに来るようになった。
今やから言うが、俺は髪を結わえながら、おまえの後ろでこっそり泣いていた。母親を亡くし、それでも寂しいとも悲しいとも、ひとことも言わないおまえが不憫でならなかった。
ところが、1月くらい経った頃やろか。おまえは突然、ばっさり髪の毛を短くしてしまったんや。
驚いて訳を尋ねると、「床屋さんに行って切ってもろた。これでちょっとでも朝寝坊できるから」
そう言って、迎えに来た恒輝たちの後を追いかけて、ランドセルを背中でカタカタ鳴らして走って行った。
俺はそのとき、おまえの後姿を見て愕然としたんや。負けたと思た。
円香、おまえは母親の死を乗り越えて、成長して未来に向かっていく。俺だけが、父親である俺だけが妻の死にうちひしがれて、いまだにめそめそと過去に住んでいる。
このままではダメやと思った。俺も負けずに歩き出さねば、俺の存在はいつか、おまえにとって重荷どころか、害にすらなる。
そして、決意したんや。グリュンヴァルト博士の論文を読んでからずっと行きたいと思っては諦めていたドイツ留学の話を受けることを。
俺のしたことは見ようによっては、日本から、香穂の思い出から、娘のおまえから逃げ出したことになるのかもしれん。実際そのとおりだと思う。
だが、生きることに絶望していた俺にとって、ケルン行きは未来へ歩き出す最初の一歩やった」


 父の長い話が終わってからも、私はぼんやりとしていた。
 髪を短く切ったのは、なんとそれが真相だったのだ。前にも書いたとおり、父がドイツに行ってしまってからの話だと私はずっと思い込んでいた。
 うすうす気づいてはいたが、私ってやっぱり頭が悪いのか。でも、いくらなんでも、そこまで記憶が抜け落ちるはずはない。
 たぶん、あのときの父は、それほど幽霊のような存在だったのだ。
 父が私を残してケルンに発ったのは正しかった。もしあのまま私とこの家で過ごしていたら、私たちはお互いに相手のために生きるようになっていただろう。相手を気遣うあまり、いや相手を口実にして、自分の人生を自分のために生きることができなくなってしまっただろう。
「香穂のことを忘れたことはない」
 父は続けた。
「だが、俺は自分を過去に縛りつけて人との出会いを避けようとは思わなかった。真剣に生きていれば、男性であれ女性であれ、人と互いに胸を震わすような瞬間が必ずある。俺はそれを大切にしたいと思てる。たとえその相手が女性で、恋愛という形に結びついてもや。そして香穂もそれを許してくれると思う。
だが10年間そうしてきたけど、あいつよりも恋しいと思える女には今までめぐり合えへんかったな」
「ほんまに?」
 父ははにかんだような笑顔で、私の頭をそっと撫ぜた。
「円香、おまえはいつのまにか、お母さんそっくりのええ女になったな」


 別棟の診療室から廊下伝いに母屋へ戻ると、縁側にディーターと聖が座っていた。
 聖は胡坐をかいた彼の膝にゆったりと抱かれている。
 春の朧月に照らされたその後ろ姿を見て、母に先立たれた11年前の父と私に重なり、私は父の部屋では我慢できた涙がぼろぼろとあふれ出るのを感じていた。
「ディーター」
 小さな咳払いを何回かして涙を追いやってから、彼に呼びかけた。
「聖、寝た?」
「ああ、やっとね」
「ありがとう……。おかげでお父さんとちゃんと話し合えたよ」
 私は彼の隣に立って、軒先にぶらさがる月を覗き上げた。
「不思議やね。自分が親になって初めて、親でいることの頼りなさがわかる。お父さんもそんな頼りなさをずっと感じながら、これまで生きていたんやなって思ったら、なんやすーっと気持ちがほどけた」
「ふうん」
「うん、そうやの」
 私たちはそのまま、並んで庭を見ていた。20年間私を育んでくれた庭だ。
 うまく言葉にすることができないけれど、私はその瞬間、自分が自分であることがしみじみとうれしいと思った。お父さんとお母さんの子どもとして生まれ、この古めかしい家で成長し、ディーターとめぐり合い、そして聖を与えられたことが、心からうれしいと思った。
「ねえ、私がもし先に死んでも、別の女性を好きになっていいからね」
 彼はびっくりして私を見て、そしてからかうように微笑んだ。
「そんな心配はしなくていい。俺は何年もひどい生活をしてたから、きっと円香より先に死ぬよ」
「ところがそうやないの。葺石家は代々、女のほうが先に死ぬってジンクスがあるねん。ほら、お母さんもおばあちゃんもそうでしょ? なんでも5代前までさかのぼっても、全部奥さんのほうが早死になんやて」
「……」
「美人薄命って言うし、覚悟しといたほうがええよ。私が死んだら、聖とふたりでがんばって生きていってね」
 私は彼から聖を抱き取ると、「さ、早くうちへ帰ろ」とすたすた玄関へと歩き出した。
 ディーターはマンションへ帰る間じゅう、無言だった。もしかしてその間ずっと、私が死んだあとの生活を頭で思い描いていたのかもしれない。
 それから数日間、彼がやたらと私に優しかったのは、もちろん言うまでもない。




   

「二周年記念キャラ人気投票」第10位の「ドクトル・フキ」こと葺石惣一郎です。
   
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