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Don Giovanni
(ドン・ジョバンニ)

by 「夜叉往来」チーム



「吉祥天よ。こちらへ」
「はい。あなた。こうやって並んで観劇などとは、もう何百年ぶりでしょうか」
「感激じゃな」
「あなた……本編に一度も出てこなかったので、その本性はまだバレていませんでしたのに」
 ここは須弥山第四層、水精宮。
 永年にわたる天界への反逆の罪により、今なお軟禁状態にある毘沙門天が、妻である吉祥天とともに、おわしますところ。
 その不自由な御身を慰めるために、縁(えにし)ある者たちが、地上界の楽しみ、オペラなるものを上演しようと計画したのだった。
「ですが、本来ならば人間の体のまま、天界に入ることは固く禁じられていますのに、これは如何なる御仏のご配慮でしょうか」
「うむ。地上界の夜叉追いたちや、地獄にいる誠太郎や信野はともかく」
 毘沙門天は、感無量といった面持ちでうなずいた。
「夜叉八将の大将であった宝賢まで呼び寄せることができるとは。彼奴は存在自体が無に帰しておったので、神仏といえど再構成するのが、さぞ大変だったろう」
「天界のお考えは、いずこに」
「宝賢の生前の行ない、邪悪とばかりは言い切れぬものだった。少なくとも若き頃は、夜叉との激しい戦いに身を置き、苦悩の果てに悪へと堕落したのだ。そのことを天界も、充分ご存じであられる。今ひとたびの機会を与えようということになってな」
「まあ、それでは今日上演される劇とは」
「宝賢が悪の道から改心する可能性があるかどうかを量ろうというものだ。もちろん生前の記憶は奪われておる。登場人物同士の結びつきの中で、彼奴が悪の道を改めればよしとする。これこそ、御仏の慈悲であるぞ」
「わたくし、それとも知らずに……感激いたしました」
「おまえも、人のことは言えぬな」
「うふ」
「それならばと、夜叉追いたちも全面協力を申し出てくれたのだがな。問題は統馬だ」
「統馬がなにか」
「舞台になど絶対立ちたくないと、最後までゴネておったらしい」
「ほほ。あの子らしいですわ」
「しかたなく、登場人物全員の記憶が一時的に封印されることになった」
「皆、劇中の人物になりきっているということですね」
「統馬は常に宝賢と行動をともにする、大切な狂言回しの役目じゃ。さらに、統馬本人も一度は夜叉に身を堕とした男。きっと宝賢にとって、良き導き手となろう」
「心して、見守っていくことといたしましょう」




配役表:

常磐屋仁兵衛(じょうばんや・にへい ドン・ジョヴァンニ): 宝賢
常磐屋の近習・隷歩(れいほ レポレッロ): 矢上統馬
関白左大臣・近衛前継(このえ・まえつぐ 騎士長): 矢萩龍二
左大臣の娘・安子(やすこ ドンナ・アンナ): 鷹泉董子(久下の前世)
安子の許嫁・安倍有雄(あべの・ありお ドン・オッターヴィオ): 草薙
武家娘・由羅(ゆら ドンナ・エルヴィーラ): 矢上詩乃
村娘・お照(おてる ツェルリーナ): 矢萩信野
お照の婚約者・乙松(おとまつ マゼット): 矢上誠太郎



第一幕


 いつの時代であるかは、定かでない。
 時は夏の真夜中。
 公家屋敷の庭、組垣に凭れているのは、折烏帽子をかむった若い男。有力商人の側に仕える近習と見える。
「いったい、いつまで待たせる」
 男は、募るいらだちに、吐き捨てるようにつぶやいた。
「何の因果で、あんな色狂いの主人に仕える羽目になったものだか」
 屋敷のほうから、足を踏み鳴らし、言い争う声が聞こえてきたので、彼は素早く姿勢を屈めた。
 ここは、関白左大臣の屋敷。襖を開け放って現われた女人は、左大臣の娘、安子であった。
 そして、彼女に、しっかと袖を掴まれているのは、歌舞伎役者をはるかに凌ぐ美貌と謳われる、大坂の豪商・常磐屋(じょうばんや)の若主人、仁兵衛。
「逃げても無駄でございます。死んでも離しません」
「愚かな女め。おまえになど、もう用はない」
 その騒ぎを聞きつけたか、奥の書院に通じる庭の木戸がばたりと開き、寝巻き姿の老齢の男が前庭に駆け込んできた。
「おのれ、姫を放せ!」
 老人は長槍をぐいと突き出した。「狼藉者め。この近衛前継と、いざ尋常に勝負いたせ」
「老いぼれめ。おまえでは相手にならぬな」
「娘を汚したあげく、逃げるつもりか。いざ、戦え」
「ふん、それほどまでに言うのなら、相手になってやろう」
 その様子を眺めながら、
「ち、厄介なことになった」
 庭の男は苦笑いしているが、主の危機にも一向に動こうとはしない。
 常磐屋は腰から剣を放つと、二三度、戯れるように槍を受けてから、閃光のように剣先を突き出した。
 左大臣の白い着物は、またたくまに鮮血で赤く染まった。
「む……無念じゃ」
「ふふ。もだえ苦しめ」
「命の火が……体を離れていく」
 うずくまっていた近習は立ち上がり、そのおぞましい光景にうっすらと笑みを浮かべた。「魂が抜け出た」
 彼の目には、老大臣の体から立ち昇った霊気が、常磐屋の大きく開いた口に残らず吸い取られていくのが、まざまざと見える。
「さて――隷歩(れいほ)よ。どこにいる」
「はい、ここに」
 隷歩と呼ばれた先ほどの男は、片膝をついて頭を垂れた。「死んだのは、どちらです?」
「たわけ。老いぼれに決まっているだろう」
 刀の血糊を懐紙でぬぐいながら、常磐屋は息も乱していなかった。
「よくぞ一夜にして、ふたつも悪事を重ねられたものです。娘を手篭めにした上で、父親は斬り捨てる」
「あちらから望んできたのだ」
「娘のほうも、望んだことだと?」
「無論さ。どの女が俺の抱擁を拒めるものか。おかげで、一度にふたつの魂を得られた」
 常磐屋は冷たい笑いを口元に刻みながら、従者との軽口を楽しんでいる。
「家の中が騒がしくなってきた。そろそろ引き上げるとしよう」


 大きな悲鳴が上がった。
 助太刀を呼びに行った安子姫が、家人たちとともに駆けつけたのである。
「父上!」
 惨状をひとめ見るなり、安子は卒倒した。
 ふたたび気づいたとき、ひとりの身なりのよい貴人がその手を握っている。
「いや、放して! この極悪人」
「姫、落ち着いてください。わたしです」
 心配げに覗き込んでいるのが、許嫁(いいなずけ)の安倍有雄であることを知ると、安子の顔はみるみる嗚咽に歪んだ。
「父上が……血だらけで、息も止まり、死の色に覆われて」
「承知しております。むごいことです」
「ああ、いっそ後を追って死んでしまいたい」
「姫、お気を確かに。誰がこんなことを。犯人は誰なのですか?」
 安子は彼の腕を振り払うと、よろよろと立ち上がった。
「復讐してください。父を殺した犯人に」
「……」
「復讐を誓って。私たちの愛にかけて!」
 そのときの安子の瞳は、紅蓮に燃えさかり、怒りに吊り上がり、まるで鬼のように見えた。


 夜が明け染めたころ、関白左大臣の家から首尾よく逃げ出した常磐屋たちは、都の東大路を南に下っていた。
「どうした、隷歩」
 足を止めた連れに常磐屋が振り返ると、隷歩は無表情な顔を、うっすらと怒りと侮蔑に彩らせていた。
「あんたは最低です。羅生門に棲む鬼より、性質が悪い」
「ふ、ふ、何を言い出すかと思えば」
 愉快そうに笑いながら、常磐屋は刀を鞘のまま突き出した。隷歩の烏帽子の紐が解けて地面に落ちる。さらに前髪を押しやると、額に刻まれていた小さな黒い刻印が露わになった。
「百二十年俺に仕えてきたくせに、まだ偉そうに御託を並べるのか。この種字がある限り、おまえは俺を離れては生きられぬというのに」
「……いっそ、死んだほうがましです」
「たわけめ。本当にそう思うなら、逆らってみろ」
 常盤屋は隷歩の襟をぐいとつかむと、形の良い唇を、かっと耳まで裂けるほどに開けた。
 その奥知れぬ赤い洞窟の中から、かぐわしい霊気が漂ってくる。
 隷歩は抗うことができず、自分の口を近づけて、気を貪り食らった。
「どうだ。美味であろう。高貴なる姫君の味は。少々あの老いぼれの臭気が混じっているが」
「……」
 膝が力を無くし、ずるずると地面に座り込む。
「俺は他の夜叉たちのように、戦を起こしたり、無闇に大勢を殺したりすることはせぬ。面倒くさい。それよりも、人間のふりをしながら、美味なる女の魂を吸い続けるほうがよい。これからも極上の霊気が食いたければ、俺の狩を手助けするのだ。獲物の数が満ちたときは――隷歩、おまえにも、夜叉の位を授けてやろうほどに」
 常磐屋は、つと空に目を向けると、ほくそ笑んだ。
「都の外から、たくさんの良い女の香りがするな。行くぞ」


 ひとりの女が侍女とともに、東大路を北へ上っている。
 身分の高い武家の娘と見える。手甲脚絆の旅装束。美しい顔には、長旅のやつれがあった。
 道端の小さな地蔵堂の縁に腰を下ろす。腰元が食べ物を買いに姿を消すと、娘はひとり、闇の底をにらむような目をして、叫んだ。
「どこへ行ったの、あの男は。見つけたら、今度という今度は逃がしはしない」
 都の外へと急ぐ途上の常磐屋は、娘の姿かたちの可憐さに目を留めた。
「聞いたか。男に捨てられたらしい。憐れな」
「絶対に赦すものか。ひどい目にあわせてやる」
「俺が慰めてやろう」
「……またですか」
 うんざりしたような表情の従者を残して、人間の形を取った夜叉は舌なめずりをしながら、近づいた。
「娘御。失礼するぞ……あっ」
「あなたは、常磐屋仁兵衛!」
「お由羅!」
「こんなところに。このならず者。下郎。嘘つき!」
 由羅は帯から小刀を取り出した。
「待て。俺の話をまず聞け」
「何を聞けというの。屋敷に忍び込み、強引に私を奪っておいて。祝言の約束までしながら、三日で姿をくらました!」
 般若のような形相で、小刀を振りかざす。
「ここで会ったが百年目、覚悟はいい?」
「こんな面倒な女に関わっておれぬ。後はまかせたぞ」
 常磐屋は近習の若者を由羅の前に突き飛ばすと、あっという間に消えた。
 隷歩といっしょに地面にもんどりうった娘は、常磐屋が逃げたことを知ると、地面の土をつかんで、すすり泣いた。
「あんな男に惚れた罰だわ」
「……」
「あれから私は、『素性も知れぬ男に操を奪われた女』と、一族から蔑まれた。あいつを探し出して仇を討ってこいと命じられたわ――体よく厄介者を追い出したのよ。もうわたしには帰る場所もない。それでもあの男を愛しているの」
 いつまでも泣き続ける女を見つめながら、隷歩はなす術もない。
「あいつに魂を食われた女が、本気であいつを憎めるはずはない。死ぬまで虜にされてしまう。ましてや殺すことなど」
 隷歩は懐から一本の巻物を取り出した。
「この巻物が端から端まで満ちれば、俺は今のような半夜叉ではなく、本物の夜叉にしてやると約束された」
 呟いたあと、由羅の傍らに膝をついた。
「これを見るか」
「え?」
《カタログの歌》 Aria "Madamina, il catalogo e questo"
「仁兵衛が俺に書かせてきた目録だ。今まで魂を吸った女の名が全部書いてある」
「……なんですって」
 隷歩は、するすると丁寧に巻物をほどく。
「大坂では640人。武蔵国では231人。四国では100人。奥州では91人。ところが京では、もう1003人」
 由羅は呆然としている。
「公家だろうが、武家だろうが、おかまいなしに口説く。丸顔も面長も、大柄も小柄も、巨乳も貧乳も。冬は太めが、夏は痩せたのが好み」
「……嘘だわ」
「女と見れば、見境がない。何をするかは、あんたが一番よく知ってるはず」
 隷歩は立ち上がり、打ちのめされた女を冷たく見降ろした。
「忘れろとは言わない。せめて二度と会わぬように、遠くに行くんだな」


 都の外れにある村では、朝の訪れとともに、宴が始まろうとしていた。
 若い村人たちが、まもなく祝言を迎えようとする一組の男女を囲んで、楽しげに談笑している。
「見ろ、あの大勢の村娘たちを。これだけ若い女の魂を食えば、さぞかし満腹になるであろうな」
 上機嫌の常磐屋の後ろで、隷歩は物思いにふけっていた。
「すでに人の一生とも呼べないほどの遙か昔。まさに祝言の日に、俺は兄と許嫁に裏切られ、殺されかけたのだ。そのことを知ったときに、俺は人であることを捨て、夜叉に従属する道を選んだ。目の前で繰り広げられる光景は、あの古い憎しみを思い起こさせる」
 気がつくと、色狂いの主人は村人たちの輪の中に入り込み、楽しげに談笑している。
「わたくしは、大坂の生糸商人、常磐屋仁兵衛と申すもの。今日は、祝言の宴だとお見受けしました」
「ええ、私が花嫁。彼が花婿です」
 お照と乙松が頭を下げた。
「よろしければ、みなさん、今宵はわが屋敷においでになりませんか。蛍の宴を計画し、酒や肴をたっぷり用意していたのです。能の舞台も設けております」
 常磐屋は、そっと近習に耳打ちした。
「俺は、お照の魂を今夜食う。おまえはそのあいだ、乙松をどこかに遠ざけておいてくれ」
 隷歩は無言でうなずいた。
 都の豪商に招かれた村人たちは、何の疑いもなく彼の屋敷へと歩き始めた。
 乙松は、花嫁と引き離された怒りに顔を染めているが、隷歩が呪力で彼の体を拘束して、連れていく。
 その場には、常磐屋とお照が残された。
「いけませんわ。旦那さま」
「なぜだね」
「私は婚約しています。乙松という夫が」
「きみに畑仕事は似合わない。商人の妻になって着飾っているほうがお似合いだ」
「どうせ、大店の旦那様の火遊びなのでしょう」
「まさか。わたしが信じられないかね?」
 常磐屋は、彼女に蠱惑的な目を注いだまま、その指を口に含む。


 Duettino "La ci darem la mano"
あそこで手を取り合って誓いを交わそう
君はそこでわしに、ハイと言うのさ
ご覧 そんなに遠くはないよ
さあ、わしの恋人よ、出かけよう、ここから

行きたくもあり、行きたくもなし
心は少しばかりおののく
本当に幸せになれるかしら
まだ私をからかっているのでは

おいで わしのいとしい娘
わしはおまえの運命を変えてやろう

もうこれ以上 逆らえないわ
行きましょう! 私の恋人よ
けがれない愛の苦しみをやわらげるために!


 お照は完全に呪術にかかってしまい、夜叉の腕に抱かれた。
 そのとき、由羅が走りこんでくる。
「お止め、悪党! 今の話はすっかり聞きました。純情な子羊を狼の毒牙にかけるなんて、赦しません」
「ち、面倒な奴が来た」
「この男から逃げるのよ、私の二の舞になってはダメ」
 彼女の迫力に気圧されて、お照は狼狽して走り去る。そのあとを由羅も追いかける。
「くそっ。今日は厄日か。やることなすこと、うまく行かぬ」
 常磐屋がひとり地団駄を踏んでいると、そこに安子姫の駕籠と、喪服姿の安倍有雄が通りかかった。
「おお、常磐屋ではないか」
「これは……陰陽寮の安倍どの」
「姫、こちらは宮中の御用商人、常磐屋。信用のおける人間です」
 駕籠の扉がするすると開き、すだれ越しの会話が始まる。
「それは幸い。商人、ぜひ、あなたのお力をお借りしたいのです」
「……あの女、すだれのせいで、俺に気づいていないようだな」
 陰でほくそ笑んでから、彼は一礼した。
「おそれおおくも、姫君、手前にできることでしたら何なりと」
 そこに再び、由羅が現われる。
「また、女を騙しているのね。やめなさい」
 由羅は、武家の出にふさわしい威厳を持って、安子たちに迫った。
「こんな男を信じてはいけませぬ。私の次は、御方さまが騙されます」
「何を言う。可哀そうに、この女人は頭がおかしいのです。真に受けられませぬように」
 由羅と常磐屋の正反対の言葉に、安子と安倍は混乱してしまう。
 常磐屋は由羅の手首をつかみ、殺意を秘めた瞳でにらんだ。
「きいきい騒ぐな。恥の上塗りだぞ」
「かまいませぬ。冷静でなんていられないわ」
 彼の腕を振り切ると、由羅はその場を駆け出す。
「あのまま放ってはおけませぬな。安倍どの。それでは、これにて失礼を」
「あ、ああ」
「安子姫。またお目にかかりましょうぞ」
 その場を逃げるように去っていく常磐屋を、安子は呆然と見送った。
「なんてこと……」
「どうしました」
 安子はふらふらと駕籠から出てくると、道端の木の幹に凭れて、あえいだ。
「あの男よ! 父上を殺したのは、あの男だわ。私の名を呼んだ声で、今ようやくわかった」
「まさか、そんな。常磐屋は、帝も目をかけておられるほどの大商人。わたしにとっても友と呼べる男」
「間違いないわ。父上の仇は、あの男です。どうぞ誓いを忘れず、復讐をしてください」
「しかし、確かな証拠が……」
「許嫁のわたくしの言葉が信用できないの!」
 安子はそう言い捨てて、駕籠に戻り、彼を残して行ってしまった。
「やはり……姫の憎悪は常軌を逸している」
 安倍有雄は、悄然とつぶやいた。
「姫は操は守ったとおっしゃるが、わたしにはそうは思えない。身も心も奪われ、裏切られた憤怒に我を忘れておられる。あの男のことが今でも忘れられぬからこそ、かえって復讐の炎が燃えるのだ」
 彼は苦悩の目で、何かを捜し求めるように青空を見渡した。
「だが、何があっても、姫はわたしの大切な御方。ひとつの心をふたつに分けたかとさえ思えるほど、愛しい御方なのだ」


《彼女こそわが宝》 Aria "Dalla sua pace la mia dipende"
彼女の心の安らぎこそ 僕の願いです
彼女を喜ばせるものは 僕にも生気を与え
彼女を不安に陥れるものは 僕に死を与える
彼女が溜め息をつけば 僕もまた嘆きに沈み
彼女の怒りも涙も僕のもの
彼女が幸せでないときは 僕もまた幸せでないのだ


 常磐屋の庭では、蛍狩りの宴が催されていた。
 庭木のあちこちに提灯が灯され、太鼓や笛の音が興を盛り上げる。
 その華やかさの隅で、まるで場違いな存在のように、隷歩が大根をかじっていた。
「あの主と、永遠に別れる方法はないものか。だが、あいつとおさらばすれば、俺は霊気を吸えずに飢え死んでしまう」
「隷歩」
「ふん、帰ってきたか」
 常磐屋仁兵衛は、まばゆいばかりに豪奢な錦の羽織に着替えて、庭に降り立った。
「首尾はどうだ」
「お言いつけどおり、村の若衆を引き連れてきて、昼間から酒を飲ませ、大騒ぎをさせました、特に乙松は、念入りに酔わせておきました」
「上出来だ」
「ところが、宴たけなわになったとき、お照がお由羅といっしょにやって来たんです」
「ふん。そして、俺の悪口三昧か。それで、どうした?」
「隙を見て、お由羅を裏木戸から追い出し、閂をかけてしまいました」
「ふふふ。うまいぞ。これで思い通りだ。あとは俺にまかせろ」


《シャンパンの歌》 Aria "Fin ch'han dal vino"
豪華な宴を催そう
広場の娘も連れて来い
どんな種類の踊りでも
何でもいいから 踊らせろ
その間にわしは あれこれ恋を捜すのさ
明日の朝には一覧表に十人追加だ


 彼らが屋内に戻ったあと、今度は庭に、お照と乙松がやってきた。
「乙松さん、お願い」
「怒らずにいられるか!」
 酔いの勢いも手伝って、乙松は口を極めて許嫁を罵る。
「祝言の当日、他の男におまえを寝取られたんだぞ。恥ずかしくないのか、二股をかける不実な女め。昔から、おまえはそういう奴だったんだ」
「昔……?」
「ああ、ずっと昔だ!」
「そういえば、よく覚えていないけど、ずっと昔、私たちは祝言の日に、ひとりの男を手ひどく騙したことがあったわね」
「……」
「たくさんの人が死んだ。あなたも私も、あのときの罰を受けているのね」
「そうかもしれない……いや、そんなことは、どうでもいい!」
「私を信じてくれないのね、乙松さん。それなら、気の済むまでぶてばいいわ」


《ぶってよマゼット》 Aria "Batti, batti, o bel Masetto"
ぶってよ マゼット 哀れなツェルリーナを
ここで子羊のように お仕置きを待ってるわ
ぶって ぶって ツェルリーナを
髪をむしられても いたぶられても
あなたのかわいい手に 口づけしてあげるわ
どうしたの まだ怒っているの
ね ね ね 仲直りしましょう
昼も夜も 楽しく過ごしましょうよ


「まったく、女狐のような妖術を使う女だ。とことん業が深い」
 乙松があきらめたように吐息をついたとき、屋敷のほうから声が聞こえてきた。
「ああっ、常磐屋の若旦那だわ。隠れなきゃ」
「何をあわててる。さては自分の浮気心が俺にばれるのが怖いんだな」
「だめ。見つかったら、あなたもひどい目に会うわよ」
「よし隠れよう。ただし、おまえはそこにいろ。じっと見ていてやる。おまえの誠実さを試すには、ちょうどいいお膳立てだ」
 乙松は東屋の影に隠れると、常磐屋が酒と杯を手に庭に出てきた。
「さあ。みなさん、夜の宴の準備が整いました。仕切りなおしに、まずは一杯。今夜は飲み明かしましょうぞ。興が乗ったころに、能の舞台も用意しております」
 人々が酒やご馳走のほうに群がっていくと、常磐屋は素早くお照の手を取った。
「やっと二人きりになれた」
「お、お放しください、若旦那」
「いや、放さんね」
 彼はお照の髪に、長い指をかんざしのように差し入れた。
「おまえを愛している。贅沢な暮らしがおまえを待っているよ。おいで」
「ああ、乙松がこれを見たら……」
 お照は手をふりほどこうとするも、かえってなすがままになっていく。
 乙松はお照の心が完全に相手に向いていることを見てとり、常磐屋に対する憤激に燃えながら、ぎりぎりと奥歯を噛みしめている。


 その頃、屋敷の表門から秘かに、能面をつけた三人連れが忍び込んできた。
 三人とは、安子、安倍有雄、由羅である。
「仇を討つのよ」
「愛のためなら、勇気を持てる」
「不安が胸をさいなむ。神仏よ、お守りください」
 能役者のふりをした彼らは、迎えに出た隷歩に通されて、屋敷の奥に入り込む。
 能舞台の回りでは、大勢の村人たちが酒を酌み交わし、歌っていた。
「さあ、皆さん、羽目をはずして騒ぎましょう」と常磐屋。
「楽しい酒が、苦い結末になりそうだ」と乙松。
「美しいお照」と常磐屋。
「お上手ね」とお照。
「気安く触りやがって。お照もまんざらではない様子」と乙松。
「乙松が怒ってる。まずいわ」とお照。
 そのとき、能舞台に三人が現われる。
「おお。お待ちしておりました。役者の皆さま方」
「お招きにあずかり、ありがとうございます」
 常磐屋の合図で鼓や笛が奏でられ、三人は優雅に舞い始める。
「あの若い娘がお照。常磐屋は、今あの娘を狙っているのよ」
「ああ、死にそう」
「今はこらえて。決定的瞬間を待つのです」
 舞いながらも、三人は舞台の下に目を配っている。
 常磐屋は、従者に耳打ちをした。
「乙松の気を反らしておけ。俺はその隙に、お照を連れ出す」
 そして、強引にお照の手を握り、桟敷席から人けのない土蔵に連れ込む。
「ああっ。助けて」
「獲物が罠にかかったわ!」
 由羅たち三人は、能面をかなぐり捨てると、舞台から庭へと飛び降りた。
「助けよう」
「閂が下りている」
「戸をぶち壊すのよ」
 あたりはたちまち大混乱に陥った。
 中から転げるように飛び出してきたお照は、乙松の胸に飛び込む。
「乙松さん、怖かった」
「もうだいじょうぶだ」
 お照の誘惑に失敗した常磐屋は、その場を収めるために隷歩を捕まえ、「こいつが犯人」とばかりに刀を振り下ろそうとした。
「そんな猿芝居はもうやめるのね」
「その声は、お由羅」
「おぬしの行ないは、すべて白日のもとにさらされた」
「安倍どの」
「これでも言い逃れするつもりですか」
「安子姫、私は無実だ」
「黙れ、おまえの悪事は、これで都中に知れ渡るだろう。そうすれば復讐の嵐が吹き荒れる!」
「覚悟しなさい!」
「ふん、あきらめるものか」
 常磐屋は、追い詰められてなお不敵に笑った。
 そして、みなが見つめている前で、ひらりと屋根に飛び乗った。
「俺を破滅させられるものなら、やってみろ!」
 座の一同が我に返ったときには、すでに夏の夜風が彼を運び去ったあとだった。
 近習の隷歩も、いつのまにか姿を消していた。


第二幕へ





この作品は、「ドン・ジョバンニ」の二次創作です。


iTunesで、「ドン・ジョバンニ」のCDが試聴できます。↓
Anna Tomowa-Sintow, Berliner Philharmoniker, G?sta Winbergh & Herbert von Karajan - Mozart: Don Giovanni


Copyright (c) 2008 BUTAPENN.

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