「ようやく幕間となりましたわ、あなた。心臓が破裂しそうでした」 「うむ。みな手に汗握る熱演じゃったな」 「統馬は、ゴネていた割には、本当によくやっていますね。歌う気は全くないみたいですけれど」 「それに、信野と誠太郎は記憶をなくしながらも、役に置き換えて自分たちが犯した罪を猛省しておるようだ。これは良い兆候だな」 「統馬は、まだ半夜叉という呪縛から抜け出せないでいるようです。果たして無事に悪と決別できるでしょうか。やはり、あの娘が力を貸してくれそうな気がするのだけれど」 「宝賢も、最後に改心への道を選んでくれればよいのだが」 「あ、第二幕が始まりますよ」 ![]() 配役表: 常磐屋仁兵衛(じょうばんや・にへい ドン・ジョヴァンニ): 宝賢 近習・隷歩(れいほ レポレッロ): 矢上統馬 関白左大臣・近衛前継(このえ・まえつぐ 騎士長): 矢萩龍二 左大臣の娘・安子(やすこ ドンナ・アンナ): 鷹泉董子(久下の前世) 安子の許嫁・安倍有雄(あべの・ありお ドン・オッターヴィオ): 草薙 武家娘・由羅(ゆら ドンナ・エルヴィーラ): 矢上詩乃 村娘・お照(おてる ツェルリーナ): 矢萩信野 お照の婚約者・乙松(おとまつ マゼット): 矢上誠太郎 ![]() 第二幕 「今日こそは、あんたと縁を切る」 「急に何を言い出すのだ。隷歩」 「とぼけるな。俺のことを刀で串刺しにしようとしたくせに」 屋敷から逃げ出した常磐屋仁兵衛と隷歩は、人気のない街道わきの松の根元に腰をおろすと、激しく言い争いを始めた。 「俺から逃げ出し、生きていけると思っているのか」 「何とかなる。飢え死にしたって串刺しよりは、ましだ」 「隷歩。俺の味方はおまえだけだということが、わからぬのか」 耳元でささやく声は、背筋がぞっとするほど優しく、憂いに満ちている。 「何しやがる……」 「仲直りのしるしだ」 常磐屋は松の幹に両手をつくと、従者の上に覆いかぶさった。その赤い唇から漏れ出てくる大量のかぐわしい霊気に、半夜叉である隷歩は抵抗できない。 「どうだ。満足したか」 「……う」 隷歩は手の甲でぐっと口をぬぐうと、顔をそむけた。 「……今度だけですからね」 「それでよい」 常磐屋は満足そうに笑った。 「さっそく、一仕事してもらいたい」 「女のことじゃないでしょうね」 「女のことだ、阿呆。俺にとって、女は空気と同じく、切っても切れぬもの」 暗闇に光る黄金の瞳を細め、常磐屋は立ち上がった。 「お由羅のそばにいた腰元を見たか」 「知りません」 「見目はかなりのものだ。しかも若い。もうすぐ夜が訪れる。追手に囲まれ、どうせ屋敷には戻れぬ。今から俺とおまえの着物を取替え、お由羅の泊まっている旅籠に行く」 「なぜ、俺の着物を?」 「相手は、身分の低い腰元。俺の錦の羽織を見れば気後れしてしまうだろうからな。さあ早く脱げ」 旅籠の二階から、由羅が昇り始めた月を見上げている。 「これほど憎んでも、あの人を思うと胸が高鳴る。ああ心臓よ。どうか鎮まって。聞き分けてちょうだい」 「お由羅だ」 主人の錦の羽織を頭からかぶった隷歩は、ぎくりと足を止めた。 「ちょうどいい。そのまま道の真中に立っていろ」 常磐屋は、思いがけなく愉快な遊びを見つけた子どものように、物陰で笑いをこらえながら、彼女の名を呼んだ。 「お由羅。お由羅」 耳慣れた声に、由羅ははっと体を強張らせて、欄干から身を乗り出した。 「あなたなの、裏切り者」 「おまえの赦しを請いに来たのだ」 「なんということ。あの声を聞いただけで、私の心臓が私を裏切る」 「ここに降りてきてくれ。おまえに心底、惚れているのだ」 「信じないわ。嘘つき」 「信じてくれ」 揺れる心に煩悶する由羅の姿に、隷歩は次第に息が苦しくなるのを感じた。 「なんだ、この気持は……俺は、この女に同情しているのか」 「かわいそうな御方。慰めてさしあげたい」 「あわれな女だ。また騙されているというのに」 「今降りていきます」 「来ちゃだめだ!」 由羅が二階から消えると、隷歩はありったけの憎悪をこめて常磐屋をにらんだ。 「――あんたという奴は」 「あの女が来たら、俺の声色を使って向こうに連れていけ。あとはおまえの良いようにしろ。半人前のおまえでも、交われば多少なりとも女の気を吸い取れるだろう」 常磐屋が姿を消すと、由羅がおずおずと軒下から現われた。 「お前さま……信じていいのね、私の涙があなたの心を動かしたのだと。本当に私のもとに戻っていらしたのね」 「そ――そうだ」 「ひどい御方! 私がどれだけ泣いたと思っているの」 「ゆ……赦せ」 「これからは、ずっと一緒なのね」 由羅は、相手が隷歩だとも知らずにすがりつく。隷歩は、取り違えられていることを知りながら、由羅のひたむきさに打たれて、胸が熱くなるのを止めることができなかった。 ふたりが裏に消えると、常磐屋は高らかに笑った。 「今度こそ運が向いてきた。さて、呪力のこもった甘い調べでも奏でるとするか」 懐から笙の笛を取り出し、いざ吹こうとすると、通りの向こうからガヤガヤと男たちの一団がやってくる。 「みんな。もう少しだ。あいつはこの辺りに隠れているぞ」 乙松を先頭とした村の若者たちの自警団だった。手に手に鋭い鍬や鎌を持っている。村の娘たちを誑かされそうになった怒りで、常磐屋を殺そうと都中を回っているのだ。 「ち、ひとりずつなら首をへし折るところだが、あまりに多勢だ」 常磐屋は大胆にも、彼らの前に堂々と歩み寄った。 「みなさん、こんばんは。やあ、乙松」 「あんたは?」 「わからんかね。常磐屋仁兵衛の近習だよ」 「隷歩か。あの優男旦那に仕える、目つきの悪い太鼓持ち」 「そう、そのどうしようもない、ごろつきさ」 「おまえにも恨みはあるが、今はよしとしよう。おまえの主はどこへ行った? 見つけたら、ぶっ殺してやる」 「馬鹿め……そりゃ、いい考えだ。俺もあの旦那には、たんと恨みがある。それで、ものは相談だ」 常磐屋は、正体がバレていないのをいいことに、若衆たちを集める。 「手分けして捜そう。まだ遠くには行っていない。どこかの軒下で女を口説いてる奴がいたら、それが旦那だ! 錦の羽織が目印。迷わずぶった切れ」 村人たちが四散していくと、常磐屋は乙松だけを呼び止める。 「きみと俺はこちらを捜そう。ところで常磐屋を本気で殺す気かね。半殺しで十分じゃないか」 「とんでもない。八つ裂きにしても、まだ足りない」 「だが、そんな武器で、本当に人が殺せるのかな?」 「あたりまえだ。研ぎに研いだ鋤だぞ。これで十分」 「それでは試してみよう」 常磐屋は、乙松の脇腹から武器を引き抜くと、その柄で彼をめったうちにした。 「ふはは。八つ裂きだと。ふざけるな!」 ひらりと身を翻すと、夜叉はあっという間に姿を消した。 「やられた……死にそうだ」 その声を聞きつけて、お照が駆け寄ってくる。 「きゃあっ、誰がこんなことを」 「隷歩だ……くそ、なぜかあいつは初めから虫が好かなかったんだ」 「ひどい……」 お照は、恋人にとりすがって泣く。 「復讐だなんて、そんなことを考えたのが間違っていたのよ。度を過ぎた憎しみは、自分を滅ぼしてしまう」 「……」 「私たち、昔ひどい過ちを犯して、その報いを受けているわ。でも、その苦しみをせめて他の人にだけは与えないように生きなければ」 「……そうだな」 「嫉妬や復讐なんて必要ない。ふたりで、お互いを助け合い、労わり合っていけばいいのだわ」 「ああ。おまえと一緒なら、そこがたとえ地獄であっても悪くない」 「立てる? さあ、家に帰りましょう。よく利く薬をつけてあげるわ」 《薬屋の歌》 Aria "Vedrai, carino, se sei buonino" お照は乙松の体を支え、ふたりは睦まじげに去っていく。 常磐屋の着物を着た隷歩と、彼を常磐屋と信じる由羅は、村の若衆たちの松明に追いかけられ、公家屋敷のあたりまで、逃げのびてきた。 「しまった。関白左大臣の屋敷に迷い込んだか。ここは苦い思い出のある場所だ」 隷歩は、由羅から次第に距離を開けた。 「お前さま? どこなの?」 「なんとか逃げなければ。俺が仁兵衛でないとわかれば、この女に二度目の悲哀を味わわせてしまう」 戸口を見つけて逃げようとする隷歩は、入ってきた安子と安倍有雄に鉢合わせした。さらに悪いことに、追いかけてきた村人たちに取り囲まれる。 「見つけたぞ、この極悪人!」 「こんなところに隠れていたとは。天の配剤だ」 「お待ちください」 由羅が飛び出してきて、身を挺して彼をかばう。 「お赦しくださいませ、この人は、私の夫です」 「あなたは、お由羅さま!」 「なぜ、こんな奴をかばうのです。あなたも私たちとともに復讐を誓ったはず」 「どうか。お慈悲を。私に免じて」 「だめだ。こいつは死罪だ!」 「ああ。お願い。代わりに私の命を取って。この人を赦して」 泣いて懇願する由羅に、隷歩は額の呪いの種字を、両手で押さえた。 「痛い……全身が切り刻まれるようだ。こんな大きな慈悲の心がこの世にあったのか」 地面に突っ伏し、もだえ苦しみながら、隷歩は自分を覆っていた錦の衣を脱ぎ捨てた。 「おまえは――?」 「ゆるしてくれ……俺は常磐屋ではない」 「隷歩!」 居並ぶ面々の中で、一番大きな衝撃を受けたのは、由羅だった。 「私はまた、騙されたのね」 「後生だ。聞いてくれ」 隷歩は荒い息のもとで、訴えた。 「俺も常磐屋も、人間ではない。夜叉の眷属」 「夜叉だと!」 「人間の生気を食らって力を得るものだ。だから、普通の武器などで滅ぼそうとしても、無駄なこと」 「夜叉の名は、聞いたことがある」 安倍有雄が叫んだ。 「わが先祖、安倍晴明の少し前の時代、夜叉を追う一族が、我ら陰陽師に夜叉の秘伝を伝えたと聞き及んでいる」 「ですが信じられません。常磐屋仁兵衛とおまえは、その夜叉であると?」 隷歩はうなずくと、前髪の下をまさぐった。「この呪いの種字が、何よりの証拠。これがある限り、俺はあいつに逆らえない。逆らえば命をなくす」 「だから、悪事を重ねてきたのか」 「化け物め!」 憎悪の視線の中で、隷歩はまっすぐ由羅に向かって顔を上げた。 「赦してくれ。お由羅さん。あんたは――あんただけは、騙すつもりはなかった」 「赦せるものですか。偽りの姿で私を弄んだくせに!」 隷歩は力尽きたように顔を伏せる。その瞬間、彼の体は黒い煙に覆われた。 風が吹き過ぎたとき、その姿はどこにもなかった。 「まるで、翼あるもののようだ」 誰かが、呆然とつぶやいた。 「だが、これではっきりしましたな」 安倍有雄は、一同に向かって大きな決意をもって宣言した。 「常磐屋仁兵衛が、先の左大臣、近衛さまを殺した犯人。しかも、人でなく夜叉であるという恐ろしい事実」 「武器は利かぬと言っていたな。どうやって殺せばよいのだ」 「陰陽寮に戻り、さっそく秘伝を調べてまいります。必ずや、悪鬼を滅ぼす方法が見つかるはず。たとえ一命を賭しても、必ず奴に復讐してみせます」 Aria "Il mio tesoro intanto" その間に僕の恋人を 慰めてあげて下さい そして その美しいまつげの涙が 乾く時を探してあげて下さい 彼女に告げてください 僕が行って あの男の不正に復讐することを 奴が死んだという知らせだけを持って 帰って来るということを 由羅は、あまりに残酷な事実に、なお立ち直れずに途方に暮れていた。 「あの人は滅びてしまうのね。地獄の口が大きく開いて、あの人を飲み込んでしまう。いい気味だわ。でも――この苦しみは何? あの人をまだ愛しているということ?」 Aria "Mi tradi quell'alma ingrata" あの人でなしは 私をあざむき 神さま! 私を不幸にしたのです 私は裏切られ、そして捨てられたのですが それでも彼のために慈悲を請いたいのです 私が恐ろしい苦しみにあった時には 私の心は復讐を物語るのですが 彼が苦しむのを見ると 私の心は胸騒ぎを起こすのです! 夜の墓地に、常磐屋の哄笑が反響した。 「ははは。誰が捕まるものか。いざとなれば、東国へ落ちのびて、また女を食らってやる」 満月が空を真昼のように明るくしていた。 「気持の良い夜だな」 月と呼応したような黄金に光る瞳であたりを見回していると、その隅にぼろくずのような黒い影を見つける。 「隷歩か」 「あんたは……どこまで人の心を傷つければ気がすむ」 獣のように四つんばいになり、髪を振り乱して、隷歩は主に向かって憎憎しげに歯を剥き出した。 「以前、あんたは言った。戦を起こして、大勢の人間を殺すのは好まぬと。だが、あんたのやることは、それ以下だ。女たちの清らかな心を食い尽くして、死ぬより辛い苦しみに追い落としている」 「何をすねているのだ。隷歩。ははあ。腹が減って力が出ないのだな」 「俺はあんたから解き放たれたくて、何度も人間にあんたを売った。お由羅をあんたのところに導いたのも、陰陽師たちを屋敷に引き入れたのも、そのためだ。あんたさえいなければ、俺は――」 「何を言っている」 常磐屋は乾いた笑い声を上げると、草履で従者の頭をぐいぐいと踏みつけた。 「人間に対する恨みで気が触れ、俺のもとに夜叉の力を求めに来たのは、どこのどいつだ。俺が滅びれば、おまえとて霧のように滅びてしまうのだぞ。俺とおまえは未来永劫、一蓮托生だ」 「もう、金輪際従うものか」 「巻物が満ちれば、すぐに夜叉にしてやるぞ」 「そんなものには、なりたくない!」 隷歩は、懐に大切に持っていた巻物を取り出すと、びりびりに引き裂いた。 「はは。愚かな。そんなことをしても、その種字が額にある限り、おまえは決して自由にはなれぬ!」 そのとき寺の扉が、ひとりでにギギと開いた。 奥に厳然とそびえるのは、この寺の本尊、毘沙門天の立像だった。 その立像の目が、射し込む月の光を受けて、ぎろと光った。 【その笑いも今宵かぎり】 さすがの常磐屋も、それにはぎくりと肩を引いた。 「な――なんだ、今のは」 【死者には平安を 悪者には審きをあたえよ】 「誰だ!」 剣を抜きながら、寺の中に入っていく。 本尊像の前には、大きな真新しい位牌が供物といっしょに置かれていた。 「これは……おや、左大臣・近衛前継の位牌だな」 そのそばには、朱文字が記された木の卒塔婆が立つ。 【私を殺した悪党を ここで待ち 復讐する】 「ふはは。ふざけた老いぼれだ。それほど俺に会いたいのなら、明晩の宴に招待してやろう」 あたりは死の静けさに染まっている。 「どうだ。来るか。俺の宴に」 それは、月の光のいたずらであったのか。毘沙門天の立像の首がこっくりとうなずいた。 安倍有雄は、いまだに悲しみに伏せる安子のもとに赴き、必死に訴えた。 「どうぞ、お気を確かに。陰陽寮の全員で、夜叉の調伏法を調べております。必ずや、あの男は罪の報いを受け取ることになる」 「でも、父上は戻っては来ません」 「失われた命を取り戻すのは、叶わぬこと。だが、あなたが悲しみ続けることは、お父上の魂をどれほど嘆かせていることか。どうぞ私の手に、あなたの悲しみを癒せとお命じになってください」 「何を言うの。こんなときに汚らわしい」 安子に手を跳ね除けられ、高貴な若者はじっとその痛みに耐えた。 「あなたは、まだわたしを苦しめるのですか。決してわたしに心を許してはくださらないと?」 「あなたの情けは、今のわたくしには重荷なのです」 「やはり、あなたは今でも、あの男を想っておられるのか」 「いいえ――いいえ!」 ふたりは、無言で見つめ合う。 Aria "Non mi dir, bell'idol mio" おっしゃらないで 私のあこがれの方よ 私があなたに冷淡だなどと どんなに私が愛しているかご存じでしょう それに私の真心も あなたの苦しみを鎮めてください、もしあなたが より深い悲しみで私が死ぬのをお望みにならないなら! きっといつの日か 天は私を憐れみをたれたもうことでしょう 常磐屋仁兵衛の屋敷。 奉行による門の封印を取り払い、堂々と宴の準備がなされている。 「最高の酒と馳走。音楽。金をかけたのだ。おおいに楽しむぞ」 常磐屋は、自らの滅びの予感に臆することもなく、用意された料理に舌鼓を打っていた。 隷歩は、座敷の隅の板間で、捨て犬のようにうずくまっている。 「隷歩。腹が減って動けぬのだろう。俺の足元に来てひれ伏せば、霊気を吸わせてやるぞ」 「……御免だ」 「飢えて死ぬつもりか」 「……」 「ふん。勝手にしろ」 そのとき、雅楽の演奏がぴたりと止んだ。由羅が庭に飛び込んできたのだ。座敷の常磐屋を認めると、彼女は上がり框に両手をついた。 「これが最後のお願い。あなたにはもう何も望まない。ただ、今までの悪事を悔い改めて、神仏に祈って!」 「なにを馬鹿なことを、俺の女房にでもなったつもりか」 「ひどい。死ぬほどの思いで来たのに」 身をよじって懇願する由羅を見て、隷歩はうめいた。「なんと、哀れな人だ」 「後生だから、悔い改めて」 「結構!」 「なんと、哀れな人たちだ」 隷歩の目じりに、もう何十年と枯れていた涙が浮かんだ。 「誰も、自分の気持の行く先が見つからない。情けも憎しみも、受け止められずに灰になってしまう。この世にこれほどの苦しみがあるだろうか」 「今に天の審きが下るわ」 「それがどうした。女の魂こそ最上の酒。女は使い捨ててこそ、男の勲章。愛など無力だ。俺はこの両手で、この世のすべてを支配する」 由羅が嘆きながら去ったあと、表で大きな悲鳴が響きわたった。 地鳴りのような揺れ。 それがだんだんと近づいてきて、ひょいと鴨居をくぐったのは、あの寺にあった毘沙門天の立像だった。 両手に剣を持ち、鼻腔から憤怒の蒸気をあげる。その目は爛々と光り、審きをくだす相手を見つめている。 【常磐屋仁兵衛。宴に招かれたので参上した】 「まさか本当に来るとは思わなかったな。だが歓迎しよう。もうひとり分の料理の用意を」 しかし、使用人は誰も答えない。隷歩のほかは、すべて彼を見捨てて逃げてしまったのだ。 【聞け。今度はわしがおまえを招待しよう。わしとともに来るか】 「ははは」 夜叉はのけぞって、不敵に笑った。 「俺が臆するとでも思っているか。老いぼれ。おまえなど、恐れはせぬ」 【答えよ。わしと来るか】 「行ってやろうじゃないか」 「だめだ!」 隷歩は残されたありったけの力で叫んだ。「逃げろ。行ってはいけない」 「もう決めた」 「由羅の言うことを聞いていなかったのか。天の審きに会うんだ。永劫の苦しみに!」 「行くといったら、行く」 【それでは、手を】 立像の手を握った常磐屋は、思わず振りほどいた。 「なんと冷たい」 【それが命なき者の有様だ。今一度問う。悔い改めるか】 「冗談ではない」 【これが最後だ。天の慈悲を請え】 「ハハ」 【天の慈悲を】 「俺は、慈悲など要らぬ」 「仁兵衛、行くな!」 座敷全体を地獄の炎が包んだ。 「ぎゃあああっ」 常磐屋は、絶叫した。 「亡霊が俺の襟をつかむ。地獄の炎が俺を包む」 【今こそ、地獄の扉が開いた】 「苦しい。体が千切れそうだ」 【おまえには、もっと大きな罰が待っている】 「仁兵衛!」 隷歩は、とっさに常磐屋の着物の裾をつかんだ。だが、吹き上がる炎の力に跳ね飛ばされる。 常磐屋の叫びが幾重にも木霊して、消えていく。 たちまち地獄の門は閉じ、あたりは静寂に包まれた。 大勢の人間が、門から飛び込んできた。 安子姫、安倍有雄、由羅、乙松、お照。 「これはいったい――!」 「常磐屋はどこに行ったの」 「遅かった。もう消えてなくなった」 隷歩は横たわったまま、うめくように言った。 「なんだと。どういう意味だ」 「俺には、うまく説明できん」 「説明しろ」 「左大臣の亡霊が毘沙門天の像に乗り移り、ここにやって来て、常磐屋仁兵衛を地獄の炎の中に飲み込んでいった」 「なんと!」 「父上が!」 「おお、不思議なことだ」 Finale "Ah! do've il perfido?" これが悪人の末路 邪悪な人生を送った者は その死の時に報いを受けるのだ それぞれ口々につぶやき、座敷を歩き回り、頭をかきむしる。受け入れがたい現実を受け入れるには、かなりの時間が必要だった。 「いとしい御方」 陰陽師はようやく気持の整理をつけると、そっと許嫁の肩に触れた。 「復讐は天がなされた。今度はわたしにお慈悲を。もうこれ以上待つのは耐えられません」 「そのことは」 安子は首を振り、涙に濡れた瞳を上げた。憑き物が落ちたような、澄んだ瞳だった。 「もう一年待っていただけませんか」 「――あの男を忘れるために?」 「そうではありません。ただ、いろいろと考えたいのです。この世のはかなさ。そして人間の心の醜さと尊さについて。そんな大切なことを、わたくしは今まで何も考えずに来たような気がするのです」 「わかりました。愛する人の願いならば、断れる道理がありません」 「私は」 その横で、由羅はぽつりと呟いた。 「髪をおろして、尼になります。もう家にも帰れませんもの。操をなくした武家の娘の行き先は、たかが知れています」 「僕たちは、家に帰ろう。たとえそれが地獄であっても」 お照と乙松は、手を取り合って微笑み合う。 「そう言えば、俺は――」 今はじめて気づいたかのように、隷歩が身を起こした。 「なぜ、俺は生きているんだ。半夜叉は、仕える夜叉が滅びれば、ともに滅びる運命なのに」 思わず額に手をやると、そこに浮き出ていたはずの種字がない。 「隷歩さん。あなたは人間に戻ることができたのですわ」 由羅は彼のそばにひざまずいて、微笑んだ。「天のお慈悲です。私の身を思って泣いてくださったあなたの心が、御仏を動かしたのです」 「お由羅さん……」 「ありがとうございます。あなたのお陰で、私はもう一度、人生をやり直す力を得ることができました」 人々は、常磐屋が消えていったという壁の奥に目を向けた。 「とうとう今度も、あの人は救われることがなかったのですね……」 不思議な縁で結ばれた彼らも、やがて離れ離れになり、それぞれの家路を辿ることになる。 時は秋。 手甲脚絆の旅装束で、腰元とともに田舎道を歩む由羅のはるか後ろから、折烏帽子の若者が、こっそり尾いていく。 「俺も主人をなくしたばかり、新しい主に仕えねばならぬからな」 晴れやかな声で呟くと、若者は高い空の下をのんびりと歩き始めた。 |