インビジブル・ラブ


金網


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Chapter 4-3



 犯行のあったマンションの403号室は、鑑識の捜査も済み、ひとりの制服警官が警備に当たっているだけだった。
 中に入れてもらうと、都築と愛海のふたりは、殺害現場のベッドルームに立った。
「被害者は、確か158センチ、50キロだ」
 都築警部はメモを見ることもなく、すらすら言った。
「小潟くん、きみは?」
「156センチ、45キロです」
「被害者は、26歳。きみは?」
「……に、28歳」
 愛海は口をとがらせて、言いにくそうに答えた。
 正直、驚いた。愛海はもうそんな歳だったのか。
 もっとも、ノンキャリアの警官が刑事になれるのは、どんな真面目に勉強しても三十前だと聞いたことがある。
 愛海は以前、同期の中では出世頭だと自慢してたもんな。
「本居沙希さんときみとは、だいたい背恰好も似てるわけだ」
 都築警部は、無表情にそう言った。
「よし、それじゃ、そのベッドに仰向けになって、寝たふりをしてくれ」
「ええっ?」
「気分が良くないのはわかるが、同じことを二度言わせるな。さっさとやる」
 都築は、白い手袋を手にはめ、カーテンを開いた。ちょうど死体発見時と同じ状態だ。
「犯人がこの部屋に侵入したのは、午前三時半から四時のあいだ。カーテン生地にガラスの破片が付着していたことから、侵入時にカーテンは閉まっていたことは確実だ。犯人がわざとカーテンを全開にした。なぜだかわかるか?」
「わかりません」
「月明かりを部屋に入れるためだ。おとといの夜は満月だった。暗闇に慣れた目なら、懐中電灯がなくても、室内を見るには十分だったろう」
「はい」
「M市の婦女暴行殺人事件も、やはり満月の夜だった」
 都築警部は、苦い口調で言った。
 もう一度うながされて、愛海はしぶしぶベッドに向かった。
「犯人侵入時、被害者はベッドの上でぐっすり眠っていたと思われる。玄関の監視カメラの映像によれば、帰宅は8時ごろ。胃の中の内容物の消化具合から、食事は帰宅前に済ませていた」
 愛海はおそるおそる仰向けになると、手を前で組み、目をぎゅっと閉じた。
「被害者の気持を想像しながらやってくれ」
 ベッドがきしむ音に気づき、愛海はうっすらと目を開けた。
 部屋を満たす月明かり。
 そして、自分の上にゆっくりと男の黒い影がかぶさってくる。
「きゃあっ」
 都築警部は、すばやく愛海の身体の上にまたがると、本当に首に両手を当てた。
 愛海は苦しがって、足をバタバタさせて蹴飛ばそうとする。
 このふたり、本当に犯人と被害者になりきってやがる。
 ようやく、俺は気づいた。
 愛海と都築警部は、似た者同士なんだ。思い込みが激しいところなんか、まさにそっくりだ。
 やがて、愛海の蹴りが、都築の腹にヒットした。
 彼がうめいて、思わず手を離したすきに、愛海はくるりとベッドからころげ降りると、ふらふらと玄関に向かって、逃げ始めた。
「そこで、ストップ!」
「え?」
 愛海は、怪訝そうに振り向いた。
「きみは今、玄関に逃げようとしたろう」
 都築警部は、汗だくになった首のネクタイを少しゆるめながら、ベッドから床に降り立った。
「なぜ、そっちに逃げた」
「だって、あたりまえです。誰だって逃げるとしたら玄関を出て、階段を使って――」
「じゃあ、被害者はなぜベランダに向かったんだろう」
 確かにそうだ。
 どんなに暗くても、気が動転していたとしても、本居沙希にとっては自分の家。
 玄関とベランダの位置を間違えるはずはない。
 ここは四階で、飛び降りたら命がない。ベランダから逃げるよりは、誰だって玄関から逃げることを選ぶだろう。
「ま、待って。もう一度やります」
 愛海は、ふたたびベッドに仰向けになり、今度は反対側にくるりと降り立った。
 そして、ベランダに向かおうとする。
 都築警部もベッドから降りると、その後を追いかけ、愛海の喉を、後ろから腕ではがいじめにした。
「きゃあっ」
 愛海は、また鋭い悲鳴を上げる。
 いったい何ごとかと、入り口からひょいと中をのぞきこんだ制服警官が、見てはいけないものを見たという表情をして、あわてて顔をひっこめた。
 ヤツの位置から見れば、都築警部が愛海に後ろから抱きついているように見えただろうな。
 事情は知っているものの、ずっとふたりのからみ合いをそばで見ている俺も、……なんだか複雑な気分だ。
「犯人に首を絞められながら、ガイシャは懸命に窓を開けようとした」
 都築の声に、愛海は窓に顔を押しつけて、もがきながら、ガラス窓を懸命に開こうとする。
 膝立ちになり、顎が上に上がる。
「月が……」
 愛海は、恍惚とした声でつぶやいた。
 被害者の心情になりきった愛海の目には、最後に被害者が見たにちがいない、幻の月が映っていた。

「結局、なぜ被害者がベランダに逃げようとしたのか、わかりませんでした」
 車に戻る途中、愛海が悔しげに頬をふくらませた。
「焦ることはない。いったん南原署に戻ろう」
 都築が言った。
「本部長に報告をすませたら、僕は本庁に戻ってくる。きみはそのあいだ、家に帰って仮眠を取るといい。今晩もう一度、聞き込みだ」
「はい」
「それと」
 都築警部は、眼鏡の奥の目を少し細めて、愛海を見た。
「どこかで夕飯を、いっしょに食べないか?」

 ふたりは夕方に落ち合うと、都築の行きつけのイタリアンレストランで食事をとった。
 行きつけがイタリアンだと? くそ、金持ちめ。
「警部は、東大法科卒なんですね」
 愛海がグラスを傾けながら、言った。もちろん勤務中なので、グラスの中身はミネラルウォーターだ。
「くわしいな」
「南原署の少年課に、独身男性情報センターがあるんですよ」
「そいつは、初耳だ」
「で、由香利って言うんですけど、その子から聞いてくれと頼まれたんです。なぜ国家公務員一種を取って、キャリアにならなかったんですかって」
「試験勉強がめんどうくさかっただけだよ」
「一種と二種では、出世のスピードが全然違うじゃないですか。私たちノンキャリア組から見たら、どちらもうらやましい限りですけど」
「僕は、退職までずっと現場に出ていたかったんだ」
 都築警部は、コーヒーカップを手に天井を仰いだ。
「どこかの警察署長を歴任して、県警本部長や局長で終わる、デスクワークの人生よりはね」
「うーん、それもカッコいいと思いますけど」
「現場一筋のほうが、面白い人生だと思わないか」
「そんなもんかなあ」
「ところで、きみはうまそうにメシを食べるんだね」
「だって、こんなご馳走、久しぶりなんですもん。いつも365日、判で押したようにコンビニ弁当ですから」
 子どものようにはしゃぎながらデザートを頬張る愛海を、彼はじっと見つめている。
――都築警部は、愛海に惚れてる。
 百発百中の結婚詐欺師の勘だ。
 そして、この様子だと愛海のほうも、まんざらではないみたいだ。

 八時ごろ被害者のマンションに戻った都築警部と愛海は、まず「坂井」というプレートがはまった部屋を訪ねた。本居沙希の部屋の真上にあたる。
 チャイムを鳴らしてしばらくすると、小太りの男がドアを開いた。
「南原署の刑事課の、小潟と言います」
 愛海がドアチェーン越しに、警察手帳を見せた。
「403号室で起きた事件のことで、少しお話をうかがいたいんですが」
「ああ、やっぱり何かあったんだ」
 男は目を丸くして、まくしたてた。
「帰ってきたら玄関のところに警察官が立ってるから、何が起きたかと思ってましたよ。強盗ですか?」
「いえ、殺人です」
「さ、さ、殺人?」
 男は、愛嬌のある目をさらに丸くした。
「坂井さんは、昨日早朝から出張なさっていたそうですね」
「はい、あの、ちょっと待ってください」
 チェーンをはずして、ふたたびドアを開けると、坂井はふたりの刑事を招じ入れた。
 動作が、1.3倍速のビデオを見ているみたいに、せかせかしている。
「ちらかってて、すいません」
 言葉どおり、部屋の中はカバンの中から取り出したばかりのシャツや下着、仕事で使ったと見られる書類やノートパソコンが雑然と放り出されていた。
 出張に行ったということばには、嘘はないようだ。
「あ、あの、僕はですね。昨日の朝9時の飛行機に乗るために、6時半にここを出て」
 サイフの中をごそごそと探している。アリバイを証明するための、チケットの半券を探しているのだ。どうやら自分が犯人だと疑われていると、早合点したらしい。
 愛海たちは、坂井の差し出した半券を一応確認すると、「実は」と本題に入った。
「被害者が殺されたのは、昨日の朝、午前4時前後と推定されています。その時間、坂井さんは何をしておられましたか」
「え、午前4時なんですか。えーと」
 坂井はしばらく首をひねっていたが、神妙な顔で答えた。
「この部屋で、出張の用意をしていました」
「そんな時間にですか?」
「はい。おとといは帰宅が12時過ぎになってしまい、それから出張先のデモで使う資料やデータをパソコンで整理してました。終わったのは4時半過ぎだったかな。それから寝て、6時半に出なきゃいけないもんだから、目覚ましを三つかけて……」
「4時前後、階下から何か話し声や物音を聞きませんでしたか?」
 愛海は勢い込んで、たずねた。
「なんにも聞こえませんよ。線路に近いから、ここのマンションはけっこう防音が効いてて……」
 そこまで言って、彼はみるみる蒼白になった。
「き、聞きました。そういえば、女の人の声を」
 都築と愛海は、全身を緊張させた。この二日間、粘って粘って何も出てこなかった聞き込みで、ようやく求めていた情報に当たったのだ。
「何と言っていたかわかりますか?」
「『お父さん』……て」
「なんですって?」
「も、も、もしかすると聞き間違いかもしれません。でも、確かにあのときは、はっきりと……」
「それは、どの方向から聞こえましたか」
「わ、わかりません。もしかすると隣の部屋からかもしれません。あのとき僕は、出張に持っていく替えの靴下を探してて、ベランダに干しっぱなしの洗濯物があったのを思い出して……」
「では、ベランダにいらしたときに聞こえたんですね」
「はい。そうですよ。さっきから何回もそう言いませんでした?」
 ひとことも言ってないぞ。
 聞き込みとは大変な仕事だ。あいまいな証人の記憶を、一本ずつ糸をほぐすように聞き出していかねばならないのだから。

 結局、坂井の証言をしつこく確認した結果、こうなる。
 午前4時15分ごろ、坂井はベランダへ洗濯物を取り込みに出た。
 そして、『お父さん』という女の声を聞いた。
 かなり弱々しい、かすれた声だったが、それでもはっきりと間近に聞こえたという。
 403号室から聞こえたものかどうかは、自信がない。
 それから都築警部と愛海は、周辺住民への聞き込みをやり直した。住民たちの家族構成を調べ、当時刻に誰かが『お父さん』という声を出した可能性がないかどうかを、念入りに調べたのだ。
 そして、その結果、その可能性は限りなくゼロに近いことがわかった。
 つまり、被害者の本居沙希が、犯人に窓際に追い詰められたときに「お父さん」という声を発した可能性が、限りなく大きいということだ。
 ふたりは、さっそく捜査本部に一報を入れた。
 夜遅くにも関わらず、南原署には大勢の刑事たちが集まり、捜査全体を揺るがす新情報に耳を傾けた。
「ガイシャの父親、本居信夫は、ガイシャが小学六年生のときに失踪しています」
 本居沙希の家族から事情を聴いていた刑事が、報告した。ホワイトボードに、『本居信夫・48歳』という文字が書きこまれる。
「高層ビル工事の足場組み立て専門の作業員――いわゆる、『足場トビ』という職についていました。14年前に家族から家出人捜索願いが出ていますが、現在も行方不明のままです」
「とび職か。雨どいを伝ってベランダへ侵入するなんて、お手のものだろうな」
 捜査員たちは、みな一様に押し黙った。
 想像したくもない地獄絵図が、頭に映し出されたのだ。
 本居信夫は、14年前に家族を捨てて失踪した。
 そして14年後の今、東京に現われた。
 M市の殺人との関連はまだわからないが、もし関連があるとしたら、同じく婦女暴行を目的に、屋上からベランダに忍びこんだのだ。仕事柄、48歳という年齢にしてはずいぶん身軽だったろう。
 そして、ベッドに寝ている本居沙希を、暴行しようと襲った。
 月明かりの中、14年ぶりに見る実の娘を、彼は見分けることができただろうか。
 目を覚ました娘のほうが先に、父親だということに気づいたかもしれない。
 どれほど、ショックだったことだろう。我を忘れて父親をののしったに違いない。そして、逆上した父に、首を絞められた――。
 もし、これが事実だとしたら、救いようのない事件だ。
「でも、もしかすると」
 愛海はいたたまれずに立ち上がった。きっと愛海は、そんな地獄を一秒だって想像したくないに違いない。
「もしかすると沙希さんは、無我夢中で救いを求める意味で、『お父さん』と叫んだのかもしれません」
「母親の話によると」
 さっき報告した刑事が、沈うつな表情で答えた。
「ガイシャは、自分たちを捨てた父親を恨んでいたそうだ。会ったら殺してやるとまで言ったことがあるという。そんなガイシャが、死ぬ間際に父の名を呼んで助けてほしいと思うだろうか?」
 愛海は、力を失ってすとんと腰を落とした。
「被害者の父親、本居信夫を重参(重要参考人)と特定する。行方と足取りを徹底的に捜査してくれ」
 捜査主任が本部方針を決定すると、男たちはまたそれぞれの捜査へと散っていった。
 会議室に残ったのは、愛海と都築警部だけになった。
「なんで、こんなことになっちゃったんですか」
 愛海は、グスグスと目をハンカチで押さえている。
「父親が娘を襲ったうえに、殺したかもしれないなんて。こんなの、あんまりです」
「真実を見つけ出すことが僕たちの仕事だ。たとえそれがどんな真実であっても」
 都築警部も、深いため息を吐いた。「因果な商売だな」
「……だって、私には、信じられません」
 愛海の声は、とぎれとぎれだった。
「父親って、娘が無条件に可愛いものでしょう」
「そうじゃない父親もいるってことだよ。きみはよほどいいお父さんに恵まれたんだな」
「はい……三人の兄のあとに生まれた末娘だったから、すごく可愛がってくれました。もっと親孝行しておけばよかった」
 涙で喉が詰まり、あとが続けられない。
 都築は、愛海の肩に手を乗せた。
「すまない。亡くなったお父さんのことを思い出させてしまったな」
「え?」
 愛海は、きょとんとした顔で問い返した。
「うちの父は死んでなんかいませんよ」
「え。だって」
「70歳と少々年食ってますけど、ばりばり元気です。元気の秘訣は週一回のパチンコと、美人の師匠がやってる詩吟教室」
「そ、そうだったのか。早とちりした」
 警部は目を白黒させている。愛海のノリやすい性格に、さすがのこいつも戸惑っているようだ。
 どうでもいいが、ドサクサにまぎれて、愛海の肩を抱き続けるのはやめろ。
 愛海もなぜ、手をふりはらおうとしないんだ。
 俺は愛海の頭を霊指の力で小突きたいのを、必死に我慢した。

 愛海はそれからというものの、日付が変わってからマンションに帰り着く激務が続いた。
 被害者の父親、本居信夫は、いまだ行方がわからない。現場周辺の目撃証言もまったくない。
 五年前に都内の建築現場で働いていたという情報を最後に、ぷっつりと足取りが途絶えていることが、調べでわかった。
 その五年の間に、信夫はドス黒い悪の道に足を踏み入れたということなのか。
 愛海は、捜査に身が入らないようだった。
 実の父親に殺されるのは、いかに娘にとって、むごいことか。被害者が死ぬ間際に感じただろう恐怖と絶望に、深く同情してしまっているのだろう。
「フニちゃん、ただいま」
 真っ暗な部屋に電気を点けて、愛海はすり寄ってきた三毛猫のわき腹を、足先でチョンチョンと、くすぐってやった。
 それから、コンビニの袋をテーブルの上に、どさっと置く。
「新製品の『ビーフストロガノフうどん』、もうなくなってたよ。やっぱり味がイマイチだったし、売れ行き悪かったのかなあ。だから今日は、『おでん風味トルティーヤ』を試してみるんだ」
 語尾が少しずつ小さくなってくる。気がつくと、ソファに座り込んでしまった。
 キュッと唇を噛みしめている。愛海のうなだれた横顔は、何かにじっと耐えているようだった。
 俺はいったい、何をしてるのだろう。
 ケンカしたとか、『バカ』と言われたとか、もうそんなこと、根に持ってるわけじゃないのに。
 愛海が今にも泣き出しそうなんだ。
 ここで姿を現して抱きしめてやらなきゃ、男じゃねえぞ、水主淳平!
 俺が決意したときだった。携帯が鳴り出したのは。
 愛海はバッグの中から携帯を取り出すと、意外そうな顔をした。
「都築さんから? なんだろう」
 急いでメール画面に切り替えたとき、愛海の口元がほころんだ。
 そこには、こう書いてあったのだ。

『帰りぎわ、元気がないように見えた。
明日は直行ということにしておくから、ゆっくり来ていい。
相談したいことがあれば、いつでも電話をくれ』

 愛海は、キーをすばやく押すと、携帯を耳に当てた。
「あ、都築警部。メールありがとうございました」
 それは、とても穏やかな声だった。
「ご心配かけて、申し訳ありません。……はい、だいじょうぶです。明日は時間どおり行きますので」
 短い会話を終えると、愛海は驚くほど元気に、ソファから立ち上がった。
「さ、フニちゃん、お待たせ! ごはんあげるね」
 俺はぼうぜんとして、愛海の様子を見ていた。
 また仲直りのチャンスを逃してしまったという後悔だけではない。ここまで来て、はっきりと認めざるを得なくなったのだ。
 俺は、都築警部にぜったいに勝てない。
 かたや、元結婚詐欺師のチンピラ。かたや東大法科卒で、金持ちで、将来を約束された準キャリアのイケメン警部。
 俺には、愛海を一流のイタリアンレストランに連れて行ってやるなど、永久にできっこない。
 ああ、そんな比較をすることすらバカらしい。
 俺は死んでる。将来なんてない。
 愛海を抱くことも、結婚することも、子どもを産ませてやることもできない。
 人間と幽霊との恋に、将来なんてないんだ。
 そのとき、俺の体の中心に、黒いものがぼんやりと渦巻いているのが見えた。
 霊体というのは文字通り、むき出しの霊が形を取ったものだ。その中に、どうしようもない汚れたものが生まれ始めているのを、俺は気づいたのだ。
 ようやく、『はざまの世界』で、あの平安貴族が言っていた言葉の意味がわかった。
 やつの言ってた『邪念』というのは、愛海にキスしたり、愛海の裸を見て喜んだりすることじゃない。
 本当の邪念というのは、誰かが『いなくなってしまえばいい』と願う、醜い心のことだった。
 あのとき、彼の忠告を聞いていなかったら、俺は間違いなく今、都築が消えることを心から望んでいただろう。

『その愛海という女人のそばに、いるのはよかろう。ただし、邪念を捨て、ひたすら見守ることに専念するのじゃ』

 それはつまり、愛海が都築警部と恋をする一部始終を、黙って見守っていろということなのか?

 翌日、定刻に南原署の捜査本部に出勤した愛海は、少し興奮気味の都築警部に迎えられることになる。
「科研の報告が来た。ベッドに落ちていた体毛の中に、O型のものがまじっていたそうだ」
「え……被害者は」
「A型だ。そして、父親の本居信夫もA型だ」
「それじゃあ……」
「犯人は父親じゃない可能性が出てきた、ということだ」
 愛海はそれを聞いて、歓声を上げると、都築警部に抱きついた。
「お、おいっ」
 警部は顔を真っ赤にして、硬直している。
 俺はなすすべもなく、愛海のうれしそうな笑顔を、じっと目に刻みつけていた。





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