インビジブル・ラブ


校舎


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Chapter 6-4



 わかったのは驚くべきことだった。
 平石が校長を務めていた昭和51年から55年は、いわゆる、「校内暴力」のハシリで中学や高校が荒れ始めた時代だった。
 K高も例外ではなかった。毎日どこかの窓ガラスが割られ、教師が殴られたり授業をボイコットされ、生徒同士の恐喝も日常茶飯事だった。
 そんな時期に校長を四年も務めていた平石が、どれほどの心労にむしばまれていたかは、想像がつく。管理職の常で、下からは小突き上げられ、上からは無理難題を吹っかけられていただろう。
 平石校長の最後は、風呂の中で心臓発作を起こしての溺死だった。
 今ならば「過労死」として認定されるだろう。家族の話によれば、「生徒たちがときどき怪物に見える。恐い」とよくこぼしていたそうだ。
「やりきれないね」
 愛海はそうつぶやきながら、涙ぐんでいる。
 人と人との関係を学ぶはずの学校で、互いを信じ合えない。これほど悲しいことがあるだろうか。

 その夜、俺は愛海を家に残してK高に向かった。
 月明かりに照らされた校舎は、黒々とそびえたち、まるで巨大な廃墟のようだ。
 コンピュータ・ルームに近づいたとき、どこからか生臭い風が吹きつけてきた。
 そう言えば、薬物乱用防止教室で最初にK高に来たとき、これと同じものを感じた。なぜ今まで忘れていたのだろう。
 いや、おそらくは忘れさせられていたのだ。
「平石校長。話がしたいんだ。出てきてくれ」
 俺はまた宙に向かって呼びかけた。
「教えてほしいんだ。あんた本当は、この高校の生徒たちを憎んでいるのか?」
 沈黙の中で、空気がびりびりと静電気を帯びるような震動が始まった。
 部屋の白い壁の一角に、暗い影がとぐろを巻き始めた。
「きみとは理解し合えると思ったのに、残念だよ」
 嘲るような声とともに、平石が姿を現した。
「あのふたりの女生徒のデマを裏サイトに書き込んだのは、あんたなのか」
「当然のことだよ。自分たちの犯した罪の大きさを知らせるためには、この方法が一番だ」
「あんたのしたことは、やり過ぎだ!」
 俺は叫んだ。
「いくら言い聞かせてもわからない腐った生徒を野放しにしては、学校全体が腐ってしまうからね」
 平石は高飛車に笑った。
「これでも、K高が校内暴力から守られているのは、わたしの数々の裁きのおかげだと自負しているのだがね」
「裁きってなんだ。何をした」
「学校の禁止しているバイクを乗り回していた二年生には、交通事故を起こさせた。重傷を負って、もっと大きな過ちが未然に防げたよ。カンニングをした生徒には、ちょっとひどい病気になってもらった」
「そんなことまでやっていたのか、あんたは」
 恐怖に全身がわななく心地だった。
「あんたのやっていることは、教育じゃない、ただの処罰だ!」
「この国では、教育などとっくに崩壊しておるよ、水主くん。三十年前からね」
 平石校長の温和だった顔が、だんだん醜く崩れ、骸骨のように歯がむき出しになった。
「きみと私が同じ正義を分かち合おうなんて、土台無理な話だった。ハハ。しかたないか。正体はケチな結婚詐欺師だったんだからな」
「あんたって人は……」
 やりきれない思いに言葉が出てこない。
 俺にとって平石校長は、心を割って話すことのできる最初の幽霊仲間だった。
 苦い思い出ばかりだと思い込んでいた高校生活にも、本当は楽しいことがたくさんあったことを思い出させてくれた人だった。
「あんたは間違ってる。学校は罪を裁く場じゃない。たとえ過ちを犯しても何度でもやり直しができるのが、学校というものじゃないのか」
「黙れっ。そんな理想論をふりかざす奴らのせいで、教育者たちはボロボロに身も心もすり減らしていったんだ!」
 俺の霊体は、次の瞬間すさまじい衝撃を感じた。
 平石校長はすでに鬼と呼べる姿に見えた。面変わりした顔はどす黒く変色し、大きく裂けた口から膨大な霊力が放出される。俺はまともにその突風を食らったのだ。
 もう死んじまってるくせに、死を恐がるなんて変な話だが、そのとき俺は心底から死の恐怖を感じた。
 とっさにありったけの霊指の力をこめて、殴りかかった。攻撃は最大の防御というわけだ。
 平石は俺の鉄拳をモロに受けて、窓の外まで吹っ飛ばされた。
 俺も窓ガラスをすりぬけ、地上に降りた。
 満月が、煌々と校庭を照らしている。
 その蒼白い明るさの中で、平石は巨大な、うごめく影と化していた。
 こんな恐ろしい怪物を仲間だと信じて、俺は行動をともにしていたのか。何も気づかなかった自分への怒りも手伝って、俺はふたたびヤツにがむしゃらに組みついた。
 あとで考えれば、ずいぶん身のほど知らずなことをしたと思う。
 妖怪の体は、おぞましい燐光を立ち昇らせていた。組みついたところから、とほうもない邪悪なエネルギーが流れこんでくる。気を許すと、霊体がバラバラに分解しちまいそうだ。
「水主。おまえだって、友だちを憎んでいただろうに」
 平石は逆に俺の体を押さえ込むと、嘲るように笑った。「覚えているぞ。17年前、中退の手続きに来たおまえが、この校庭で同級生たちと偶然会ったときのことを」
「なんだと」
「憎悪と嫉妬とが入りまじった醜く卑屈な心。ああ、あれは愉快だった」
 空気がめらめらと燃え上がったような気がした。
 あのときの俺を、こいつは見ていたのか。そして、あざ笑っていたのか。
「ちくしょう!」
 気がつくと、校庭の隅で、ぼろぼろの塊がうずくまっていた。
 いつのまにか、俺が平石の幽霊を完膚なきまでに叩きのめしたらしい。そのときの俺は猛烈に腹を立てていたから、いったいどうやったのか、記憶があいまいだ。
「な、なぜ、おまえなどに……」
 かつて校長だった化け物は、ぜいぜいとあえぎながら憎憎しげに言った。
「あんたは確かに不幸な時代に居合わせたのかもしれない」
 俺は妙に冷めた口調で言った。「だが、あんたのやっていることは決して学校や生徒を良くしてるとは思えねえ。かえって、違う種類の暴力を味わわせ、心を傷つけているだけじゃないか」
「うるさい、こざかしい屁理屈を!」
 立ち上がる余力もないと思っていた平石は、いきなり俺に飛びかかろうとした。
 そのとき、俺の背後から黒い影が走った。
 その手に握られている日本刀が、月の光にきらめいたかと思うと、平石校長に突き刺さった。
『オン バザラヤキシャ ウン』
 呪文のようなものを唱えたかと思うと、平石の体はずぶずぶと地面に吸い込まれるように消えていった。
 あとには、何も残らなかった。
「あ、あんたは――」
 影の正体は、「久下心霊調査事務所」で以前に会ったことがある、性格は悪いがおそろしく顔のいい若い男だった。
 彼は振り向いて、俺をキッと凄い目でにらみつけた。
「この阿呆!」
 次の瞬間、俺の横っ面が張り飛ばされていた。
 幽霊同士ならともかく、人間が幽霊を殴るとは、なんという一般常識のない奴だ。
「ど素人のくせに、夜叉と戦うなど何を考えている」
「夜叉?」
 彼の話によれば、平石校長の幽霊は、いつのまにか夜叉という化け物に変異していたらしい。
 最初は、自分を追いつめた校内暴力を学校からなくそうと純粋に思っていた。しかし三十年間学校にいるうちに、邪悪な思いに取りつかれてしまった。
 一部の非行傾向のある生徒たちに復讐することで、どす黒い喜びを得るようになったのだという。
「霊や人間の身勝手な思いが高じて、夜叉が生まれる。おまえとて、あのまま怒りに我を忘れていれば、いつそうなっても不思議ではなかった」
 そう言えば、太公望からも釘を刺されていたな。邪悪な存在には決して近づくなと。
「俺は危ないところだったのか」
「そうだ。おまえについていた夜叉の気配に詩乃が気づかなければ、間に合わなかった」
 男は、少し和らいだ視線を俺に向けた。「草薙に宛てた巻物をずっと持っていたろう」
「あ、ああ」
「あの巻物の霊力が、おまえを守っていたようだ。あれを持っている間は、夜叉はおまえに手出しができなかったからな」
「そうだったのか」
 だが、それだけ真相にたどりつくチャンスを逃していたことになるわけだ。俺が平石の正体に早く気づいていれば、あの女生徒たちも助かったのに。
「自分の力を過信するな。もう二度と、ひとりで夜叉と戦おうなどと考えるなよ」
「ああ」
 そのまま俺は、矢上統馬と別れた。
 後で聞いた話だが、奴は詩乃という女とは夫婦らしい。つまりあの若さで小太郎の父親ということだ。
 あるとき詩乃のそばでポツリとつぶやいたそうだ。
「俺はいつか、あの男を斬ることになるかもしれぬ」

 何日かして、俺は久下心霊調査事務所を再訪した。
「あら、水主さん、いらっしゃい」
 ファックスの機械から現われた俺を、矢上詩乃は親しげに迎えた。幽霊をこれだけ歓待してくれる場所も珍しい。
 統馬は俺を一べつすると、にこりともせずにキャビネットの向こうに行ってしまった。まったく、ひとかけらの愛想もない。
 赤ん坊はと見ると、昔風のワラの揺りかごの中で寝ていた。その手には、白い狐のぬいぐるみを握っている――と思ったら、ぬいぐるみの長い尻尾がぴょこんと動いた。
「草薙?」
「おお、淳平ではないか」
 白狐は仮の姿、その実体は平安貴公子の草薙は、小太郎の小さな掌から抜け出て、机の上に飛び乗った。
「して、今日は何の用じゃ」
「ああ、いろいろ世話になったので、ひとこと礼を言いたかった」
「ふむ。邪悪な気配も、身辺からすっかり消え去ったようじゃの」
「あんたに渡した、あの巻物の効力だったらしい。おかげで助かった」
「それは何よりじゃ」
「ところで、あの巻物、いったい中に何が書いてあったんだ?」
 俺でなくとも、少し好奇心があるヤツなら、絶対に知りたいと思うだろう?
「なんじゃ。あれだけ長い間持っていながら、中を全然見とらんのか」
「他人宛のものを、無断で覗くようなマネはしねえ」
「それは惜しいことをしたのう。あられもない姿のむちむちギャルが、いっぱいだったのに」
「……なんだと?」
 要するに、それは「春画」だったらしい。なんでも、江戸時代の有名な絵師の手になる、とても貴重なコレクションの一巻だとか。
「おい、待て」
 俺は叫んだ。「じゃあ俺は、その春画の霊力で命の危機を救われたってのか。納得いかねえ!」

 愛海はその翌日、石崎由香利とともにK高に赴き、校長や教頭に、学校非公式サイトの実態とこの数日の状況を説明した。
 ふたりの女生徒が出会い系サイトで売春をしたという書き込みは根も葉もないウソであること、これ以上裏サイトでの書き込みがエスカレートすれば、警察としても厳しく対応していくことなどを話した。
 もちろん、書き込みの犯人がK高に巣食っていた校長の幽霊だったことは内緒だ。
「これで、あの子たちも学校に戻ってこれるね」
「まだわからないよ。イジメというのは陰湿な形で尾を引くからね」
 でも、と由香利はつぶやいた。「大人たちが子どもを守ってやらなきゃ、誰も守ってあげられないからね。がんばるわよ、少年課も」
「うん」
 驚いた。たまにはこいつも、いいことを言うじゃねえか。ふたりで固い握手を交わすところなど、まるで真面目な警察官だ。
 俺たちは校舎の外へ出た。木立の陰でヒグラシが寂しげに鳴き交わし、季節はすぐに夏だった。
 平石校長の幽霊は、もういない。
 この学校に30年住み着いていた執念が、憎悪だけのものとは思いたくなかった。きっと学校を愛する気持も強かったはずだ。だからこそ、ふたつの気持の矛盾に引き裂かれてきたのだろう。
 俺もきっと同じだ。俺の中には、母校を愛する気持と憎む気持がせめぎあっている。だからヤツと共鳴したのかもしれない。
 俺は、平石校長を忘れない。愛海に覚えられていることで、俺は救われた。だから、今度は俺が、平石を覚えていてやる番だ。
「あの……」
 玄関のわきを掃いていた初老の男が、愛海に話しかけてきた。
「突然すいません。わしは、この高校の校務員で石橋といいますが」
「はい」
「刑事さんが、水主淳平のことを調べていると小耳にはさみまして」
「えっ」
 愛海は息を飲んだ。もちろん、俺もだ。
「あの子のことで、話したいことがあるんです」
 よく見れば、石橋のおっさんじゃねえか。俺が在学していたとき、この人はすでに校務員だった。勤続二十年にはなるはずだ。
 由香利は気を利かせて、「外で待ってるね」と行ってしまった。
「水主は、親父さんの葬式以来ずっと学校を休んでいました」
 校務員のおっさんは桜の木を見上げ、一語ずつ切りながら、ゆっくりと話し始めた。
「家もいつのまにか引っ越してしまい連絡が取れずに、同級生たちは奴のことを、とても心配してくれとったです。校庭や廊下で集まっては、奴を気づかっていました。もし水主が学校に顔を見せたら、夜中でも日曜でもすぐに連絡をくれるように、わしはくれぐれも生徒たちから頼まれておりました」
 石橋のおっさんは、ぐしゅっと手の甲で鼻をこすった。
「最後に奴が退学手続きに来た日、わしはすぐに子どもたちに電話しました。家の近い子が数人、駆けつけてきて、校庭で水主と出くわしました。だが奴はひとことも言わずに、逃げるように走り去っていきおった」
「……」
「あの時はきっと、親しい友だちがみんな敵に見えたんでしょう。それきり、水主とは一度も会えませんでした」
 シワだらけの頬にきらりと光るものがあった。
「奴がもし生きていたら、わしは伝えてやりたかったです。みんな、おまえのことを心配していたんだぞと」
 校務員はぺこりと頭を下げて、去っていった。
 その老いた背中を見つめながら、俺は昨日のことのように、あの頃を思い出していた。
 部活が終わったあとの夕焼け。焼けた砂埃の匂い。歓声を上げながら仲間たちと競い合うように水道の蛇口に走ったこと。
「俺は……ばかだ」
「淳平……」
「なんであのとき、逃げ出さずにひとことでも……俺は、大ばかだ!」
 幽霊になって初めて、俺は声をあげて泣いた。



     chapter 6 終






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