インビジブル・ラブ


ピアノ


BACK | TOP | HOME


Chapter 7-1



「ベッドが熱ーい」
 愛海がごろごろと転がり出すと、それは俺に来いという合図だ。
「またかよ」
「だって、気持いいんだもん」
 地球温暖化対策で、できるだけエアコンを我慢するのが公務員の責務だというのが彼女の自論だ。しかも、防犯のため窓は絶対に開けたまま寝ない。
 熱帯夜ともなると、頭に保冷剤入りの鉢巻を巻いた八つ墓村スタイルで寝ても、どうしても寝苦しくてたまらなくなるらしい。
「せっかく幽霊と同居してるんだから、もう少し涼しくさせてくれてもいいじゃん」
「ようし。そんなに言うなら、内臓が傷口からはみだした、ぐちゃぐちゃ血まみれの姿で毎晩、枕元に立ってやる」
 などという冗談の末に思いついたのが、この方法だ。
 何のことはない。ベッドに横たわっている愛海の体を、霊指の力で20センチくらい持ち上げてやるのだ。
「涼しーい。背中の下を扇風機の風が通り抜けて、まるでぷかぷか空に浮いてるみたい」
「おまえはいいが、霊指の力を使い続けるのも、けっこう大変なんだぞ」
「淳平、愛してるぅ」
「まったく、口ばっかり」
 少しくらい役得がないと、やってられるもんか。
「ああん、淳平。どこ触ってるの」
「気にするな。風の妖精のいたずらだ」
「ひゃあ。これじゃあ、ますますアツくなっちゃうよ」
 出会ってから一年半。俺と愛海は、こんな相変わらずの毎日を送っていた。
 ミュージカル騒動や、K高の裏サイト事件で忙しかった7月が終わり、残りの夏はそれなりに平穏無事だった。
 まあ刑事の「平穏無事」というのは、一般人とはだいぶ違うけどな。
 南原署では、8月に入って、二件の傷害事件が起こった。だが、いずれの場合も被害者本人や近くの人がしっかり目撃しており、犯人はすぐに逮捕された。
 コンビニ強盗の件では、警視庁の捜査一課から都築警部が、他の署轄で起きた事件との関連を調べに来た。
 都築警部は、連続婦女暴行殺害事件のとき、捜査本部で愛海とコンビを組んだイケメン警部だ。
 相変わらずスマートにスーツを着こなす気に食わない奴だが、自分のキャリアや才能をひけらかさないところは、たいしたものだ。
 眼鏡の奥の目が、さりげなく愛海に注がれているところを見ると、いまだに愛海のことをあきらめきれないのかもしれない。
 こいつと恋人になれば、愛海は幸せになれるだろうに。奴をふって、幽霊の俺を選んじまうなんて、正直サイアクの選択だと思う。
「今からでも、遅くないぞ」
 と憎まれ口を言いたくなってしまう。でも、心の中はやっぱり嬉しいのだ。
 好きな女に惚れられるほど幸せなことが、この世にあるだろうか。俺の不運なところは、それが生きている間じゃなかったことだけだ。
 というわけで、事件の数の割りには出動回数が少なく、比較的平穏だった刑事課は、交替でまとまった夏休みを取ることができた。
 だがしかし。
「海は絶対にゆるさねえ」
 行き先のことで、俺たちはさんざんモメた。黙ってすましていれば極上の美女の愛海。水着姿でひとりで海水浴場をかっぽしようもんなら、ナンパのビッグウェーブに会っちまう。
「だって、私の名前見てよ。『海を愛する』って書くんだよ。夏くらい海へ行って思い切り泳ぎたいよ」
「だめだ。今日から『愛山』に改名しろ」
「お相撲さんになっちゃう……」
 結局、俺が折れて、近郊の海に行くことになった。
 ただし、真っ黒な海草が浜のあちこちに打ち上げられ、海の家も閉店しているような、うんとさびれた海水浴場を選んだことは言うまでもない。
 男どもに、プロポーション抜群の愛海のビキニ姿を拝ませてなるものか。これは、俺だけのものだ。
 それでも、よだれを垂らして近寄ってくる野郎はいるもので、俺は霊指のシャベルで砂浜に特大の落とし穴を掘りまくった。
 海中では、愛海の周囲に護衛艦のようにクラゲを配置してやった。
 愛海は海のない土地で生まれ育ったため、余計に海が好きなんだそうだ。
 泳ぎはお世辞にも巧いとは言いがたいが、足が届く程度の浅瀬でチャポチャポ楽しそうにやっている。
「人魚みたいな気分にさせてやるよ」
「あ、淳平」
 俺はふわりと愛海の体を抱きかかえた。
 水を飲まないように仰向けの姿勢で、きらきら光る波を蹴立てて、沖のほうまで運んでやる。
「わあ、きれい。水が冷たくて気持いーい」
「な、岸とは全然海の色も違うだろ」
「あっ。魚の群れが体に当たった」
 シンクロナイズドスイミングみたいに手足を上げたまま進んでいく愛海を、浜辺の監視員が目を丸くして見ている。

 海に行った次の日は、埼玉県の愛海の実家に里帰りした。
 正月のときより、ずっと静かだった。三人の兄一家とは休みが合わなかったらしい。
 ステテコ姿の父親は、三毛猫のフーちゃんを膝に乗せながら、高校野球のテレビ観戦に夢中になっている。母親が麦茶にアイスクリームを浮かして、愛海に渡した。クリームソーダならぬ、クリーム麦茶だ。
「おいしーい。なんでか家の麦茶でないと、この味は出ないんだよねー」
「でしょー」
 愛海の摩訶不思議な食べ物嗜好は、親ゆずりなのだと確信する。
「それはそうと、こないだ言ってた彼とは、どうなったの?」
 マッターホルンみたいに尖ったスイカを勧めながら、母親が訊ねた。
「ん。まだ付き合ってるよ」
「そんなら、一度うちに連れておいでよ」
「うちにねえ」
 愛海は、口から吐き出したスイカの種を皿に一粒ずつ並べ始めた。「いいけど、お父さんとお母さんって、霊能力あったっけ」
「は?」
 晩は、そのまま泊まることになった。
 愛海の家はけっこう古く、部屋の四隅には、蚊帳用の吊り輪が取り付けてある。
 緑色の蚊帳に囲まれて寝るというのは、東京育ちの俺には初めての体験だ。
「いいもんだな」
「涼しいでしょ。エアコンも要らないし、究極のエコだよ」
 愛海はごろごろと布団の上で寝返りを打って、はしゃいでいる。
「それに蚊帳の中って、すごく安心感があるの。昔は、雷も落ちないし、泥棒もお化けも入って来ないんだって信じてた」
「他のはともかく、幽霊は入ってこれるみたいだな」
 愛海の上にのしかかる。
「ほら、こんなふうに体をくっつけても、暑くならない。幽霊との恋こそ究極のエコだ」
 俺たちは、さんざんキスをした。

 休暇の最終日は、都心を満喫することになった。
 デパートでぶらぶら買い物をして、食事をしたりしているうちに、愛海がふと心配そうな顔になった。
「一度、署に顔を出してみようかな」
「休みは今日までだろう。なんかデカい事件があれば、携帯が鳴るさ」
「でも、一度も顔を出さないってのも、何か言われそうだし」
 刑事部屋の男たちは、休みの間もちょくちょく署に顔を出している。要するに、ワーカホリックで家に居場所のない奴らなんだから、真似なんかしなくてもいいのにと思うが、唯一の女性でダメ刑事の烙印を押されている愛海は、つい気を使ってしまうのだろう。
 昼食後、地下鉄で二駅の南原署に向かった。
 昼下がりの刑事課は、人影もまばらだった。
「加賀美係長も、木下さんも出勤のはずなんだけどなあ」
 愛海はきょろきょろと部屋を見回している。
「捜してきてやる」
 俺はひょいと、壁をすり抜けた。
 案の定、係長と警部補のふたりは男子トイレで連れション中だった。どうせ、こいつらの行き先なんて、そんなもんだ。
 貧弱なモノなど見たくないので、出て行こうとしたら、ぼそぼそと奴らの話し声が聞こえてきた。
「意外だったな」
「ああ。あの小潟がな」
 愛海の悪口か。そう思って聞き耳を立てていると、加賀美係長は、さらに声をひそめた。
「わかってるだろうな。おまえの役割を」
「……もちろんだとも」
 木下警部補は、しぶしぶという低い声で答えた。
 いったい何の話をしているんだ? 愛海の相棒の木下が、何の役割を果たしているというのか。
 ふたりはそれきり口を利かず、ぶるぶると体を振るわせて小便を終えた。
 加賀美係長は手も洗いやがらねえ。愛海に、これからは奴に近寄るなと注意しとかなきゃ。
 戻ってきた加賀美係長と木下警部補の席に行って挨拶をした愛海は、例によって「いい男を見つけたか」とセクハラまがいのイヤミを言われた。
 自分の机に戻って、積み上げてあった通達や連絡書類に目を通していると、いきなり後ろから声がかかった。
「小潟くん」
「わっ」
 立っていたのは、佐内刑事課長。まじでビビった。幽霊でさえ驚かすとは、まさに背後霊だ。
「休暇中じゃなかったのかね」
「あ、あの。近くまで来たもので」
「そうか。それはちょうどよかった。実は今朝の朝刊で、こんなものを見つけてね」
 新聞記事のコピーを机に置く。A4版の紙を手に取った愛海は、目をまんまるに見開いた。
「ピ、ピ、ピオッティ涼香が来日!」
「その人って、水主淳平事件の容疑者のひとりだよね」
「ほい、いえ、はい!」
「事情聴取には、良いチャンスじゃないかと思ってね――木下くんにも言っといたんだが、聞いてないかね」
「いえ、まだ」
「まあ、きみはまだ休暇中だからね。気を使ったんだろう」
 課長は手を上げて、くるりと立ち去った。「まあ、がんばってくれたまえ」
「聞いた、淳平!」
 デカ部屋にいた連中が不思議そうに振り向いたので、俺はあわてて愛海の口を押さえた。

 ピオッティ涼香。
 俺が結婚詐欺を働いた被害者。いまだ事情聴取に至っていない最後のふたりのうちのひとり。
 そして、ローマ在住のピアニスト。超一流の有名人だ。
 彼女は留学中にイタリア人と結婚し、すぐに不仲になって離婚した。だが別れた後も、夫の苗字を名乗り、向こうで生活している。
 外国人にも覚えやすい名と、ミステリアスな東洋の美貌で、スズカ・ピオッティはあっというまにヨーロッパで有名になった。
 俺が涼香に会ったのは、日本での凱旋公演を控えてイタリアから帰国したときだ。
 クラシック音楽評論家という触れ込みで涼香に近づき、数回の食事で信用を勝ち取った。
 この話をすると、愛海は不服そうに口をとがらせた。
「だって、向こうは音楽のプロなんでしょ。評論家だなんて嘘を、どうして見破れなかったの」
「バレないように、死ぬほど勉強したからな」
 ありとあらゆる音楽史や評論の本を漁り、クラシックのCDは吐くほど何度も聴いた。ピアノの練習まで励んだ。
 詐欺師としての俺の自負は、「本物より上のニセもの」になることだ。
 涼香が日本の音楽業界に疎いことも計算づくだった。印刷屋を雇い、実際の音楽雑誌に評論を載せているように偽装もした。
 彼女と音楽の話をするのは、楽しかった。ずぶのド素人の俺が、プロのピアニストを完璧にだましおおせているのだと思うと、背筋がぞくぞくした。
 ゆっくりと時間をかけて男と女の関係を結ぶと、俺は新しい芸術振興協会を立ち上げるという計画を打ち明けた。涼香はもちろん二つ返事で、450万という多額の金を出資してくれた。
 もう少し無心しようかと思っていた矢先、運悪く、別の評論家が涼香に接触した。それは俺が寄稿していたはずの音楽雑誌の主宰者だったわけだ。
 彼女が大慌てで連絡を寄こしたときは、俺はすでにマンションを引き払って、逃亡した後だった。
「ほんとにっ。そんな悪いことばっかして、殺されても文句は言えないよね」
 愛海は、俺の詐欺の話を聞くたびに、いちいち本気で腹を立てている。
「まったくだ」
 俺はたぶん、後ろから刺されて殺されたときも、刺した相手を恨みはしなかったと思う。
 そうされて当然のことを、俺はしてきた。
 涼香は才能にあふれた女だった。目もとを強調する濃いアイライン。繊細な絹糸でできた日本人形のような髪。
 クラシックの本場ヨーロッパで名声を勝ち取った才能と努力は、並大抵のものではなかったはずだ。
 なのに俺はヒルのように彼女に取りつき、その生き血をむさぼったのだ。
「けど、涼香を容疑者だとするのは、ちょっと無理があるんじゃないか」
 罪悪感のためか、つい彼女をかばうような口調になる。
「普段は海外に住んでて、演奏会のあるときだけ来日する。しかも来日中は、練習でほとんど缶詰だ。俺を捜し出して殺す暇なんか、ないはずだ」
「それがね」
 愛海は暗い顔で答えた。「淳平が殺された二年前の一月、彼女は来日してるの。しかも、そのときコンサートのスケジュールはなかった」
「本当なのか」
 この数年、涼香の演奏会の回数がめっきり目に見えて減っていることが、俺は気になっていた。
 事実、この二年間、日本で演奏会は一度も催されていない。だから愛海たちは、事情聴取がしたくてもできなかったのだ。
 愛海は一度、イタリアへ出張させてくれと係長に直談判したことがある。
 もちろん、係長からはあっさりと鼻で笑われた。そりゃイタリアロケなんて、二時間ドラマだって開局五十周年スペシャルでもなきゃ無理だぞ。

 新聞によれば、演奏会のスケジュールは10月の初めということになっている。
 愛海は大ファンと称して、涼香の所属する音楽事務所に何度も電話して、来日予定を聞き出した。
 9月の初め、木下警部補とともに成田に赴き、ローマからの到着便を待ち受けた。
「話しかけないんですか。木下さん」
「怪しい行動を取らないかどうか、最初はまず尾行だ。警戒されては元も子もないからな」
 涼香に会うのは、四年ぶりだ。
 少し痩せたかもしれない。あのときは30歳前半で、服装にも奔放な雰囲気が漂っていたが、今はドレスもアクセサリも化粧も、すっかり落ち着いて大人びたものを選んでいる。
 昔だました女に会うたびに、俺は自分の目を疑う。女というのは、歳月の恵みも残酷さも合わせ飲んで、絶えず変化する生き物なのだ。
 音楽事務所のよこした迎えの車に乗り込んだ涼香を追って、木下と愛海の車も出発した。
 結局どこにも寄り道することなく、車はまっすぐに都心に向かい、皇居近くの一流ホテルに着いた。
 さりげなくホテルのロビーに入り込み、彼らがカウンターで手続きをする間にチェックインの部屋番号を突き止めた手腕は、さすがに刑事だ。
 事務所のマネージャーが打ち合わせを終えて部屋から出て行ったのを見計らって、木下と愛海は扉をノックした。
「誰?」
 不機嫌そうな涼香の声が返ってくる。
「南原署の者です」
 しばらくの沈黙のあと、ふたたび「何の用」と声がした。
「水主淳平をご存じですね。いえ、自称音楽評論家の中杉俊作と言ったほうが、あなたにはわかりやすいでしょうか」
 さっきよりも、もっと長い沈黙があった。
 やがて軽い溜め息とともに、かちりと鍵の開く音。
 扉が薄く開き、刑事たちの顔を確認すると、ドアガードが外れた。
「お入りください」
 言葉は丁寧だが、あからさまに顔をそむけている。「水主とやらいう男がどうしたんですか。殺した犯人が見つかりました?」
「いいえ、まだです」
 木下警部補が答えながら、睨みつけるような目で涼香を見る。
「今日は、そのことについて、あなたにもう一度事情をお聞きしたいと思いまして」
「ふうん。ということは私を疑っていらっしゃるのね」
 顎をつんと上げながら、涼香は微笑を浮かべた。「どうぞ。おかけになって」
 刑事たちは、勧められるままにソファに腰を落ち着けた。
「被害者が殺された二年前の1月24日、あなたは日本におられましたね」
「ええ」
「少し調べさせていただきましたが、その前後の数週間、あなたには演奏会やテレビ出演などのスケジュールは一切なかった」
 涼香は、天井に視線を這わせている。
「日本滞在の目的は何だったのですか」
「自分の故国に帰るのに、特別な目的が必要ですの?」
「いえ、決してそんなことは」
「友人たちと久しぶりに会い、旧交を温めていました。それだけです」
「水主淳平とお会いになったということは?」
「ございませんわ!」
 キッと眉を吊り上げると、木下と愛海をにらみつけようとした。
 だが、その次の瞬間、彼女はぽかんと口を開けた。
「……中杉くん」
 とつぶやき、涼香が呆けたような表情でまっすぐ見つめていたのは――。
 愛海の背後。つまり、俺の霊体が浮かんでいる場所だったのだ。






NEXT | TOP | HOME

Copyright (c) 2006-2009 BUTAPENN.